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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

14 消えない街なかのシンボル ②

総曲輪の夜・80歳のガールズトーク

2018年5月14日 公開

私の本職は実家の小さな薬局に属する登録販売者(一般医薬品の販売専門資格)であり、薬局開設者である母の代理を担う店長でもある。当初は「威厳を出すために白衣を着ろ」と母に言われたが、二の腕と腹がパッツンパッツンになって動きにくかったので、今ではゆったりとしたエプロンを着用して仕事をしている。ある日、その格好でホームセンターに買い出しに行ったら、私をスタッフだと勘違いした農家のおばちゃんから「姉ちゃん、牛糞ってどこのコーナーにあるんけ?」と尋ねられた。ある時は介護施設にお薬を届けに行ったら、ヘルパーさんに「ごちそうさま!」と出前のラーメンどんぶりを返却された。私はとてもエプロンが似合うのだろうと思う。

薬局の中にいても、時々、間違われることがある。飛び込みの営業さんに「奥さん、ご主人はいらっしゃいますか?」と言われ、「すみません、今いないんですよ」と答えた。私は奥さんではないし、ご主人もいない。もっと言えば当店のご主人はまだ見ぬ旦那さんでも、オトンでもなく、うちのオカンである。しかしそんなこと、赤の他人が知るよしもない。初対面の相手と会話をする時、いくつかの事前情報とパッと見の印象で「この人はだいたいこういう属性なのだろう」と、あらかじめ見当をつける。そこには“一般的にみて”という前提ありきで喋ることがほとんどだ。

私自身もやらかしたことはある。友達と酒場に繰り出して、たまたま隣にいた初老の男性客と話が盛り上がり、「お父さん!何言ってるんすか~わははは」と軽口を叩いたら、「俺、お父さんじゃないよ。結婚したことないから!」と言われ、平謝りするしかなかった。うちの父と同世代だからって、その人が誰かのお父さんであるかどうかなんて分からない。

「総曲輪ビリヤード」の店主・水野田鶴子と初めて会った時も、私は田鶴子のことを、「夫に先立たれた後にひとりでビリヤード場を営む苦労人のおばあさん」と勝手にストーリーを仕立てていた。友人の野上から「先代オーナーはとうの昔に亡くなっている」と聞いていたせいもある。「ひとりで経営されとって大変ですねえ」と私が話を振ると、「別にそんな大したことでもないわよ」と田鶴子はぶっきらぼうに答えた。田鶴子が亡きオーナーと約30年間も愛人関係であったことと、80の今までずっと独り身であったことは後で知った。

野上やトモトシら同級生とつるむようになった私は、彼らのたまり場であった田鶴子の店にも顔を出すようになった。飲み会の後、車の代行を待つ間に彼らはビリヤードに興じていたが、玉を突くことよりも田鶴子の方に興味があった私は、どうにかこの素っ気ない人を攻略できないものかとばかり考えていた。田鶴子は田鶴子で「この女、ビリヤードもせんと話しかけてくるだけで、プレイ代500円を払う気がないんじゃないか」と思っていたらしいが、毎回ショバ代は払った。田鶴子が私のことを「ちゃんと金を置いていく客」だと認識し始めたあたりから、私と田鶴子との距離は徐々に縮まっていき、彼女の好物であるケンタッキー・フライドチキンを手土産に持っていくようになったあたりからは、私の呼び名が「藤井さん」から「藤ちゃん」へと変わり、親密度が格段に上がった。


著者からのプレゼント、GUのセーターに喜ぶオシャレ大好き88歳(!)(18年5月現在)

「あ~、おいしい! やっぱ骨付きよね~」と言いながら、嬉々としてケンタッキーにかぶりつく田鶴子を前にして、私は「自分は80を過ぎても、揚げたチキンをこんなにもりもりと食べられるのだろうか」と思った。

その後、野上が結成した草野球チーム「ノリスターズ」の終身名誉監督に就任した田鶴子は、野球の打ち上げの席にも度々、登場することになるのだが、そこでの飲み食いぶりも凄かった。「まずは、おビールね」と生中を飲み、唐揚げとポテトをほおばり、「美容にいいから」と付け合わせのレモンにそのまましゃぶりつく。二杯目のレモンサワーに入っているレモンにもしゃぶりつく。若いツバメたちに囲まれ「おほほほ」と上機嫌で笑う田鶴子は、私が今までに出会ったどのばあさんたちとも一線を画していた。

「私、銭湯が好きで通ってるんだけど、ササッとすぐに洗ってあがっちゃうの。だって嫁のことを口汚く罵る姑のババアばっかいるんだもの。そんなの聞きたくないわよ」

言っている内容は辛辣だが、田鶴子の言葉には妙な品があった。山の方(立山の麓)の上市町の出身であるはずなのに、ザイゴ(田舎)のおっ母ちゃんたちが喋る露骨な富山弁を田鶴子からは聞いたことがない。東京と富山で仕事をする私の兄は、東京から富山に帰省した途端、地元の人に合わせたいのか、急にどぎつい富山弁を喋り出す。一方総曲輪にずっと居る田鶴子は、流暢な標準語で「ペチャクチャと余計なことばっか喋る女が嫌いなのよ。子供と犬猫も嫌いなの」と躊躇なく言い放つ。嫌いなものには自分から近づかないし、向こうから来ても「あ~、はいはい」とやり過ごす。無理に敷居を下げて客を招くことがない代わりに、「私を敬え」と大上段に構えることもしなかった。激しい人見知りのくせに八方美人で、引きつり笑いのせいで左のほうれい線が深くなる一方の私にとって、誰に対しても対等な田鶴子の生き様はすこぶるカッコよく見えた。田鶴子の言葉には嘘がなかった。

私は野上たちとの集まりがなくても、田鶴子に会いにひとりで街なかに通うようになった。20時を過ぎると、総曲輪フェリオのある表通りはすっかり人通りもまばらになっていたが、裏通りに一歩入れば、軒を並べる老舗の居酒屋や焼き鳥屋は活気に溢れていた。「こんなところにロック・バーあったんだ!」「この中華料理屋、朝までやってんのか!」と、私はビリヤードに通うようになってから初めて知った、躍動する総曲輪の夜に興奮していた。

田鶴子は昼の12時から最後の客が帰るまで休むことなく店を営業していた。通りから雑居ビルの2階を見上げ、グラビアアイドルの水着ポスターが貼られたガラス窓から光が漏れているのを確認すると、「田鶴子、まだ居るな」と少し嬉しくなる。「おばちゃ~ん」と店のドアを開けると、ケンタッキー献上のおかげだろう、「あら藤ちゃん!」と田鶴子も喜んで私を迎え入れてくれるようになった。週末には会社の飲み会帰りのサラリーマンや、ノリスターズの面々が来て賑わっていることもあったが、平日はコアな常連客が二、三人だけで、客がひとりも来ない日もあった。そんな時は、買ってきたタコ焼きを田鶴子と一緒に食べながら、二人でガールズトークを繰り広げた。

「うちのお客さんで、とんがりコーンばっか食べる子がいるのよ。その子のために、私この間、とんがりコーンを5つも買ってきたの。でもその子は自分が買ってきたチョコは、私に一個もくれないの! ほんとケチだわよ」

「私、ビリヤードやる前は地鉄(富山地方鉄道)に25年間務めてたの。大東亜戦争が終わる直前に15歳で入社したのよ。富山大空襲があった翌日にも、東新庄駅でもぎりをやってたんだから」

田鶴子はとんがりコーンにヤキモキする2000年代の日常と、1945年の富山大空襲の惨事を並列して、しかも明確に喋った。田鶴子のガールズトークの中に、激動の昭和史が不意に顔を出す。

田鶴子と私は擬似「おばあちゃんと孫」のような関係ではまったくなく、「野上を巡る女の三角関係」でももちろんなく、かといって「店主と客」というドライな関係というわけでもなくなっていた。少なくとも私は、とても気の合う女友達として田鶴子と接し始めていた。田鶴子と、田鶴子の居る総曲輪という街のことを、私はどんどん好きになっていったのだ。戦前・戦中・戦後を生き延びた旧・大和デパートが無くなろうとしている今、田鶴子はそれに代わる「生きた街のシンボル」としての役目を担っていくのかもしれない。本人は「そんなの知らないわよ」と言いそうだが、私は田鶴子と、彼女が見てきた総曲輪のことをもっと聞きたいと思うようになっていた。

 

写真(バナー / 07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」 / 文中:著者)

(つづく)