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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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上京篇② 「東京に居てもいいよ」

2017年11月13日 公開

昼過ぎに起きてワイドショーをながめてから、夕方頃モソモソと着替え始め、アパートの向かいのコンビニへ出かける。手羽先の焼いたやつと塩味のカップ麺をレジに差し出し、知り合いなんてたった一人もいないのに、なぜか面が割れないようにそそくさと店を出る。ピンク映画制作会社から逃亡して半月、私は相変わらず中野新橋の六畳一間に潜伏していた。

かろうじて自分と社会を繋いでくれた場所はコンビニだった。平日の真っ昼間に酒を買いに行くのは世間様にしのびなく、店員さんに無職だと勘づかれたくもなかったので、「仕事帰りです」風を装って17時以降に来店するのが自分の中のしきたりだった。レジで「いらっしゃいませ」と、何かのついでのように店員さんに声を掛けられ、「どうも」と伏し目がちに返事をすることが、唯一、社会と交わすコール&レスポンスとなった。

1ヶ月間毎日同じコンビニに通ったが、店員さんと打ち解けることはなく「その他大勢」的な会話が素通りしていくだけだった。誰にも素性を知られぬまま、メシを食べるために排泄し、排泄するためにメシを食う生活に、「役立たずのくせに、ウンコだけは世の中に生んでるんだな」と呆然とした。

本来は一人でいるのが好きな方だが、生まれて初めて人恋しいと思った。私のアパートを訪ねてきたのは怒髪天の兄と、酩酊して部屋を間違えた二軒隣のヒモ男ぐらいで、頼れる知人も家族も近くにいないということがこれほど孤独だとは知らなかった。

映画に携わる職種に就かねば、母を騙してまで東京に棲息している意味がない。大事な局面で逃げてばかりの半生を振り返った時、映画や音楽の感想文を書くことだけが、自分がやり続けてきたことだと思い当たった。それからいつものコンビニへ出向き、求人情報誌と履歴書という初めて食料・酒以外のものをレジに差し出した。私は雑誌編集者の職を探し始めたのだった。

「映画好き大歓迎」という編集プロダクションの募集要項を見つけた時は、「絶対に採用してもらわんと困る」という切迫感以上に、「耳の穴かっぽじって私の話を聞け!」という、はやる気持ちを抑えきれなかった。すぐさま幼少期からの【心のベスト10】第1位映画『スパルタンX』について思いの丈をぶちまけた自己紹介文をワープロに打ち込み、履歴書に添付して提出した。中野新橋の井戸の底から発せられる「映画好きの人間がここにおりますぅ~!」という悲痛なSOSが聞こえたのか、「『スパルタンX』が好きなことは、すごく伝わった」と採用担当の部長による救助の返事が届いた。上京から3ヶ月後の2002年9月、中野新橋のコンビニに現れる未確認生物だった私を、新宿にある編プロのDVD情報誌編集部が、「たしかに存在している」と認めてくれたのだった。

人との接触に飢えていた私は、「おはようございます」と言える相手ができたこと、私のことを「『スパルタンX』の藤井」として、認識してくれる相手ができたことだけでテンションが上がった。編プロに入社できたことは、「東京に居てもいいよ」と承認してもらえたようで心から嬉しかった。しかもメインの業務は「映画を見て、紹介する」なのだ。誰に読ませるわけでもなく、小学生の頃から続けてきたことでお給料をもらえるとは!「映画監督になる」という夢をあっさりと破り捨て、上京してから3ヶ月間プータローだったことは、この天職に巡り合うために必要だったのだとすら思った。

中野新橋駅から、慌ただしく丸ノ内線新宿行きの通勤列車に乗るのが日課になった。息を切らしながらも、早歩きで新宿の人混みをぶつからずにかき分けられるようになった時には、無職の田舎者からスマートな東京人へと、自分のステージが確実に上がったような気がした。

さらには入社早々、これまでのボンクラ人生を帳消しにするかのようなボーナスステージが訪れる。先輩に連れられて行った試写会場で、出せずじまいだったラブレターの相手・塚本晋也監督に遭遇したのだ。ついこの間までは、稲本潤一が蹴るサッカーボールをテレビの画面越しに死んだフナのような目で見つめていた自分が、今じゃナマの塚本晋也をクワッと目を見開いて目撃している。東京ってすげえ。あまりの落差にクラクラした。

映画が見放題という職場環境もありがたかったが、私よりはるかに博識である上司・先輩との映画談義や、小生意気な同僚との「え、『七人の侍』まだ見てないの?  映画雑誌やるんだったら黒澤は見ないとダメだよ~」的なジャブの打ち合いが楽しくてたまらなかった。

劇場未公開の作品を会社で試写させてもらったり、先輩とランチを食べながらゴールデン・ハーベスト映画のベスト3を決めたり、同僚と古い日本映画を求め「新宿TSUTAYA」を徘徊したり、仕事とプライベートの境界なく職場の人たちと映画について喋り倒したりした。東京に来て一瞬で目的を失ってしまった私にとって、「映画好き」という自我を取り戻すことは死活問題だった。映画を作る側になれずとも雑誌編集者という映画を紹介する側で映画に人生を託した人たちがいると知れたことは、東京に居るうえで大きな希望となった。

ただ、映画に囲まれた環境だったにもかかわらず、私に最初に与えられた仕事は映画ではなくグラビア・アイドルのDVDリリース情報をまとめる仕事だった。毎月50本くらいのDVDの解説を100~200文字ほどで書くのだ。だが私が担当したグラビア部門の素材は、ほとんどがペラ一枚の紙資料だけだった。アイドルが制服を着たコスプレ写真が唯一の資料という時もあった。「あのぉ、情報が薄すぎて原稿が書けません……」と上司に泣きを入れると、「この写真をくまなく見たか?  お前はこの白いソックスとくるぶしの隙間に宇宙を感じないのか?」と真顔で突っ返された。

上司とのシュールなコントのようなやりとりを毎月こなすうち、「紺のセーラー服に映える弾ける笑顔、白いソックスから垣間見る柔肌に悶絶」とか何とか極めて小さな“宇宙”を捻り出せるまでになったが、「『映える』の意味、ヘン」「『垣間見る』、ヘン」と赤字をビッシリ入れられた。私の持ち分のゲラはいつも赤字を入れられては直し、直した箇所も間違えてはまた直しで、修正液がゴテゴテに厚塗りされていた。それを手にした取引先の出版社の社員さんに、「ゴッホの油絵じゃないんだからさあ!」と毎度のように怒られた。当時は「トラウマ必至」と思っていたこの仕事をこなすことで、少ない資料から情報を抜き出し想像力を働かせること、最小限の言葉で最大限の表現方法を駆使すること、といったライターの基本が叩き込まれたように思う。

いくら怒られようが、過酷な徹夜作業で口の周りにヒゲが生えようが一向にへっちゃらだった。むしろ気の合う職場の人たちと、唯一無二の仕事をしているのだと誇らしかった。東京に生まれ育ったパチンコ好きの上司、肉をおかずに肉を食う埼玉出身の先輩、東京のベッドタウン育ちの冷静沈着な同僚、北関東から上京してきた毒舌家の後輩、『ロッキー』を崇拝する雪国出身の先輩。故郷も世代も異なる、てんでバラバラの人生を走ってきた人たちが、いま、ここでは毎月「雑誌を作る」という目標に向かって併走している。たとえ個性がぶつかりあって衝突しても、同じ釜の飯を食えば和解するような疑似ファミリー的な絆の強さがあった。私はそういう、ちゃんと熱を帯びた仲間を欲していたのだと思う。ようやく東京にかけがえのない居場所ができたと思った。

深夜、会社のコピー機の上に出没したゴキブリがベラベラと宙を舞い、「ギャー!」と頭を抱えて逃げ回っていた私のワキの下に留まったこと。そんな私を置き去りにしたまま、みんな一目散に外へ逃げ出したこと。自宅で爆睡してしまい、夜の22時過ぎに出社して「お前は殿様か!」と上司に怒鳴られたこと。入稿作業を終え、肉好きの先輩を先頭に、みんなで新宿ネオン街の焼き肉屋に繰り出したこと。丑三つ時のビールが極上の味だったこと。私が「藤井聡子」であると、東京で初めて認識してくれた人たちと過ごした日々は、一生忘れることはないと思う。

そして入社して一年が過ぎた頃、初めて映画の編集ページを任された。忘れもしない、03年に公開されたリュック・ベッソン監督のアクション映画『TAXi 3』だった。誌面として形になった時は、有頂天になって実家に雑誌を送った。母の援助を受けて強引に上京し、一方的に外部との接触を断ち、自分勝手に孤独な生活を謳歌していただけの自分が、これでようやくなんとか自活できるところまで進歩したことを証明できる。「ちゃんと娘は東京砂漠をサバイブしているぞ!」と、母の耳元でフガフガと鼻息荒く叫びたい衝動に駆られた。

二年目の夏を迎えた頃には、念願の市川雷蔵の特集ページを三回連続で担当する機会にも恵まれた。早く実家の両親に雷蔵の掲載誌を見せたくて、お盆休みを今か今かと待ちわびた。そんな浮足立った私を見て、先輩が何気なく「戻れる場所があってうらやましいよ」とつぶやいた。「俺は新宿で生まれ育ったから、故郷って感覚が分かんないんだよね」。私には先輩の方がうらやましかった。東京には映画館もライブハウスも本屋も山ほどあるし、あらゆる最新の情報が集まるじゃないか。「富山は集客が少ないし、ノリも悪いから」と、新潟から富山を飛ばして金沢でライブを行うJポップアーティストに、「こ、こんにゃろう……」と苦々しい思いを抱いた経験はシティボーイにはないだろう。「ロッキング・オン」のライブ・レポートを読んで、部屋で夜な夜なヘッドバンギングし、「キネマ旬報」に載っている注目映画を脳ミソで妄想上映しては、架空レビューを日記にしたためていた田舎の女子高生の姿なぞ想像もつくまい。

思春期の鬱屈とした気持ちを東京で解消できる歓びに溢れていた当時の私にとって、富山は余暇で「帰る」場所であって、自分がいずれ「戻る」場所だとは思っていなかった。

 

※この連載は毎月第2、第4月曜日に掲載します。

写真(バナー/07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」/文中:岩間博子)

(つづく)