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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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上京篇③ 6年目の涙

2017年11月27日 公開

編プロの休憩室で映画のDVDを見て、みんなで感想を言い合い、企画を練って雑誌を作る。毎月繰り返されるその濃密な時間は、「映画を作りたい」という未消化の私の想いを「雑誌を作りたい」へと変容させるのに十分だった。

雑誌作りには情報を収集する力と時代を俯瞰する視点が必要だ。にもかかわらず、当時の私の日常といえば自宅と会社と飲み屋を往復するだけで、好きな映画館や書店にすら行かない状態だった。目の前の業務に追われていたせいもあるが、気心知れた人たちに囲まれた箱庭は居心地がよく、その中の交流だけで満足してしまっていた。東京の青空の下に放たれて羽ばたいているつもりでいたが、結局、半径50メートル程度の縄張りが自分の身の丈に相応しかった。人と情報に溢れ、様々な選択肢がゴロゴロ転がっている東京に居るだけで、自分自身の世界も広がった気がしていただけだった。

気がつけば私は袋小路にはまっていた。映画の解説文には正確で幅広い情報が求められているのに、自分の熱量を一方的に吐露して「お前の感想文を書いてどうすんだ!」と上司に何度指摘されても直らなかった。最新のハリウッド大作のファンがメインの読者層なのに、古い日本映画を集めた時代錯誤な企画ばかり出しては、ほとんどボツになった。漏れ出るエゴを封じ込めることができなかったし、したいとも思わなかった。そして2005年の夏、私は3年間お世話になった編プロを去ることに決めた。ようやく見つけた、大好きな場所だったのに。

私が次に選んだ職場は小さな音楽出版社だった。60~70年代のプログレッシブ・ロックをメインに扱う洋楽雑誌の編集部だ。その雑誌はキング・クリムゾンやビートルズといった不動の評価を獲得しているバンドを、わんこ蕎麦よろしく何度も何度も飽きもせずに特集しては、現在の音楽シーンとの関わりや普遍的な魅力について掘り下げていた。

対象が映画ではないけれど、幼い頃から兄に音楽の調教を受けていた私にとって、ここは自分の目指す方向だと感じて転職したのだった。若手の音楽ライターからベテランの音楽評論家、大学教授まで幅広い執筆陣を迎え、評価が定まっているアルバムを現在の視点で多角的に捉えようとする雑誌づくりは、編プロ時代にはやりたくてもできなかったことだった。

デビューしたてのインディーズ・バンドの発掘や、来日した外国人ミュージシャンの取材、連日のライブハウス通い。塚本晋也監督に遭遇した時と同じように、学生時代の自分が抱いていた願望を仕事にすることは、自尊心を大いにくすぐった。「合コンに明け暮れるそこら辺の女子」を「ケッ!」と嘲笑し、「自分の世界観を持ったオンリーワンの私」を標榜するようになっていった。蘊蓄うるせぇオジさんたちが群がるプログレの世界へと足を踏み入れ、「若い女の子がこんな音楽聴くんだ!」と驚かれることで、私はオンリーワンの欲求を満たしたのだった。

しかし3年も音楽雑誌にいれば、そんなスペシャルな出来事も日常に組み込まれていく。「名盤を現代的なアプローチで論じたい」という志は徐々にしぼんでいった。そもそもニート体質のミーハー人間だった私は「映画監督がダメなら、次は映画雑誌の編集者だ」「映画雑誌がダメなら、次は音楽雑誌」と目標を鞍替えするうちに、いつしかミーハーな願望を攻略してしまっていた。「表現者になりたい」という気持ちの灯火は心細くも灯し続けていたが、それを実現するための新たなモチベーションを東京で生み出すことができずにいた。

そんな私の心境とシンクロするように、編集部の先行きにも暗雲が立ち込めてきていた。2008年当時、現在も続く出版不況の風はあちこちで吹き荒れ、あらゆるジャンルの雑誌が次々と姿を消し、出版社の倒産も続いていた。数は少ないものの熱狂的な読者を獲得し、10年にわたり発行してきた我が音楽雑誌も例外ではなかった。私のデスクのすぐ後ろにある打ち合わせスペースからは、経営の話し合いをする上層部のヒソヒソ声が、頻繁に漏れ聞こえるようになった。

時流に流されまいと、音楽の普遍性を愚直に論じてきた雑誌が、大きな時流の渦に飲み込まれていこうとしている。ひとつの雑誌が死んでいく様を目の当たりにし、グラついていた私の心はポッキリと折れてしまった。東京にいる理由も、ハッタリをかまし続ける気力も失われていた。

何者かになろうとあがくフリをする娘の小芝居に限界がきたことをいち早く察知したのは母だった。その頃から私が富山に帰郷するたびに、「いつこっちに帰ってくるが?」と怒気を込めて聞かれた。結婚適齢期の娘が結婚相手もおらず、具体的な展望も野望もないまま東京で迷走しっぱなしの姿を見て、母は心配でたまらなかったのだろう。「いい加減こっちで家業の薬局を手伝って、地に足をつけなさい」と助け船を出してくれたのだった。

私自身も、先行きの見えない東京ではなく、富山に戻って何かを発信するやり方もあるのではないか。もっと腰を据えて表現活動ができるのではないかと思い始めていた。

「当面は実家で薬局の仕事をしながら、ローカル雑誌の編集の口を探そう。これでも東京で6年間雑誌編集者をやってきたんだし、きっと大丈夫」

勘違いでもそう思い込まないと会社を辞める勢いがつかなかった。会社を辞めるということは、すなわち憧れだった東京を去ることを意味していた。

そして上京から6年目、29歳を目前にした2008年の初夏、私は富山へと“都落ち”することになった。東京という場所に未練はなかったが、東京で出会った刺激的な仲間と会えなくなることは辛かった。私が東京に居たことを、みんなに覚えていてほしいと思った。

 

上京していた高校の同級生たちも、30歳になる前にほとんど富山へ帰った。地元企業の家に生まれた、いわゆる「ボンボン」である彼らは、いずれ家業を継ぐという宿命を背負っていた。

帰郷を目前にした同級生のAとBも家業があった。東銀座の居酒屋で三人集まって送別会を開いた。私も富山に帰ることが決まっていた頃だった。東京の私立の薬学部に進学したAは、卒業後に実家の薬局の二代目となる予定だったが、「修行」という名目でそのまま東京の薬局に就職した。彼は薬剤師を隠れ蓑に、お笑い芸人になる道を模索していた。芽が出れば、本格的に芸人として生きていくつもりだったが、そうはならなかった。

飲み始めて1時間半ほど経った頃、Aが「俺は富山に帰ることはプラスだと思ってる。プラスで帰る」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。それに対しBが「俺は完全にマイナスだわ。マイナスからスタートさせてゼロにしていく」と言い放った。温厚な性格のBが珍しく語気を強めたので、私は少しビクッとなった。

Aと同じく大学進学で上京したBは、広告代理店へと就職。広告マンとしてステップアップの転職を果たした直後、お父さんが亡くなった。思い悩む猶予すら与えられないまま、一族が築いた会社を支えるべくBの帰郷が決定したのだった。

「お前、マイナスで富山に帰るなんて言うなや! プラスにしてから帰れ!」

「いや、そんな風に思えないし、思いたくない」

東京でやり切ったと区切りをつけないと、奮起できない事情がAにはあったし、まだまだ東京でやりたいことがあったと、未練を残さないと旅立てない気持ちがBにはあったのだと思う。どちらの気持ちも痛いほど分かった。口論する2人を前に私は何も言うことができず、ひたすらビールを胃に押し込んだ。

***

音楽出版社を去る日が決まり、お世話になったレコード会社の人たちや、ライターさんたちへの挨拶回りを始めた。みんなが慰めるように、「また東京で飲みましょうよ」「富山はロカビリーのメッカだから、そういう情報も教えてね」と声をかけてくれた。その人も励ましのつもりだったのだろう。あるベテランのライターさんが笑いながら言った。

「食いっぱぐれのない家業があるなんて、すごい恵まれてるじゃないですか。僕なんか音楽ライターなんていう、ろくに稼げない仕事しかできないから羨ましいですよ」

その場は「まあ、そうですね。ありがたいです」と返答したが、その言葉は私やAとB、富山に帰った同級生すべてに向けられている気がして、だんだん心に鈍い痛みがうずき出した。

世間からすると、薬剤師という担保を持ちながら芸人を目指していたAは、ハングリー精神の乏しい人間に見えるだろう。しかし「これしかできない」と思い切ることも諦めることもできず、家業と夢の狭間を右往左往したAの逡巡は、単に「金持ちの道楽」で済まされてしまうのか。ようやく念願の職種に就けた矢先に、畑違いの大企業へと送られたBの将来は、人が羨むほど安泰なのだろうか。私にはそうは思えなかった。「たとえろくに稼げなくとも、アナタは自分でその道を選び、自分で閉ざすことができるじゃないか」と、その人にぶちまけたくなった。

でも鈍痛の理由はそれだけじゃなかった。AとBのようなしがらみもないまま、勝手気ままに東京をやり過ごし、食いっぱぐれそうになったら手を差し伸べてもらい、おまけに富山で仕事まで用意されている。その人が言うように、私はひどく恵まれた箱入り娘だった。「30にもなろうとしているのに、バカみたいに甘ったれですね」と冷笑されたようで、死ぬほど恥ずかしかった。

本当の夢はなんだったのか。本当は東京で何をしたかったのか。今となっては忘れてしまった。そもそも何もなかったのかもしれない。

富山へと帰る直前、行きつけだった新宿三丁目のバーのマスターに、「聡子は何しに東京へ来たの? 想い出作りに来ただけ?」と尋ねられた。それまで溜めていたものがぶわっと溢れ、ただ「んぐぇ、んぐぇ」とウシガエルの号泣で返答するしかなかった。

それは夢が破れてしまっただとか、東京に負けて悔しいだとかではなく、「富山に戻るということは、いよいよごまかしがきかなくなる」と思って、怖くて泣いた。いつでも手を広げて私を迎え入れてくれたはずの故郷は、東京以上に未知で、なおかつ逃げ道のない恐ろしい場所であることに、帰る間際になって初めて気がついた。

 

※この連載は毎月第2、第4月曜日に掲載します。

写真(バナー/07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」/文中:編集部)

(つづく)