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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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ブルーハワイから曇天へ

2017年9月10日 公開

富山は一年のほとんどが曇天だ。快晴がない代わりに土砂降りもそれほどなく、雪も他県の人が思っているほどは降らない。

2000年代半ば、東京で雑誌編集の末端に棲息していた20代の頃、私は正月の帰省の際に、故郷の富山へと向かう特急列車から裏日本の風景を眺めるのが好きだった。東京駅から上越新幹線に乗車し、山間部の新潟・越後湯沢駅で降りて、石川・金沢行きの特急列車自由席に乗り換える。ゆっくり座って帰りたいので、新幹線の連結の時間に混雑する特急を一本見送るのが常だった。

ホームで黒い山肌と白い雪のはっきりとしたコントラストを見つめながら、いつも30分ばかし次の特急を待った。足元から寒さがじわりじわりと身に沁みて、髪の毛が湿気でくるくると内巻きになってくる。到着した特急列車に誰よりも早く乗り込み、日本海が見える進行方向右の窓際のベストポジションを確保。それから、祖母への土産の「東京ばな奈」と、歯が欠けそうなほどに堅い母の好物の煎餅、父の夕食になるであろう穴子寿司を荷物棚の上に置いた。

富山には日本一の堤高を誇る黒部ダム、落差日本一の称名滝、そして寒ブリ、ホタルイカ、白エビを育む天然生け簀の富山湾がある。水資源の豊かな県として知られているが、その恩恵を受けているはずの私は、ダムも滝も川もため池も、前世はドザえもんで朽ち果てたのだろうと思うほど大の苦手としていた。水底の漆黒に引きずり込まれそうで、とにかく怖いのだ。

しかし陰鬱な冬の日本海だけは別腹だった。深津絵里になるはずがサモ・ハン・キンポーみたいになった髪をとかしながら、当時はよく「この先、どうなるんだろう」とぼんやりと考えながら、新潟から富山の県境に広がる日本海を車窓越しに眺めていたものだった。

外では波しぶきの不穏な重低音が轟いているに違いなく、決して近づきたくはなかったが、遠巻きに見ている分には心が安らいだ。果てのない灰色の風景が、はっきりさせたくなかった私の行く末を、どこまでも曖昧なままにさせてくれたからだろう。

一方で東京の冬はというと、ブルーハワイをバケツでぶっかけたような青空ばかり広がっていた。私はその下を歩くことが苦痛でならなかった。北陸特有のどんよりとした気候で、なおかつ娯楽も少ない富山という地は、転勤・移住してきた人たちにとっては鬱を誘発させるなどと言う人もおり、またずっと暮らしている人たちにとっても、自律神経を乱す厄介な場所であるらしかった。

しかし私にしてみれば、東京の冬のドピーカンのほうが居心地が悪かった。羞恥心なきまでに開放的な空、ダイレクトに突き刺さる日差し。「なぜにそれほど、スッポンポンなまでに青いんだバカ野郎。もっとひた隠せ!」と腹が立った。

結婚もせず、未だ親の庇護を受けて東京でモラトリアムを謳歌していることが、白日のもとに晒される気がして不快だった。しかし私は「何かしら大物」になるという、捉えどころのない野望を抱えて東京に出てきたのだ。「映画監督になりたい」「雑誌編集者になりたい」と、次々と目標を鞍替えしながら、未だどこにも着地した実感を得ないまま富山に逃げ帰るわけにはいかない。自分が自分に失望することだけは避けたかった。

暗雲立ち込める空の下、人影もまばらな、ひんやりと冷たい富山駅に降り立つと、いつもそこには父がいた。「おーい」と軽く手を振り、ニコリと笑って出迎える父の皺の深さと、薄くなった頭頂部にホロリとした。

父は真面目に働けば働くほど、律儀に借金をこさえるような人だった。ギャンブルやタバコは一切やらないし、酒は飲むが浴びるほどではない。娘の私が知る限りは女遊びもしない。しかし優秀な技術者だった祖父から受け継いだ精密機械の工場を、ひたすらコツコツと傾かせた。

そんな愚直な父に、母は「コケーッ ! コッ! コッ! コッ!」と、雌鶏の鳴き声のような罵声を浴びせ続けた。昔から派手な夫婦喧嘩をしょっちゅうしていたが、夫の稼ぎに見切りをつけた母は、私が小学校にあがる頃に薬剤師として自立し、薬局を開業。それからは母の一人勝ちとなった。

自宅に電話が掛かってきた時も、「奥様でいらっしゃいますか?」と相手が聞けば、「この家に奥様はおりません。主人は私です!」と電話を叩き切った。自宅のローンを支払っている主人は母だけとなり、よって「この家から出て行け!」というセリフを言う資格があるのも母だけとなった。「おう、こんな家なんか出てってやるわい! その代わり、玄関の前にキレイな段ボールの家、作って住んでやるからな……」そう捨て台詞を吐いた父が家を出て、段ボールを組み立てることはなかった。母もまた、父を真剣に追い出すことはなかった。

私はそんな情けない父が好きだった。ヒステリックでスパルタな母よりも、トホホ感を万年まとっている父の方が不憫でならず、私ぐらいは味方でいようと思っていた。よっぽど母の方が不憫だったことを知るのは、もっとずっと後になってからだ。

帰省のたび、富山駅でうらぶれた父の姿を見るとホッとした。「ああ、あんなに老けちゃって……」と悲しくなるより前に、「ああ、まだそんなにハゲ散らかってはないのね……」と妙に安堵した。冬の日本海と曇天、そして情けない父の3点セットは、互いに寄り添うようにテッパンの寂寥感をもたらした。

何でもあるようでいて「何もない」東京に疲弊するのとは違い、故郷には切ない「寂しさ」がちゃんと存在していてくれた。それはこの地を出て行った者が抱く一方的な郷愁であり、傲慢さでもあったのだろう。だが私はその「寂しい富山」を糧に、東京での20代を生き長らえたのだと思う。

遠くにありて想うものだった故郷が、暮らしの基盤になってからもうすぐ10年が経とうとしている。2008年、東京で何者かになろうとあがくフリにも限界が訪れ、29歳になる年に私は「都落ち」した。今となっては座禅を組んでポクポクポク……と頭を捻らないと、東京に住んでいた6年間の記憶は蘇ってこない。あれほど執着していた町だったのに。

そしてすっかり「中の人」になった気でいる私は、外から眺める「寂しい富山」をもう味わうことができなくなっていた。だがそれは、富山自体にも大きな変革があったからだ。それは、富山市が全国に先駆けて推進してきたコンパクトシティ化計画と、2015年3月の北陸新幹線開業だった。

2007年、青森市とともに国から「中心市街地活性化基本計画」第一号に認定された富山市は、「郊外への人口流出に伴う財政難の解消、超高齢化社会と環境保全」に対応すべく「コンパクトな街づくり」に本格的に着手した。大正時代から走るノスタルジックな市内電車(市電)にあわせ、2006年には鉄道路線だった富山-岩瀬にヨーロッパ式の次世代型路面電車「ライトレール」を敷き、さらには中心市街地・総曲輪(そうがわ)に周回路線を開通。「交通の利便性を高めるとともに、街なかでは人の流れを取り戻すべく大規模な再開発がなされた」らしい。県民に親しまれてきた「大和」「西武」といった大型デパートが閉店するかわりに、商業施設「総曲輪フェリオ」、多目的広場「グランドプラザ」が次々と建設された。

2008年に私が富山に戻ってきた時、総曲輪周辺は一変していた。大阪の大学に進学し、その後に上京して以来、約10年の空白の時間があるのだから無理もない。「えらく発展したな」という感慨もあったが、しかしそれよりも「まったく知らない風景なのに、どこかで見たことがあるような気もする」という奇妙なデジャヴ感に襲われた。それは、かつてここにあった風景の名残を感じたからではなく、なんだか「東京のどこかで見たことがある」気がしたからだった。

 

※この連載は毎月第2、第4月曜日に掲載します。

題字:著者/写真(バナー&文中/07年当時の富山駅):「駅への旅・駅からの旅」

(つづく)