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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

13 モラトリアム延長戦の果てに

消えない街なかのシンボル ①

2018年4月23日 公開

「西町のスクランブル交差点の角で、重鎮オーラをまき散らしてた大和がない!」

2016年の北陸新幹線開業に向けた一連の再開発事業で、私が最初に衝撃を受けた出来事は老舗デパート「富山大和」の建物が無くなったことだった。

うちのオカン曰く、「大和は東京でいう日本橋三越。大和の包装紙に包まれた品が誰かから贈られてくると、“あのっさん(あの人)、えらい(とても)ふんぱつしたがやな”と思ったもんやった。ひとつのステイタスだったんやろうね」。

1932年の開店以来、75年間にわたって富山市西町の一等地に君臨していた大和は、同じく街なかに2007年にオープンした複合型商業施設「総曲輪フェリオ」内へと移転。旧・大和の建物は2013年に取り壊された。今現在も大和は営業しているのだが、あの威風堂々とした建物が消えたことは、大和を目印に街なかの地理を把握していたド方向音痴の私から、さらに方向感覚を奪っていった。

旧・大和のあった富山市中心部は、第二次世界大戦末期の1945年8月1日から2日未明にかけて、アメリカ軍による富山大空襲で99.5パーセントを焼失した土地だった。市街地が壊滅状態になるなか、わずか0.5パーセントの焼け残った建物のひとつに大和があった。地元紙の記事で見かけた、空襲直後の街なかを撮影した写真には、焦土にポツンと大和が佇む様が写されていた。大和は、当時はまだ珍しかった鉄筋コンクリート造りのモダン建築だった。豊かな暮らしの象徴だった百貨店が焼け野原に立ち続けていたということが、生き残った人たちにどれだけの希望を与えたことだろう。

私やオカンが生まれるずっと前から大和は街なかのシンボルであり、戦後復興から21世紀へと続く生きる道しるべだったのだ。しかし大和が戦禍をくぐり抜けた貴重な遺構であることを私が思い出したのは、建物の解体が始まってからだった。旧・大和の跡地には、ガラス美術館と図書館が併設された「TOYAMAキラリ」が建設される予定になっていた。

2015年、隅研吾先生の設計によって誕生したキラリは、ガラス、御影石、アルミ、立山杉などの富山名物を取り入れた美しい建物だった。内観は2階から6階まで斜めに吹き抜け、それに沿うようにエスカレーターが設置されていた。新たなシンボルに初めて訪れた私は、明るい開放的な空間に妙にソワソワさせられていた。さらにはエスカレーターの背後から「ピストンさ~ん!」と知人に呼び掛けられ、自分のペンネームのあまりもの場違いさに慌てふためき、持っていたボールペンをフロアへと落っことした。人でにぎわうキラキラ空間に転がる、「バイアグラ」と記された販促ボールペン……。私は一目散にボールペンを拾い、そのまま見学もせずに逃げ帰る羽目になるのだった。

私にとって、街はどんどん居心地の悪いものになっていった。街が洗練されていくたびに、壊れたから作るのか、作るために壊すのかが分からなくなっていった。しかし地元民ならいざ知らず、10年間も富山を離れていた自分が、「街が変わってしまった」と嘆くのもお門違いに思えた。

大阪の大学に進学した1998年から、私の中の街なかの記憶はほぼ更新されていなかった。そもそも映画雑誌の市川雷蔵ページをシコシコと切り抜くのが趣味の、いたってインドアな女子高生だった私には、街に対する特別な思い入れがない。通っていたわずかな場所もすべて無くなってしまった今となっては、どこに何が存在していたのかすら思い出せない。「ここは相変わらずだな」と過去の記憶とリンクしたのは、悲しいかな中央通りのシャッター商店街だけだった。

つまり私の街への愛着は、東京から富山に帰郷してから芽生えたものだった。方々で発せられる街の体臭を、クンカクンカと嗅ぎ回るようになったのは、私と同じく、三十路手前で都落ちした高校の同級生・野上とトモトシの存在があったからだった。そう。かつて東銀座の居酒屋でしょっぱい酒を交わしたAとBとは、「野上」と「トモトシ」という。救世主コンちゃんと再会する少し前、モラトリアムをひきずっていた私を癒やしてくれたのは彼らだった。

「先に富山で待っとるちゃ」と言って東京で別れたトモトシには、帰郷してからすぐに連絡した。半年ぶりに会ったトモトシは、かつて東銀座の居酒屋で「マイナスから富山をスタートする」と吐露していた通り、慣れない家業に疲れ切っていた。慰めるつもりで「自分のやりたいことをしたら?」と言った私に、トモトシは「そんなことより、俺は会社や従業員の人たちの利益を最優先に考えんといけんがんね」と静かに返した。東京時代もしょっちゅう二人で飲んでいたが、そんなこと言うトモトシは初めてだった。「こうなりたい」と言うことはあっても、「そうしなければならない」と言ったことはなかった。トモトシに強いられた厳しい現状と、これからの自分の行く末とが重なり気持ちが沈んだ。

一方、「富山に帰ることはプラスだ」と言ってのけた野上は、実家の薬局を継ぎながら富山でも芸人として活躍していた。夢を諦めてはいなかった。東京から富山に相方を連れ帰り、一年も満たない間にコミュニティFM「富山シティエフエム」でレギュラー番組を持ち、街なかで漫才イベントを催すようになっていた。薬剤師界隈で知り合ったのか、いつの間にか私のオカンとも仲良くなっており、うちの町内会の夏祭りにしれっとゲスト登壇までしていたのには、「知らん間に何しとるんや!」とちょっぴりイラついた。

「薬剤師と芸人の二足のわらじを履いとるような、そんなハングリー精神のないやつはダメや」と絡む商工会議所のオッサン相手にも、野上は愛想笑いでかわして漫才を披露し続けていた。やらねばならない薬剤師という生業と、自分がやりたい芸人の活動を両立させようと奮闘する姿には、「何を言われようが、富山を無理矢理にでも面白がってやれ」という“なにくそ根性”があるように私には見えた。やたら同級生を集めてドンチャン騒ぎしたり、草野球チームを結成したりしていたのも、「こんなに楽しいんだから、富山に帰ってきて正解!」と自分自身と周囲に言い聞かせるための、野上なりのマウンティングだったのかもしれないと思った。

野上のパワープレイに巻き込まれた私とトモトシは、強制的に草野球チーム「ノリスターズ」に入らされた。ノリスターズは、いい大人が一丸となって童心に返ることを信条としていた。野球に飽き足らず、「カレーの新たな隠し味を探そう!」とオロナミンCをカレーにトッピングしたり、「誰の筒が一番いい音が鳴るか」と中学時代の卒業証書を持ち寄ってポンポン鳴らし合いっこしたりと、「お前ら、童心に返りすぎて戻って来れなくなるぞ!」と叱責したくなることばかりしていた。

彼らはアホだったが、私の記念すべき30歳の誕生日に、パーティを開いてくれる心優しい連中でもあった。参加者には「サングラス着用」というドレスコードがなぜか設けられていたのだが、ほとんどが「井上陽水」か「タモさん」のコスプレで着地するなか、ひとりだけ「ハマショー」をぶっ込んできた男がいた。トモトシだった。しかも全然似せようとしてこない。大爆笑した。ああ、そうだ。私の知っているトモトシはこういう男だった。いきなり変化球を投げてくる、ウィットに富んだヤツだったことを思い出した。

ノリスターズと一緒に騒ぐことは、「アンタ、早く子供産んどいた方がいいよ」「珍スポット探してどうするん?」と腐す女友達といるより、何百倍も充実した「無意味な時間」を私に与えてくれた。現実逃避と言えばそれまでだが、その何もなさが、私のささくれ立った心を癒やしてくれた。それはきっと、トモトシも同じだったのではないかと思う。

ウジウジと立ち往生するぐらいなら、自分で動いて周囲を巻き込んでしまえばいい。そんな野上の圧倒的な行動力に、私は大いに触発されていくことになった。そしてさらに野上は、私に運命の出会いをもたらしてくれた。

ノリスターズの招集がかかる時は大抵、野上から「“玉突き”のおばちゃんところに来い」というメールが届いた。「玉突き」とは、彼らが高校時代からたまり場にしていた、街なかの老舗ビリヤード場「総曲輪ビリヤード」のことだった。

半世紀にわたり、総曲輪の裏通りに鎮座してきた総曲輪ビリヤードは、古ぼけた雑居ビルの2階にあった。開店当初から店内のレイアウトが変わっていない、というか、おそらく変えるのが面倒臭いのだろう。ビリヤード台が4台とタバコの焼け跡がついた長ベンチ、「グゴー!」と地鳴りのような稼働音を出すクーラーが設置されていた。壁には常連客が持ってきたグラビアアイドルのポスターやら提灯やら、野上の漫才イベントのチラシやらが貼られており、そんな雑多なインテリアに囲まれて、テレビの野球中継を眺める小柄なばあさんがいた。その人物こそ、街なかの栄枯盛衰を見守り続けてきた、当時御歳80歳の「おばちゃん」こと、サウスポーのハスラー・水野田鶴子だった。

初めておばちゃんと会った時の印象は強烈だった。古くからの常連である野上やトモトシには「いらっしゃ~い♥」と黄色い声を上げ、見たことのない新規の女性客である私には「誰やこいつ」と露骨に怪訝な顔をした。おばちゃんは80とは思えぬカクシャクぶりでせっせとキューを運び、冷蔵庫に常備してあるビールでもてなしてくれたが、孫世代であるはずの私に優しい視線を注ぐことはついぞなかった。私は老人の懐に入るのは得意な方だが、おばちゃんにはまったく通用しなかった。「私の愛しの野上に手を出すんじゃねえ!」と牽制されてしまった。もう立派な「おばあちゃん」なのに「おばちゃん」と呼ばせるこの人を、「老人」と思って接してる時点でアウトだった。おばちゃんは、ひとりの女として私に勝負を挑んできているのかもしれない。そう思った瞬間から、「おばちゃん」を「田鶴子」と心の中で呼ぶことにした。

縁側で編み物をする優しいおばあちゃん像に反旗を翻す、80歳のツンデレ女子・田鶴子。旧・大和なき後、いつしか私のなかで、田鶴子が新たな街なかのアイドル=シンボルとして、君臨し始めるのだった。


「総曲輪ビリヤード」入口

 

写真(バナー / 07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」 / 文中上:富山市ホームページより / 文中下:著者提供)

(つづく)