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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

12 「旧8」ドライブインの底力 ③

「旅の人」がつくった社交場

2018年3月26日 公開

富山には「旅の人」という方言がある。それは文字通り富山を訪れた旅行客という意味もあるが、大抵において「他県から富山にやって来た移住者」を指す。79年生まれの私たち世代がその言葉を日常的に使うことはほぼないが、親より上の世代が「あそこの嫁はん、旅の人やからね」と話している場面に出くわすことは結構ある。自分の故郷より、嫁ぎ先の富山で過ごした年数のほうが圧倒的に長いとしても、その嫁はんは「地元民ではない人」=「よそ者」と悪意なく周囲から言われ続ける。なんてことのない日常会話の中に、富山の閉鎖性はゆるやかにはびこっているのだ。

「旅の人」という方言は廃れていくのかもしれないが、だからといって自分たちの中に排他的な気質がなくなるかといえばそうではない。私自身、富山に戻ってきた当初はよそ者としての疎外感を抱いていたのに、今では逆に県外から新規参入して来た人々の華々しい活躍に、「富山のことなんて知りもしないくせに……」とじとーっとした陰湿な眼差しを向けている。自分が通い詰め、愛でてきた場所を部外者に荒らされるのが気に食わない。自分がそんな感情に苛まれるというのは、地元民である自覚が生まれたせいでもあるが、同時に多様に変化しようとする町や人に対してのやっかみもあるのではないか。自分がその流れについていけないだけではないか。富山に根ざして生きようとすればするほど膨れ上がる縄張り意識は、私がかつて「鬱陶しい」「厄介だな」と思っていた類のものだった。

しかし「日本海食堂」の二代目店主・種口茂さんは、富山で生まれ育ちながらも、ある時はみずからが旅の人となり、ある時は旅の人を受け入れる側になっていた。よそ者が行き交うドライブイン・レストランという生業を、幼少期から知っているがゆえの茂さんの軽やかな身のこなしは、間違いなく現在の“ディープなのに間口が広い”日本海食堂を育む土台となっていた。私は日本海食堂のお客さんたちがてんでバラバラ、好き勝手にくつろいでいる様子に憧れた。それぞれにここが居場所ではあるのだろうが、互いのコミュニティの間に頑強な境界線が張り巡らされているわけではなかった。それは店主である茂さん自身が、日本海食堂を「自分の店だ」とする縄張り意識が希薄だからだと思った。


1960年代。8号線が国道だった開店当時の日本海食堂。

「俺は基本的にどうしたってバックパッカーなんよね」

茂さんは傷心旅行で出向いた北海道でもドライブイン、代官山でもドライブインの原型であるダイナーで働き、それらの経験が日本海食堂の再建へとつながっていくのだから、振り返ってみれば蛇行しつつも一本の道が出来上がっていた。しかしだからこそ「その道からはみ出したい」という衝動を、茂さんはいつも抱えていたのかもしれない。

茂さんは日本海食堂を両親に任せ、96年から2年間、青年海外協力隊の「料理指導員」としてネパールで暮らした。会社に属したまま派遣される「現職参加」という制度を利用できたため、食堂にも一定の給与が支払われることになり、両親への負担は減らせた。

それまで東京で10年近く暮らし、憧れのNY、LAといった大都会も覗いてみた茂さんだったが、「都会ちゃ、どこも一緒だったわ」。それらは同じように無機質な町だと感じた。しかしネパールの人たちは、相手がネパール人だろうが日本人だろうが、うざったくなるほど親し気に接触してくる。

「ネパールちゃ、昔の日本の田舎みたいになーんもないとこやった。でも物がなくても、みんな幸せそうに暮らしとった。人と人とが濃密に繋がとって、俺もそういうもんを大事にしようと思ったんね。すべてがフランチャイズ化して、個人商店っていうもんがなくなる前に、お客さんたちの社交場としての食堂を取り戻したかったん」

かつてトラック野郎、旅人たち、地元民らが交錯し、ひとつの大きな溜まり場となっていた日本海食堂の面影と重なり、妙に懐かしい居心地の良さを感じたという。ネパールで過ごした日々は、かえって茂さんに「実家の食堂を営もう」との決意を新たにさせた。98年に帰国してから、茂さんは真の意味で日本海食堂の二代目となったのだった。

私は「茂のわんぱく一代記」を聞きながら、目の前に出されたホットコーヒーをじっと見つめていた。なんでハナエモリ風の花柄ソーサーの上に、ミスドの販促マグカップを置くのだろうか……。胸が熱くなるような話の一方で、間が抜けている目の前の現実。それが種口茂という人の、ひいては日本海食堂の愛すべき魅力だった。

「自分探しの旅に出て、自分を見失って帰ってくるパターンを繰り返しとった。ポンコツやろ?」

そう茂さんは自嘲するが、「食堂を継がなくてはいけない」という使命感と、「人生、成り行きまかせ」という“さすらい”感がゴッチャになっているこの人が、私はとても好きだった。自分のやりたいことに、どこかで落とし前をつけようとする感じも親近感がわいた。

「俺、蜂に刺されて足ボンボンに腫れて、今朝まで一週間入院しとったんぜ。ピストン来るとやっぱ俺、体調悪なるわ」
「今日は俺の体調じゃなくて店の調子が悪なった。トイレの水道管、破裂したわ」
「この間、昔の消防車をゲットしたんやけど、動かそうとしてみんなで車体イジっとったら煙出てきて、あやうく消防車呼ぶところやったわ」

私は店に行くたびに「どんな異変が起こっているんだろう」とワクワクし、期待を超える怪現象っぷりに笑い転げた。また「夏といえば水着。水着といえばプロレス」「冬といえば哀愁。哀愁といえば殿様キングス」という、素人には分からない茂さんの季節感のおかげで店のアイテムも定期的に変化しており、通い詰めても飽きることはなかった。この店は確かに私好みの「昭和レトロ」をアピールしていたが、だからといって旧世代の昭和に停滞しているわけではなかった。2000年代を生きる様々なコミュニティの人たちが集い、飯を食い、行き交うことで、昨日とは違う食堂の一日が更新されていく。茂さんとお客さんの交流によって、珍妙なエピソードも次々と生まれる。この食堂は今を生きていた。

日本海食堂がこの先、どこまで続いていくのかは私には分からない。急に「旅に出ます」とメモだけ残して、ポンコツのバイクを駆って、ぷすぷすとエンストしながら茂さんはどこかへ行ってしまうかもしれない。それでも茂さんが居る限り磁場が生まれるだろうから、私はそこから発せられる怪電波をキャッチして、また会いに行けばいい。中学時代の同級生コンちゃんが導いてくれた日本海食堂との出会いは、私にとって大きな転機となった。この場所には、どこにもない、ここにしかないものがある。

一方そのころ富山の街なかはというと、3年後の2016年春の北陸新幹線開通を控え、諸手をあげて観光客を迎える準備を進めていた。県内外の酔狂客の吹き溜まりだった駅前の酒場の取り壊しが決まった。そして、「3番線のオバちゃんより、6番線のオバちゃんが作るそばの方が旨味が強い」という(私だけの)都市伝説があった立ち食いそば屋も、駅ホームから姿を消すことになった。私は「積み重ねてきた秘伝のタレに、ササッと消臭剤を吹きかけてしまうようなもんだな」と切なくなった。新幹線開通に伴う再開発は、さまざまな「旅の人」を受け入れるために、アクの強いものを手っ取り早く撤去しているように私には見えた。一部の層にしかリーチしないであろうそれらの代わりに、量産されたフラットな白いハコを町に放り投げることが、間口を広げるということなのかという疑問が湧いた。澱んだり、交わったり、ぶつかったりすることもなく、何事も起きずに人々がスルスルと通り過ぎていく街。それは間口が広いのではなく、私には「空虚」という名の圧力だと感じた。

本当の意味で「フラット」なのは、煮え煮えのアクを出す個性派コミュニティ同士が、それぞれの個性を奪われることなくごく平穏に同じ空間の中で共存している場所だと思った。私はその理想形を日本海食堂に見た気がしたのだ。私はこの場所から受けた感動を自分の言葉で表現したいと思った。「日本海食堂はこれこれこうなんですよ。是非行ってみて下さいね」などという定型文なんて書きたくなかった。読んだ人が食堂に行こうが行かまいが、私の知ったこっちゃない。「ここが猛烈に好きだ!」 という気持ちを四方八方に投げつけようと思った。それは17歳の時にこみ上げてきた「ギターをかき鳴らしたい!」という初期衝動と似ていた。

こうして私は富山から帰郷して5年目を迎えた2013年の春、自費出版のミニコミ『文芸逡巡 別冊 郷土愛バカ一代!』の制作に取りかかった。日本海食堂から始まった富山探検ツアーは、やがて失われていく街の猥雑な香りを辿る旅へとなっていくのだった。アラサー独女、とっくに物の分別がついている年頃かと思っていたが、往生際が悪く二度目の思春期に突入した。


種口青年・ネパールにて。

 

写真(バナー/07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」/文中上:日本海食堂提供/文中下:種口茂氏提供)

(つづく)