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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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都落ち独身に住む家無し

2017年10月9日 公開

2008年、29歳になる年に富山へと帰郷した私は、家業である薬局に事務員としてお世話になることになった。戻ってきてすぐに仕事を与えられるという環境は大変恵まれているにもかかわらず、私はそれをなかなか受け入れられずにいた。

しかし私なんかよりも、都落ちしてきた未婚のアラサーで、処方箋にハンコのひとつもロクに押せない「社長の娘」という、微妙すぎる新人を受け入れる羽目になった薬局の職員さんの方が、よっぽどうろたえただろうと思う。シャチハタと実印の違いすら分からなかった私は、自分のポンコツさを払拭しようと、まだ「東京で雑誌編集をやっていました」風を吹かせようとしていた。

かつての同級生たちはほとんどがすでに既婚者か、結婚しようとしていた。帰ってきた当初は「アンタが戻ってきたら楽しくなるわ」と歓迎し、飲み会を頻繁に開いてくれたりした。しかし東京への未練を隠さず、「私でなくてもできる仕事をやらされている」と舐めた口をきく私に、次第に友達も「だったら何で戻ってきたんけ?」「仕事があるだけありがたいと思われよ」と苛立ちをみせるようになった。

私は私で、「結婚はどうするん? 一生、自分探しするつもりなん?」と会うたびに問いただされ、「婚活しなさいよ」「子供産むのにはリミットがあるんだから」というありがたい忠告に辟易するようになった。

国勢調査が始まった1960年以来、富山は不動の「持ち家率全国1位」だ。一住宅あたりの延面積は全国4位(平成25年)、勤労者世帯の貯蓄額も全国5位(平成26年)と全国トップレベルであり、「富山県民はコツコツとお金を貯めて、家に大枚をはたく」「越中ひとつ残し」(倹約して大きな財産を残す)と昔から言われているのはたしかに嘘じゃないのだろう。

所帯を持った子供たちのために、親が新居の頭金を払うという話もよく聞き、「結婚して、家を建てて、子供を育てる」ということは、多くの県民にとって至上命題であるかのようだった。

そんな富山へ都落ちしてもなおくすぶり続け、気もそぞろに薬局の仕事をやり過ごす従業員および娘に対し、母は「ふざけるな」と烈火のごとく怒った。「お前の友達たちは、今頃は子供のオムツを換えて、家事をこなし、翌日になると子供を預けて働きに出るんだ」と何度も説教された。

24時間、社長である母と顔を突き合わせる状況に耐えられなくなった私は、実家を出るべく隠れて賃貸物件をネットで探し始めた。

しかしアパート探しは難航した。職場(実家)から適度に離れた、街なかの単身者向けのアパート物件は思っていた以上に少なかった。意地を張り、築年数の浅い2部屋以上の物件を希望していたせいもあるだろう。不動産屋さんは「ファミリー向けになってしまうんですけど……」とおずおずと資料を差し出した。

実家が職場なのに、結婚するわけでもなく、わざわざそこを出てひとり暮らしをするというアラサー女に対し、不動産屋さんは明らかに困った顔をしていた。富山市郊外の物件も紹介してくれたが、一戸建て予備軍の新婚さんが仮住まいとして暮らすメゾネット型アパート物件の写真を見ながら、私は「行かず後家がひとりで住むところじゃないですよね~。アハハ」とひきつり笑いをした。

その頃から富山市が謳うコンパクトシティ、つまり街なかには、人口流出を食い止めるべく新築の高級マンションが続々と建ち始めていたが、一方の郊外では、若いファミリー層が暮らす新興住宅地が拡大していた。私は人気のないシャッター街の西町・総曲輪を歩くたび、「この新しいマンションにはいま誰が住み、これから誰が住もうとしているのだろうか」と不思議に思った。

富山市内で10年以上ひとり暮らしをしていた男友達には、「藤井は理想が高すぎる」と叱責された。「いくら富山が田舎とはいえ、ひとりもんの俺らが住めるようなほどほどにキレイで広くて、家賃の安い好条件の物件が街なかにあるわけないやろ」。市電沿いには単身者向けのアパートはちゃんとある。ただ築年数は古いものが多い。需要がないのだから、新たに作る必要性がないのだと言う。

「でも総曲輪とか駅前とかにはマンション、がんがん作っとるやんけ」と私が反論すると、「あれは俺らの住めるとこじゃないが。ヨソから来る金持ちの別荘なが!」。そして続けてこう言った。「俺らの周りは、ほとんどが結婚して家を建ててる。子供の話や、新しい家のことを嬉しそうに話すみんなを見てると、すごく立派だと思うし、つくづく自分はダメだなって思わされるんよね」。それを聞いて、「本当だね~。アハハ」とまた力なく笑うしかなかった。

富山に帰ってくるなり、アラサー、未婚、子無しというだけで、自分がすでに「普通」の規範から外れているということがショックだった。なぜなら、東京では何も成し遂げられず、スペシャルな何者にもなれずに富山に帰って来たのだから。

***

上京したのは23歳になる年だった。最初に入った会社は、競争倍率の低そうなコマとしてネットで探し当てた、ピンク映画をメインに扱う制作会社の脚本家見習いだった。

小さい頃から映画が好きだった。ジャッキー・チェンとサモ・ハン・キンポーとユン・ピョウの黄金トリオでおなじみ『スパルタンX』により幼少期の情操教育を受け、中学に上がると、7歳年上の「ザ・渋谷系男子」だった兄から「サブカル女子になれるぞ」と渡された「キネマ旬報」で運命の恋に落ちた。その相手は忘れもしない1994年、リバイバル特集号が組まれていた往年の時代劇スター、市川雷蔵だ。

私は母に「一生のお願い!」と懇願し、雷蔵の唯一のファンクラブ「朗雷会」に最年少で突撃入会した。文通相手はファンクラブの会長である石川さん。身近で雷蔵トークのできる唯一の親友はサキちゃん(祖母)。同級生との渋谷系音楽談義はなりを潜め、次第に後期高齢者とガチンコで親睦を深めていくことになった。高校生になってからも、せっせと雷蔵映画の感想をファンクラブの会報に寄せた。

大阪の私大の芸術理論コースという学部に進学した後は、映画監督・塚本晋也に夢中になった。塚本晋也のデビュー作「鉄男」と、当時の最新作「東京フィスト」をレンタルビデオで観た時は、あまりの面白さに驚いて目が四白眼になった。笑っちゃうほど真摯で、暴力的なまでの「生の希求」という塚本作品に通底するテーマには、極端に振り切れることでしか「生」を感じることができない人たちのもがきを慈しむ塚本晋也の眼差しがあり、私は猛烈に心を震わせていた。

写真で見ると小柄で、穏やかな顔立ちをした、どこからどう見ても人の良さそうな人が、監督・脚本・主演・撮影・編集のすべてをひとりでこなし、原始的な衝動と純真無垢な狂気をスクリーンにぶちまけている。なんて無様にカッコイイのだろう。私もこうでありたいと願い、「映画を作りたい」という思いを強くした。

しかし現実には特にアクションを起こすこともなく、自堕落で酒浸りの4年間を大阪で過ごした私は、いよいよ就職せねばならないというタイミングになって、彼が主宰している映画製作会社「海獣シアター」への入社を乞う直談判の手紙を書いた。いかに塚本さんの映画が素晴らしく、偉大であるか。そして私もチームに入れてほしい旨を、便箋10枚にビッチリと筆圧強く書いた。

だがその手紙を出すことはなかった。塚本さんに断られるということは、大好きな映画そのものに拒絶されるということであり、その絶望に耐えられる自信がなかった。

結局まんまと就職にあぶれた私は、大学卒業後に富山へと一時、強制送還されることになった。このままでは親の監視下のもと、薬局のレジ打ちをさせられる退屈な日常が待ち受けている。私は母に「一生のお願い!」のお家芸を繰り出し、「映画作りたいが!」とまたしても泣きながら懇願した。そして件のピンク映画の制作会社の門を叩いた。得体の知れない会社の門を叩く浅はかさはあっても、憧れの海獣シアターに手紙を出す度胸はなかった。

 

※この連載は毎月第2、第4月曜日に掲載します。

写真(バナー/07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」/(文中:著者)

(つづく)