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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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立山はいつも見ていた。

2017年12月11日 公開

私の実家は富山駅から車で15分程行った、富山市郊外の比較的大きな住宅地のなかにある。市内では栄えている町の方とはいえ、家の裏には田んぼが広がり、そのずっと先には立山連峰が鎮座する。一年を通して曇天の多い富山だが、貴重な晴れ間には水色の山肌に万年雪の白い縦筋が入った、ハッとするほど美しい立山がくっきりと浮かび上がる。夏は青々と山肌を露わにし、冬は真っ白な雪化粧を施す。四季の移り変わりを、立山は青と白の濃淡で表現するのだ。

静岡や山梨の人にとって富士山が心の原風景であり郷土の誇りであるならば、富山県民にとってのそれは立山で、「今日の立山、きっれいやね~」「今日、立山、えらい黒々とでっかくなっとる。そろそろ雨降るわ」などと挨拶がわりにその日の立山の様子を話題にする。

田んぼ、医薬品の卸問屋、パチンコ屋、ラブホテルといった日常風景の背後で、それらすべてを懐でかく受け止めるように連なって広がる立山の凛とした佇まいは、いくら見ていても見飽きるものではなかった。どんなに町や人が変わっても、立山はビクともせずにそこに居る。2008年の春、東京から実家に戻ってきた日も、当たり前のように立山は居た。そんなブレない超然とした姿に対し、「すいません、帰ってきちゃいました」と妙に申し訳ない気持ちになった。

大学卒業後、大阪から強制送還されて上京するまでの間の1カ月を除き、ほぼ10年ぶりに父と母、そして祖母とともに暮らすことになった。18歳まで過ごした自分の部屋は物置と化しており、まずは部屋を片付けるところから富山での新生活をスタートさせた。父のゴルフバックや工具、母の着なくなった洋服で私の6畳間は占領されてしまっていたが、壁には市川雷蔵のポスターやカート・コバーンの切り抜きが貼ったままで、思春期のくすぶりはプスプスと未だ漂い続けていた。タンスの奥からは妄想レビュー日記や、「HEY! 君はOYAYUBI姫」と題された謎の作詞メモ、書き下ろしシナリオなども続々と発掘され、しょっぱい気分に苛まれて片づけは一向に進まなかった。私はあの頃の自分を裏切ってしまったのだなあ、としみじみ思った。

赤面と失笑まみれの中学・高校時代の思い出の品と、レコードやDVDといった東京の戦利品の山と格闘していると、「お、片づけしとるんか」と父が部屋に入ってきた。そして「お前らしい部屋になっていっとんねか」と一言だけ言って出て行った。

17歳の時に父が突然、「よし、聡子にギター買ってやっちゃ!」と言い出し、総曲輪の楽器屋に連れて行ってもらったことがある。私のテストの成績を査定し、褒美に雑誌やCDを買ってくれるのはいつも母だったが、ギターをねだった時は「勉強せんくなるから絶対ダメ」と言われ買ってもらえなかった。そこへ、露ほども期待していなかった打率ゼロの父が降臨した。

フェンダー風ストラトキャスター、ミニアンプ付き1万円の初心者セットを父に買ってもらい、母にバレないようふたりで私の部屋に籠った。アンプに繋いだギターの六弦をおそるおそる弾くと、「ボイ~ン」とくぐもった音が出た。父と顔を見合わせ「おおお~!」と歓喜の声を漏らしたその刹那、母がドガ~ンとドアを蹴破って部屋に入ってきた。「アンタ、何を余計なもの買っとんがけよ! 聡子がますますダラ(バカ)になんねかいねえ!」と、母にものすごい剣幕で詰め寄られた父は、アガガッ……となりながらも叫んだ。

「ギ、ギターも芸術だ!」

父の辞世の句が響いた思い出のこの部屋で、まさか再び過ごすことになろうとは。18歳までのサブカル女子育成期の記憶が沈殿する沼に、20代を過ごした東京への恋慕と、これから30代を生きる富山での現実が追加投入されていく。あっという間にぬかるみに足を取られそうだなと思い、憂鬱になった。

実家の隣には薬剤師の母が建てた薬局があった。私が東京で自分のミーハーな願望を攻略している間に、母はこれから訪れる超高齢化社会に備え、薬剤師という立場で地元の介護施設、病院、薬局と連携を図ろうとしていた。私が帰郷した頃には本格的に介護事業に参入し、別の地区に福祉事務所を構えていた。母は新たな介護施設の建設準備に奔走していたため、薬局は管理薬剤師さんとパートの薬剤師さん、事務員さん2名の計4名でこぢんまりと回していた。私はその平均年齢50歳の女の園にお世話になることになった。

医療事務のパソコン入力を覚えたり、この世で一番苦手な数字を扱う作業をしたりする業務は苦痛でしかなく、たった三日で嫌気がさした。「今晩の晩御飯どうすっけ?」「上市町の田中さんから里芋もろたから、芋の煮っころがし作ろう思とんが」という、職場で繰り広げられる所帯じみたガールズトークにも全く付いて行けなかった。やがてパートさんたちと菜っ葉と切り干し大根を物々交換し、背中にサロンパスを貼り合う間柄になるとは、この時は想像もできなかった。

東京で映画や音楽、雑誌といったサブカルチャーに囲まれ、「もう、お腹いっぱいです」となって富山に帰ってはきたものの、今度は一切、それらにありつけない断食状態に陥った。飢えをしのごうと同級生たちと飲みに行ってはみたが、家族の話とマイホームの自慢をする既婚者に、私は「へ~」「幸せそうだね~」と上の空の返事をするばかりで、話は噛み合わなかった。独身の友達は友達で、合コンに行っただとか婚活パーティーに行っただとかの話がメインで、その失敗談を面白おかしく聞きながらも、結婚に興味がない自分は、富山という地ではかなりダメな存在なのだろうと思った。パイがでかい分だけ様々な生き方に寛容であり、ある意味では個性が埋没する東京に居た頃には感じたことのない劣等感だった。

かつて知り合いのいない大都会で孤独を味わったが、家族はもちろん友達もたくさんいる故郷に居ながら、自分の居場所がないという孤独はまた種類の違うものだった。しかし疎外感を抱きながらも漫然とルーティンワークを繰り返すうち、「富山で表現活動をしたい」という目標がなくてもこのまま生きられてしまいそうだとも思え、そっちに容易くなだれ込むことの方が怖かった。「どうして東京で踏ん張れなかったのだろう」という後悔、「なんでこんな退屈な場所に帰ってきたのだろう」という地元への蔑みは、日を追うごとに増していった。

でもその感情にまともに対峙してしまってはここに居られなくなる。とにかくここに暮らす言い訳がほしかった私は、「富山の魅力を外に発信することこそが私の次なる使命だ」という思い込みに徹した。振り返ってみると私の人生、思い込みの連続だった。我ながらおこがましいと自覚してはいたが、仮初めのモチベーションを得ることのほうが先決だった。

そんな私のひた隠しにしていた本音を、母はあっちゅう間に見抜いた。「アンタに富山を偉そうに語れるほどの何があるがん? 映画監督になりたいと言って人の金で勝手に東京に出て、誰にも引き留められずに富山に帰ってきただけやねか。何にもなれんかったねか」と身も蓋もない事実を面と向かって言われた時は、グウの音も出なかった。

「富山で一生懸命、子供を育てながら働き続ける子たちは、アンタの何歩も先に行っとるよ」。

母の正論を受け止めるだけのタフさは私にはなく、おもちゃ屋の床に転がって泣き叫ぶ幼児の勢いで、「うるせー、バカ! 富山のマスコミ業界を私が変えてやるんだよ!」と心の中で誓った。それを人は「逆ギレ」と言うのだろう。

私は母に相談せず、フリーペーパーを出している地元の広告会社に面接を受けに行った。本業があること、フットワーク軽く取材ができないことを伝えたが、それでも東京で雑誌編集をやっていた経験を買われ、フリーのライターとして採用されることになった。いとも簡単に「何かを発信する」という面目を保てることになって、私は少し拍子抜けした。

月1回発行のそのフリーペーパーは、20~40代の富山の女性たちをターゲットにした情報誌だった。グルメ、アパレル関係の新店情報を中心に、雑貨、美容ネタ、イベント告知まで幅広く取り扱っていた。「スーパーのチラシに毛が生えた程度だろう」と完全にナメてかかっていた私は、もらったバックナンバーをペラペラとめくり、思いのほかデザイン性の高い誌面構成に驚いた。宴会におすすめの店を紹介する特集記事でも、単に広告的な店舗情報を羅列するのではなく、たとえば「宴会部長に聞け!」というノリで、人を切り口にリレー式で店を紹介するようなひねった視点があり、営業マンみずからのお店潜入レポなども掲載していた。「『BRUTUS』っぽくて面白いな」と私は率直に思った。しかし何冊か読み進めていくうちに、面白さよりも既視感が勝っていった。

「これ、そのまんま、じゃね?」

この時私は、完全に上から、いや中央からの視点でそのフリーペーパーを「審査」していた。地方のフリペが、中央の雑誌を模倣できるレベルまで来ていることを「正直、意外」と思った。しかしその誌面には、富山ならではの土着的要素がないのではないか。地元民が身近過ぎて気づけていない、地元のユニークな価値を改めて提示する俯瞰的視点が必要なのではないか。私はそんな風に点数をつけるように、改めてページをチェックしていった。

たとえば立山の美しさや、立山が変わらずそこに居るということがどれだけ素晴らしいのかを、私はホッピー飲みながら一時間は語れる自信があるぞ!

「地域密着型フリーペーパー」という土俵を与えられた私は、富山のことを、地元民のことを知ろうとしないまま、またしても大いなる「勘違い力」でもって、独り相撲を取ろうとしていたのだった。

 

※この連載は毎月第2、第4月曜日に掲載します。

写真(バナー/07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」/文中:編集部)

(つづく)