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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

11 “旧8”ドライブインの底力 ②

二代目の青春

2018年3月12日 公開

富山市水橋で半世紀にわたって営業を続けてきたドライブイン・レストラン「日本海食堂」は、高度経済成長、バブル崩壊、平成不況という時代の荒波に揉まれてきた。

1965年の創業時から10年ほどは、食堂前を通る国道8号線が富山の流通を担うメインストリートであったため、トラック野郎たちや、遠方からやって来る大型観光バスの乗客らで店は活気づいていた。モータリゼーションがもたらしたマイカー・ブームによって、週末ともなるとドライブがてら食堂を訪れる家族連れやアベックも多かったといい、食堂は3交代制で24時間フル稼働していた。

しかし70年代半ば、8号線にほぼ並行するかたちで高速道路、北陸自動車道の富山区間が開通。80年代以降は8号線の渋滞を回避するバイパス工事も盛んになり、食堂前の道が国道から県道へと降格した。全盛期に比べ交通量はガクンと減り、客足も遠のいた。バブル崩壊後の90年代に入ると、ドライバーの休憩所はパーキングエリアやコンビニ、家族団らんの場は安価なファミレスへと移行していく。全国津々浦々のロードサイドに存在していたドライブインは、フランチャイズの侵攻によってその役割を奪われつつあった。

しかし同業者が閉店に追い込まれる中、日本海食堂はどうにかこうにか踏ん張りをきかせていた。その火事場のクソ力とも言うべき原動力となっていたのが、当時33歳だった二代目店長である種口家の長男・茂さんだった。窮地に立たされた日本海食堂を、ホーロー看板で救った軍師が彼であった。

「2000年ぐらいの頃だったかな。建物も古くなっとったし、身体がしんどくなってきたこともあって、うちの両親は食堂を辞めようとしとったん。俺としては自分が小さかった頃の食堂の賑わいを取り戻したかった。最後にでかい花火を打ち上げようと思って、当時を思い起こすようなホーロー看板を飾り始めたん。俺自身、そういう古いもんが好きっていうのもあったんやけど」

茂さんも最初は「食堂を再建するぞ!」と奮起するより、「両親に花を持たせよう」というくらいの気持ちだったという。まずは食堂の目印となるレトロな看板を手作りで作成した。そして殺虫剤「ハイアース」や「オロナイン軟膏」といったお馴染みのホーロー看板を集め、ぽつぽつと食堂に飾り始めた。茂さんは上っ面をキレイにリノベーションするのではなく、食堂の“古さ”を“味わい”と捉え、そこに「崩壊寸前のオンボロ食堂です」という自虐的なユーモアを加えた。

しかし、今まで普通の食堂として通ってくれていた常連さんも大事にしたい。「あれ、なんか変な店になっとる!」と気づかれないよう、じわりじわりと昭和のレトロアイテムを店内に配置していった。だが、「外壁に『国際コドモ秘宝館』って掲げた時は、ここまでやってしまっていいんやろかと躊躇した」という。これだけジャンルを問わず飾りまくっているくせに、そのおっかなびっくりの姿勢は一体なんなのだ。しかし私は、それこそがこの食堂の肝だと思った。

「誰が持ってきたか知らんがやけど、首がちょん切れた兵馬俑とか駐車場に転がっとった時もある」

蚤の市に通ってホーロー看板を探し求めるうちに知り合った昭和マニアも頻繁に食堂に来るようになり、次々と土産代わりのレトログッズが集まりだした。

小上がりで草野球チームの打ち上げが行われ、テーブル席では労働者がどんぶり飯をかっこむのが日常風景だった日本海食堂にはいつの間にか、森昌子、山口百恵、天地真理ら“看板娘”が客を出迎えるようになり、ネットで噂を聞きつけたレトロ好きの新規客が加わるようになった。なかにはトヨタの「カリーナ」を駐車場に置いていく猛者までおり、さらにそれを目撃した旧車マニアが集うようになっていく。駐車場にはしだいに、60~80年代の旧車数台と、エンジンを囲んで談笑するオジさん軍団が現れるようになった。

「五千円が入った名無しの封筒もポストに挟まっとった時もあったよ。“わずかですが足しにして下さい”って書いてあった。ありがたいちゃ」

さらには孤児院に寄付するタイガーマスクかのごとき存在まで降臨するという、得体の知れない磁場が食堂の中に生まれた。それはひとえに、種口茂という人がいたからだった。

茂さんは「このレコード、宮史郎がいい顔しとるから飾ってもいい?」「え、そのハッピ着たマネキン怖い? じゃあ置くのやめようかな……」と周囲の様子を伺いながら自分のコレクター魂を発露していく。アクが強いものを愛でながらも、決して強引ではない控えめな茂さんのスタンスが、私がこの店に感じた「開かれた異世界」を築き上げたのだろうと思った。

「こんな場所ちゃ、作ろうと思って作れるわけじゃないからね」

そう語る茂さんが食堂の跡を継ぐべく、料理修行で上京したのは86年、19歳になる年だった。しかし2年と経たずに東京で出会った沖縄娘との恋に破れ、「あの子が南の島へ帰るなら俺は北へ……」と、ヤマハのバイク「TT250」を駆って夏の北海道へと傷心旅行に繰り出す。その心境は「『幸福の黄色いハンカチ』の欽也(武田鉄矢)」だったそう。しかし桃井かおり的な運命の人に出会う前にバイクがぶっ壊れ、修理に立ち寄った十勝・足寄町のドライブインの社長と意気投合。いきなり「厨房で働かないか」とスカウトされ、「はい!」と二つ返事で快諾する。そして社長のトラックを借りて東京の荷物を引き上げ、富山へと一時帰郷。「俺、北海道で働くことにしたから」と唐突に息子に告げられ、「え!」と驚く両親の開いた口が塞がらないうちに、茂さんは北海道へとトンボ返りしたのだった。

コックとしてドライブインに住み込みで働きながら、ツーリングに訪れたバイカーたちと朝まで酒盛りしたり、負傷した競走馬の世話をしたり、狩猟に出かける社長のお供をしたりと充実した北海道ライフを送っていた茂青年。「これこそ俺が求めていた自由だ!」と確信するも極悪非道な冬将軍が襲来し、鼻毛が凍るほどの極寒に萎えてしまう。ドライブインもオフシーズンとなったことから、「もう一回、料理の勉強をし直します」と89年に再び東京へと舞い戻ることになった。

その後、茂青年は北の大自然から、アメカジ・ブームに沸く東京ど真ん中のオシャレ・スポット、代官山のアメリカン・ダイナーへと潜り込むことに成功。店に訪れる外国人客たちと親交を深めるうち、今度は「アメリカに行きたい」という海の向こうへの憧れを募らせていく。しかし同じ頃、日本海食堂は父・泰生さんと共に店を支えていた母・静さんが体調を崩し、営業がままならなくなっていた。それまで一度も出されたことのなかった両親からのSOSに、茂青年はついに観念して富山へと本格的に戻ることになったのだった。

時は94年。バブルが崩壊し、時代は長期にわたる平成不況へと突入していた。しかし茂さんが戻ってきたことで日本海食堂は再び軌道に乗り、お母さんの体調も回復。すると安心したのか、茂さんの中でむくむくと放浪癖が顔を出し始めた。一年に数回、休みを取り、ロサンゼルスやニューヨーク、アジア各国を巡った。

「初めてアメリカ行くってなった時は、危ないから護身術がわりに空手を身につけろと友達に言われたん。でも近所に少林寺拳法の教室しかなくて、そこへ半年間通った。役には立ったぞ。英語はNHKラジオの『基礎英語』を聞いただけ」

まずは少林寺よりも英語教室に通えよと思うが、茂さんは「何とかなるだろう」の精神でしのいでしまう。そして富山から東京、北海道、アメリカ、アジア圏と放浪した末、彼が次に向かった先はネパールだった。しかも今度は単に旅に出るだけじゃない。「現地で暮らす」という行動に出たのだ。

「俺もアンタと一緒なん。富山でくすぶっとるのが嫌だったん」

日本海食堂のテーブル席で、私に食べさせる用のハッサクの皮を手で引きちぎりながら、自分の半生を語る茂さんを前に、私は「無軌道な青春を送っていながら、この人のそばには常にドライブインという存在があるな」と思わずにはいられなかった。


北海道・足寄町にて。種口氏20歳のころ

 

写真(バナー/07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」/文中上:著者/文中下:種口茂)

(つづく)