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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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上京篇① 六畳一間の片隅で

2017年10月23日 公開

幼少時代の私にとって、映画といえば雑にカットされたテレビ放映用日本語吹替え版のことだった。80年代後半の富山の小学生の多くがそういう認識だったと思う。金曜夜9時の日本テレビ系「金曜ロードショー」と、土曜夜9時のフジテレビ系「ゴールデン洋画劇場」は、漫画家の富永一朗先生がオッパイを描きまくる、日曜午後1時の中京テレビ系「お笑いマンガ道場」と共に週末を彩るゴールデン番組であった。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『インディ・ジョーンズ』『プロジェクトA』などは、今でも色褪せずに日本語吹き替え版で脳内再生される。

当時、母は自宅と同じ町内の薬局で、父は車で30分ほどの立山の麓で工場を営んでいた。7歳上の中学生だった兄も塾に通っていたため、8歳の私は学校から帰ると居間でひとり、兄に録画してもらった『スパルタンX』のビデオを毎日毎日、映像にノイズが走るほど見ていた。バルセロナの広場でスケボーに乗ったジャッキー・チェンがもうすぐこける……こけたー! サモ・ハン・キンポーの三段腹が……揺れたー! 次の展開がわかり切っていても、飽きもせずにドタバタと笑い転げる妹を見て、塾から帰ってきた兄は「お前、いい加減にしれよ……」とうんざりしていた。

中・高校生時代は往年の時代劇スター、市川雷蔵に熱を上げ、そこから古い日本映画にハマった。近所の小さなショッピング・センター「トーカマート」にあったレコード屋さんへ母に連れて行ってもらい、当時1万円以上した黒澤明監督の『羅生門』のVHSテープを「買って買って!」とねだった。そのテープを何度もデッキにかけては再生、巻き戻しを繰り返し、すべてのセリフを書き起こして同級生たちにドン引きされた。大学時代は塚本晋也監督の描き出す血潮がたぎる世界に夢中だった。“映画監督になること”が私の積年の夢……のはずだった。

私は子供の頃から、こういう映画を作りたい、いや、“こういう映画を作る人”になりたいと憧れていた。今思えば、“映画を作っている人たち”のファンであって、映画そのものを作りたいわけではなかったのだ。家の中で煎餅をバリバリ頬張りながら、好きな映画のビデオを見たり、映画雑誌をスクラップしたり、リビドーをつらつらと日記形式に綴ったりということを永遠に繰り返したかっただけだった。私は単なる映画好きな、ニート体質の人間だった。

その体質に1ミリも気づかないまま2002年の初夏、23歳になる年に、私はピンク映画制作会社に入るべく、富山から東京・中野新橋の六畳一間へと引っ越した。

***

脚本家見習いの3カ月間は無給なので、母の仕送りだけが頼りだった。父の代わりに藤井家の家長とならざるを得なかった母は、夫の借金を返済し、バカ娘の学費・生活費を負担し続け、「アンタとくそジジイさえいなければポルシェ3台は買えた」と恨み節を吐いた。「アホ! カス!」と口汚く罵る一方で、いつだって娘の蛇行運転に付き添っていた母は、「もしかしたら聡子はとんでもなくユニークな人生を歩めるのかもしれない」と密かに思っていたことを、富山に帰郷した後、30歳を過ぎてから知った。

しかしそんな根拠のない期待を誰よりも私に寄せていたのは、他でもない私自身だった。父や私よりもはるかに追い詰められていたであろう母のしんどさを理解しないまま、迷走まっしぐらの上京物語は幕を開けた。

制作会社に入ったはいいが、やることといえば電話番だけだった。蟹江敬三のような顔をした監督にメガホンで頭を殴られ灰皿が飛んで来るような現場を想像していたが、小汚くて貧乏くさい、猫背の男の先輩が二人と、経理を担当していた女の先輩が一人いるだけの事務所は、撮影の手伝いもなければ事務所の雑用すらなく、暇を持て余していた。たまに掛かってくる電話も「さっさとギャラ支払えよ!」という芸能プロダクションの恫喝ばかり。先輩に「なんで富山からわざわざこんな所に……」と言われ、私も心の中で激しく同意した。

映画産業が斜陽の一途を辿っていた80年代、唯一、踏ん張りをきかせていたのがピンク映画だった。AV業界の隆盛によって90年代に一度は衰退したものの、滝田洋二郎、周防正行らピンク映画出身監督の活躍もあって、2000年代には再評価のムードが高まっていた。

しかしどういうわけか、私のいた会社ではその兆しはまったく感じられなかった。まだ入りたてで、内部事情を知らなかったせいもあるかもしれない。しかし事務所はいつも静まり返り、みんなの貴重な若さをすり減らす「ジリジリ」という音だけが聞こえるようで、ひたすら気が滅入った。耐えきれなくなった私は、「父が病気になったので実家に帰ります」と会社に置き手紙をしてトンズラぶっこいた。在籍期間わずか1カ月半だった。

会社から電話がかかってくるのが嫌で、携帯電話も切っていた。もともと給料は支払われていないので肩書きは「無職」だったが、名実ともにプータローとなった私は、中野新橋のアパートに引きこもり、日韓ワールドカップの日本戦を声を殺して応援する業務を自分に課した。制作会社を辞めたことは母には口が裂けても言えなかったが、女の先輩が心配して「実家で父の看病をしている」はずの私に宛てて、「お父さんの体調はいかがですか?」と実家に手紙をくれたことですぐに嘘がバレた。

土曜の昼、唐揚げ弁当を完食し、惰眠をむさぼっていた時のこと。「ピンポン! ピンポン!」とけたたましく鳴るチャイムの連打で飛び起きた。髪はボサボサ、Tシャツはヨレヨレ、顔はギトギトで人様にお見せできるシロモノではない。居留守を決め込んだが、「ドン! ドン! ドン!」と尋常じゃなく揺れる扉の向こうから、「聡子!」と怒り口調で私を呼ぶ声が聞こえた。「に、兄ちゃんだ……」。余計に出られるわけがない。連絡が取れずに「死んどんがじゃなかろうか」と心配した母が、当時既に東京で家庭をもっていた兄を私のアパートに急行させたのだった。

狭い部屋のベッドの端っこでアワワと震えていると、おそらく兄は私が居ることを察知したのだろう。激しい連打音の後に、しばらく沈黙が続いた。そして扉の隙間に、「みんな心配しています。連絡するように」とメモを挟んで帰って行った。

その頃、30歳になろうとしていた兄はリクルートの社員編集者として「R25」の立ち上げに奔走し、フリーペーパーの一時代を築こうとしていた。

兄は私のカルチャー面を形成した人物だった。イギリス人ポップ・デュオ、ワム!のヒット曲「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」を兄に聴かされた時、私はまだ6歳だった。兄は保育園児をダシに使い、地元のKNBラジオ「相本芳彦のぽっぷん王国」に、「あいもとさん、うきうきうぇいくみーあっぷをかけてください」とハガキでリクエストさせた。富山では週遅れで深夜放送されていた洋楽ヒット・チャート番組「ベストヒットUSA」を録画し、「今週の第1位はa-haの『テイク・オン・ミー』なんやぞ」と言いながら、日本語もまだおぼつかない妹に80年代洋楽ポップスの英才教育を施した。

調教師の教えに従順についていった私は、兄がフリッパーズ・ギターを筆頭とする渋谷系サウンドにハマれば渋谷系に、洋楽雑誌「ロッキング・オン」を読み始めれば追随して読んだ。大阪の大学に進学した兄から「タワーレコード」の黄色い袋をもらっただけで、「富山にはないCD屋の袋だ!」と有頂天になり、ポーチとして自慢気に中学校に持って行ったりした。兄が大阪の大学に進学すれば私も大阪に出たし、兄が就職で上京すれば私も上京した。いつも兄の見えない背中を追っていたような気がする。しかし兄も未踏の世界だった日本映画に没入したことで、私は初めて自分の意志で「映画監督になりたい」と願った。調教師の元を離れ、自我を芽吹かせてくれたのが「映画」だったのだ。

しかしその大切な自我すらも、上京してたったの1カ月半で放棄してしまった。

兄には「外出してました! 聡子は生きとるぞ~い!」と脳天気なメールを、母には「東京で、這いつくばってでも表現者として生きていきます」と悦に入った手紙を送った。そんな手紙をもらった母は、中華鍋で私の後頭部をフルスイングで殴りたかっただろうと思う。母にも兄にも会わせる顔がなかった。

『スパルタンX』のように老若男女をワクワクさせる映画を作りたい。「キネマ旬報」に褒められたい。カンヌの赤絨毯を歩きたい。塚本晋也と酒を飲みながら、映画について語り合いたい。そんな風にあれこれ思い描いていた夢が、あっさりと破れてしまった。にもかかわらず、夢破れたことに大してダメージも受けずに、サッカーを見ながら唐揚げ弁当を食べている自分の無神経さが、ただただ後ろめたかった。

 

※この連載は毎月第2、第4月曜日に掲載します。

写真(バナー/07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」/(文中:岩間博子)

(つづく)