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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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“旧8”沿いドライブインの底力 ①

2018年2月27日 公開

かつては新潟と京都を結ぶ国道8号線であり、現在は県道となった富山滑川魚津線(通称・旧8)沿いを、富山市内から新潟へ向かってコンちゃんの軽四で走った。「チキチキ富山探検ツアー」の記念すべき初回は、コンちゃん自身も未体験のスポットだった。「新装オープン!」と威勢よく貼り出された中華料理店を指さし、「あれ、ずっとあのままやから。開店する気なんてこれっぽっちもないから」というコンちゃんの辛辣な案内を助手席で聞きながら、私は帰郷して一年も経つのに実家から車でたった10分程度の東方面に行くことすらなかったことに気がついた。

田植えを終えたばかりの田んぼの点々とした緑色、農機具の入った小屋の錆びた茶色、うっすらとした曇り空の灰色という単調な色合いの風景が窓の外を流れていく。「地味な田舎町だわ~。これぞ富山」と感慨にふけっていると、「来たーっ!」というコンちゃんの甲高い声が上がり、「すし」「めし」と書き殴られたお手製と思しき看板と、「ボンカレー」のホーロー看板が突如現れた。そして「面舵いっぱーい!」とコンちゃんが豪快に左ハンドルを切った先には、古ぼけた建物が待ち構えていた。それが今回の目的地「日本海食堂」だった。

バラック小屋に近い建物の外壁には「国際コドモ秘宝館」なる看板と、色とりどりのホーロー看板が掲げられており、だだっ広い駐車場には白い旧車を塗り替えたのであろう偽パトカーと、塗装のはがれた交通安全人形が待機していた。鯉と一緒に露天風呂に入るぐらい物怖じしないコンちゃんが、「毎日、車で通るんやけど、勇気なくて入れんのよね」と言った意味が分かった。田舎の侘しい風景に寄り添う気なんてない、堂々たる異彩っぷりである。思わず足がすくんだが、「すごいやろぉ? ふふっ」とイジワルに笑うコンちゃんの後ろについていき、恐る恐る扉を開けた。

店内には沢田研二や山口百恵といった往年のアイドルの等身大パネル、三菱、松下といった家電メーカーの販促グッズ、クレイジー・キャッツの映画ポスター、淡谷のり子のレコード、瓶のコーラの自販機(稼働中)、ピンク色のダイヤル式電話……などなど見渡す限り昭和の色濃いレトロアイテムがひしめき合っていた。昭和世代の芸能が大好きな私は、「あ、千葉(真一)ちゃんの『戦国自衛隊』のポスター!」「笑福亭仁鶴のグッズがある!」と無邪気に興奮した。コンちゃんもニタニタ笑いながら、「うっほ~……」と感嘆の声を漏らしている。

圧倒的なコレクション数に胸焼けを起こすかと思いきや、不思議とそうはならなかった。個々のアイテムにパンチはあれど、広い店の構造にそった均整の取れたレイアウトが施されていたからだった。一見すると温泉街にある秘宝館や昭和資料館かと見間違うが、ここは半世紀にわたって現役バリバリに稼働するドライブイン・レストランだった。

店をうろつき回る飛び込み客をにこやかに見ていた小柄なお母さんが、私たちが落ち着くのを見計らって、「いらっしゃい」と水とメニューをテーブルに置いてくれた。コンちゃんはオムライスを、私は中華そばをオーダーした。コンちゃんは終始「さとちん、あれ見て! 公衆電話ボックスあるし、マネキンの親子まで入っとるよ!」「この柱にバスの降車ボタンくっついとる。 呼び鈴代わりかね? ってか鳴らんし! あはは!」と喜び、「こんなに面白いとこなら、もっと早くに入っとけば良かったわ~」とつぶやいた。

たしかにこの店は私たちのような、常日頃から“面白がりたい”という人間にとっては退屈しない場所だった。なんでこんなに昭和アイテムだらけなのか。入口に転がる兵馬俑はどこからやって来たのか。なんでメニューの「野菜サラダ」だけが「時価」なのか。ツッコミどころは至る所にあった。しかしこの店の本懐はそこではなかった。ツッコミ待ちかのようなネタを山積させていながら、店のスタンスはあくまで“平常心”なのだ。

新幹線0系のオモチャ、宮史郎のカセットテープが並ぶカウンターのガラス棚の隣には、同じノリで煮魚、肉じゃが、漬物といった小鉢が陳列されていた。テーブル席では天地真理の等身大パネルに見守られながら、スポーツ新聞を読んでタバコをくゆらすオジさんと、カツ丼を食べながらスマホをいじる若者がいる。小上がりの座敷では、眼光鋭い三船敏郎、半裸の長州力の特大ポスターが男臭さを発散する中、家族連れがオムライスを食べ終えテレビを見ている。かたや車雑誌を広げ、夢中で話し込むカーマニアの一群……。みなさん思い思いにくつろいでおられるのだ。この店を、昭和にタイムワープできるテーマパークだと舞い上がり、ギャーギャーはしゃいでいるのは私たちだけだった。外観のインパクトから混沌とした世界が広がっているかと思いきや、店内にはびっくりするぐらい平穏な2010年の日常があった。

私は中華そばをすすりながら、異彩を放ちながらも、みずから「奇抜であろう」とはしてないことこそが、この店のユニークさなのではないかと考え始めていた。その魅力の謎を突き止めるべく、それから私はひとりで食堂に通い始めることになる。

「ピストン(=筆者)来ると、俺、な~んか体調悪くなんがいぜ。今日は目からツクシ生えたわ!」

左目にものもらいをこさえたこの人物が、二代目店長である種口茂さんだった。種口さんはいつも、「割烹 あしや」という、縁もゆかりもない店名が刻印された割烹着を着ていた。ボケてるのか、素なのか。飄々とした佇まいに、どんどん興味をそそられた。これまでフリーペーパーの読者に紹介するという目的ありきで、富山のスポットを巡ってきたが、自分自身のただただ「知りたい」という欲求に突き動かされ、記事にするあてもないのに取材を重ねるのは初めてだった。

そんなある日のこと、私が日本海食堂に足繁く通っていることを知った父が、「オトンとオカンも昔は食堂に行っとったぞ」と突然告げた。

60年代半ばに富山大学の自動車サークルで出会った父と母は、ドライブデートでよく日本海食堂を訪れていたという。車好きの父曰く「1964年の日本グランプリで、初めて国産車がポルシェを追い抜いたんやぞ!」という、日産が生んだ「スカイライン2000GT」の新式を、当時、富山の一流メーカー「不二越」の重役だった祖父が購入。ドラ息子の父はその伝説の名車で母を連れ出し、車体がボッコボコになるまで乗り回していたらしい。サークル仲間ともよくラリーに挑んでいたそうで、中継地点として日本海食堂を利用していた。

富山市とホタルイカの漁場で知られる滑川市との境目にある日本海食堂は、国道8号線沿いのドライブイン・レストランとして1965年に営業を開始した。時代は高度経済成長に伴い、日本のモータリゼーションが急速に進展しようとしていた。富山から東京、大阪といった都市部へ向かう大動脈の8号線に立地し、24時間営業も行っていたこの店は、菅原文太ばりのトラック野郎たちや、家族連れで大いに賑わっていたという。当時、家族みんなで外食をするという行為は、ちょっとしたイベントでもあった。

「あそこは豚汁定食が美味しかったのぉ~」と目を細めて懐かしむ父に対し、母は「ただ車乗って走るだけ。この人ちゃ、他にな~んもないんかと思った」と当時のデートを振り返り、「2000GTに騙されて結婚したようなもんやちゃ……このクソ親父ぃい~!」といつものパターンで激高。父の甘酸っぱい思い出話はまた母の地雷を踏むのだった。

それにしてもまさか若かりし頃の両親と、アラサーとなった娘の点と点が、約40年の時を経てつながるとは。 私は日本海食堂の歴史の深さを感じずにはいられなかった。ついでに「本当は車のデザイナーになりたかったん……」と在りし日の夢を遠い目で語り出した父に、私はカーマニアたちの定例会が日本海食堂で行われていることを伝えた。すると、さっきまで母に怒鳴られてドブ色だった父の瞳がキラキラと輝き始めた。「オトンも連れてって! 連れてって!」。そう父にしつこくせがまれ、私は渋々、父同伴で食堂へと再訪することになった。

食堂の駐車場には、県内外の旧車マニアたちの愛車が勢ぞろいしていた。それを見た父は何がおかしいのか、「だははは! 日産の『ダットサントラック620型』あるぅ~」と腹を抱えて笑っている。嬉しくて仕方がなかったのだろう。キャインキャインと子犬のような人懐っこさで同好会の輪に入っていき、「三菱ミニカの軽トラで飛騨高山を越えてきたんですか!? いや~、すごいなぁ」と初対面の相手に喋りまくっていた。そしていつの間にか、オトン垂涎の「三菱ギャランGTO-MR」に乗せてもらい、「ブ〜ン」とどこかへ走り去って行った。それまで、車にまったく興味のない私とマニアの皆さんとの間に立ちはだかっていた壁を、父は軽々と越えて行ったのだった。

その後、興奮気味で店に戻ってきた父を囲んで、すぐに座敷で宴会が始まった。大学時代のラリー体験談を得意げに語る父に、これほどまで熱心に耳を傾けてくれる人たちを私は未だ知らない。心の底から楽しそうなオトンの生き生きとした表情を目の当たりにし、「くたびれた親父に精魂を注入する再生工場が日本海食堂なのかもしれない……」と私はひそかに思った。

タイヤホイールやエンジンを取り囲み、オジさんたちが何時間も井戸端会議を繰り広げている様は、ここが日本海食堂でなければ成立しない異様な光景だった。正直言って私は、「そんな鉄クズ見て何が面白いんやろか」と呆れたが、考えてみれば私だって同じようなものだった。兄に「お前、何回も同じもん見続けてアホか」と言われた『スパルタンX』について嬉々として語り倒していられたのは、映画好きが集まった編プロという職場があったからだった。オジさんたちにとっても、日本海食堂はかけがえのない居場所だったのだ。

種口さんは「この人ら、店が閉店しとるんに真っ暗な駐車場でずーっと喋っとる時あるからね。おっかしいやろ?」と笑い、「お父さん、また連れて来てあげられ」と私に言った。何かを偏執的に追い求める人たちの異様さも、そうじゃない人たちの凡庸さも受け入れる種口さんのざっくばらんな大らかさは、店そのものの魅力に直結していると思った。

「日本海食堂に集うマニアの凄さは、どれだけ高いクラシック・カーを持っとるかじゃない。昔は誰も見向きもしなかったような安い軽四のポンコツ車を、大事に大事に今も乗っとるところなん。車が生き続けとるが。それはもの凄い価値があることなが。日本海食堂もそれと同じことやっとるんよ」

珍しく父がいいことを言った。じゃあ、日本海食堂が生き続ける底力って、一体何なのだろうか。私の「この店を知りたい」という欲求はさらに高まっていったのだった。

写真(バナー/07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」/文中:著者)

(つづく)