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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

15 消えない街なかのシンボル ③

抗わず、流されず。孤高のアイドル

2018年6月4日 公開

「私、人と会うのが嫌いなの。喋るのも嫌。本当はずっとテレビの韓ドラを見てたいの」

「総曲輪ビリヤード」の店主であり49歳差の女友達・田鶴子は、そう言って三杯目のレモンサワーをクピクピと飲み干した。2018年現在、88歳の米寿を迎えた田鶴子は「人と喋るのも嫌」と言いながら、行きつけの居酒屋で私を相手に2時間も喋り倒していた。彼女と出会ってから8年の歳月の中で、田鶴子は転倒して壁に頭を打ったり、足の指を折ったり、ひどい風邪で寝込んだりすることもあったが、そのたびにアスリート並みの驚異的な回復力で現場復帰した。「80になるまでシワなんてできなかった」「早く入れ歯にしたいのに、ぜんぜん歯が抜け落ちなくて困ってる」と語る田鶴子を見ていると、総曲輪の沼に棲むネッシーか何かかと思えてくる。

私は富山で一人暮らしを始め、5年目を迎えようとしていた。実家の薬局が職場なのに、わざわざ郊外にある実家から富山市中心部へと住まいを移し、20分かけて実家に車通勤していた。それは社長である母から、仕事もプライベートも一緒くたにダメ出しされるのが苦痛だったからに他ならず、一人になれる場所が欲しくて引っ越したのだった。

実家に住んでいた頃、母とは喧嘩ばかりしていた。当時、本業に支障をきたさない限り、私のライター業を母は許してくれてはいたのだが、割と早い段階で思いきり本業に支障をきたし始めた。原稿執筆で徹夜しても「配達いってきまーす!」とカラ元気を出し、顔面蒼白でヤク(薬)の運び屋(配達)に従事した。だが次第に顔面蒼白を一周して、土気色の土偶と化していった私を見て、ある日曜の朝、ついに母がガチギレした。

「アンタはどっちで飯が食えてると思っとるんけ! 薬局の仕事の給料分、そのライター仕事で稼げると思っとんがか! いい加減に諦めろ!」

金切り声の母の正論は、疲れ切った私の身体をメッタメタに切り裂いた。私は母に内緒でアパートを探し、鬼の居ぬ間に実家から荷物を運び出して一人暮らしを開始した。だが、引っ越して一週間ぐらいで車の窓を割ってしまい、すぐ母にSOSの電話をかけた。「車の窓、割れちゃった場合……どうします?」とモジモジとみずから干渉を願い出てきた私に、「せんでもいい引越しなんかするからやろが、このダラ!(バカ)」と母はひとしきり怒鳴り、そして板金屋さんの連絡先を教えてくれた。私は33歳になっても一人では暮らせなかった。

とはいえ、物理的な距離ができたことは私たち親子にはいい効果があった。見たくなくても飛び込んでくる娘のだらしなさに母がイラつくことは減ったし、私は私で毎日のように浴びせられた母の詰問をかわすことができたので、両者ともに心の平穏が訪れていた。しかしそれも、一時であることを私は分かっていた。母からの「お前はどうやって、これから一人で生きていくのだ」という問いに、答えを出せないままでいたからだった。

「アンタは愛想ばっか振りまいとって、本心を誰にも見せようとせん。人のことを信じれん人間なが。自分に自信が無いから人のことも信じれんが。そんなんで生きていけるんかと思って、お母さんね、本当に心配しとる」

私は母に言われたこの言葉がずっと忘れられない。

一人暮らしは自由気ままではあるのだが、一人で部屋に籠っているとたまらなく居心地悪くなる日もある。自分の右側頭部の上に、得体の知れない黒い何かがぼんやりと漂っている。その気配はなんとなく常に感じてはいるのだが、ふとした瞬間に「ほれ!」とゴミ箱に鼻クソを丸めたティッシュを放り投げるかのように、そっちに身を投じてしまいそうになる。ポッカリと開いた心の隙間に落ちてしまう前に、私は発作的にアパートを飛び出し、田鶴子が居る街なかへと繰り出した。一人になりたいけど、一人で居たくなかった。そんな私を、「あら、来てくれたのね!」と変わらないテンションで、田鶴子はいつもそこに居てくれた。

1945年、第二次世界大戦の終戦直前、父親のコネで田鶴子は15歳で富山地方鉄道(地鉄)に入社した。毎朝4時に起きて家の田んぼ仕事を手伝い、6時の電車に乗って出勤していたらしい。8月1日から2日未明にかけて起きた富山大空襲の翌日にも、田鶴子は東新庄駅で切符のもぎりをしていたという。富山市の中心部が99.5%壊滅し、富山駅と隣の稲荷町駅も焼失してしまったが、かろうじて残った二駅先の東新庄駅を始発にして地鉄は電車を走らせたのだ。街から山へと逃げる人々を乗せて。

「私の実家は上市の山の方で百姓をやってたの。米はお国にあげなくちゃいけないから、お粥さんに麦粉混ぜたまっずい、まっずいもの食べてたけど、野菜はたくさんあったわね。大空襲の被害も全然、受けなかった。街の方は大変で、防空壕に入った人たちみ~んな焼けちゃったみたい。そういえば、街に住んでたうちの叔母が空襲の前日に山に引っ越してきたのよ! ほんと、にっくらしいババアだったんだけど命拾いしてたわね」

田鶴子はつい昨日、起きた出来事のように富山大空襲のことを話した。「飯がマズイのは腹立つ」「ババアが嫌い」という田鶴子らしい毒気たっぷりで語られるぶん、当時の情景もやたら鮮明に浮かび上がった。「あの頃はそういうもん」という田鶴子のやけにサバサバとした語り口も、余計に当時の殺伐としたムードを物語っているように感じた。昭和5年生まれの田鶴子にとって、物心ついた時から日本は戦争の渦中にあったのだ。しかし田鶴子だったら、お国に中指を突っ立てるぐらいの気概で焼け野原を蹴散らしていきそうなもんだが、その後田鶴子は、予想に反して自由とは真逆の人生を歩んでいった。

1970年、田鶴子は地鉄を25年間務め上げ、その退職金を使って「総曲輪ビリヤード」を開店した。このとき、田鶴子40歳。24歳の時に出会って以来愛人関係となった、妻子ある先代オーナーとの共同経営だったが、表向きは一介の従業員として働いた。

第二の人生を歩み始めてから、田鶴子はますます多忙を極めた。実家の弟が銭湯を経営していたこともあり、ビリヤードで働いた後、家に帰って銭湯の浴槽を磨く手伝いもしていたという。80年代半ばになると、ポール・ニューマン、トム・クルーズ共演の映画『ハスラー2』が世界的に大ヒットし、日本に空前のビリヤード・ブームが巻き起こった。折しも日本はバブル期に突入しており、“富山の歌舞伎町”こと桜木町は連日人で賑わっていたそうで、隣接する総曲輪に二次会で流れたお客さんがビリヤードに立ち寄ることも多かったという。


オープン間もない頃。田鶴子と常連客

「あの頃の桜木町は凄かったわよ。私、街なかの銭湯が好きで入りに行ってたんだけど、桜木で働く若い女の子たちが、よく一番風呂に入りに来てたの。今はババアばっかだけどね」

当時の総曲輪ビリヤードは、午前10時から明け方の4時まで無休で営業していた。田鶴子は気つけに、富山の置き薬の代名詞「六神丸」、風邪薬、「太田胃散」やらを飲みながらモーレツ接客に明け暮れた。昼間は高校生や大学生、夜になるとサラリーマンらが入れ代わり立ち代わり来店し、バブル期のわずか半年で、一千万円ほどあった店の借金はすべて完済してしまったという。だが店の忙しさがピークに達した1988年、愛するオーナーは脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

「バブルもあっという間に弾けちゃって、人がぜーんぜん来なくなった。銭湯に行っても、若い女の子たちはもういなくなっちゃってた」

「あれが好き、これが嫌い」とハッキリとした物言いをする割には、田鶴子は物事への執着が希薄なように見えた。親の言う通りにせっせと働き、不倫相手の商売に巻き込まれ、時代の荒波に揉まれても、恨みごとひとつも言わず、周囲に抗わずに生きてきたかのように見えた。オーナーが亡くなるまで34年間、愛人関係をまっとうしたのも、「別れるぐらいだったら死んでやる!」という奥さんを追いやってまでオーナーと家庭を作る気にはなれなかったからではないかと思った。

「オーナーが死んでから一人で店を切り盛りして大変だったけど、生活するためにはやるしかなかったの。食べる気力がなくなっちゃうと、人生、終わっちゃうわよね。ねね、藤ちゃん! このお天ちゃん、食べないんだったら私、食べるわよ?」

22時を過ぎようというのに、田鶴子は目の前の山菜の天ぷらを美味しそうに頬張った。

私は天ぷらを頬張る田鶴子を眺めながら、生きてきた時代も境遇もまったく違うのに、自分はなぜこうも田鶴子とウマが合うのだろうと考えていた。見かけよりもだいぶ人見知りな私に対して、田鶴子はズカズカと心の中に土足で立ち入ることはしなかった。だから私も身構えずにいられて気がラクだったのかもしれない。それに88年分もストックされた田鶴子の昔話自体が面白かったということもある。だが何よりも、私は彼女に強い憧れを抱いていたのだと思う。「自分らしさ」に執着し、周囲に流されまいとヤケになることで、心の空洞がどんどん広がっていく私からすると、流れのままに生きてきているようでありながら、実は根っ子がどっしりと据わっている田鶴子の生き様は「個として生きる」象徴のように思えた。

私だけでなく、私の同級生たちや新旧の常連客も、単にビリヤードの玉を突きにきているわけではなく、田鶴子に会いに店に通っていた。彼らは田鶴子が末永く元気でいるために、ローテーションを組んで田鶴子の病院通いに付き添い、田鶴子が骨折した時には、オマルを探して町中を奔走した。人に媚びない、偉ぶらない孤高の女、田鶴子のことが、みんな大好きだった。

2018年2月、田鶴子が88歳の米寿を迎えるにあたり、店の常連客40数名と共に盛大な田鶴子の生前葬が催された。会の名前は「ベージュ―(米寿)・ライダー」。田鶴子のカラオケ十八番「きよしのズンドコ節」をBGMに披露されたスライドショーでは、開店当初の田鶴子や店内の様子が次々と映し出されると、「おばちゃん、40歳から老化が止まっている!」「店のレイアウトが半世紀もまるっきり変わってねえ!」と、あちこちから突っ込み交じりの歓声が上がった。黄色のちゃんちゃんこを来た田鶴子は、最後の挨拶で「こんなにたくさんのお客さんに囲まれて、感謝しかない。一生忘れない」と、珍しくばあさんらしい殊勝な言葉を述べた。本当に嬉しかったのだろうと思う。だが後日、「あの人は1万円のお布施をくれたけど、あの人は何もくれなかった」と愚痴っていたのを聞いて、やっぱり田鶴子は田鶴子だと思って安心した。


「米寿(ベイジュー)ライダー」祝いの宴。88歳の田鶴子と若いツバメ(常連客)たち

たまたま流れ着いた総曲輪の根城で、田鶴子はいつ来るかも分からない客のために、今日も店の扉を開けている。「人が嫌い」だと言いながらも、誰かを待ち続けている。田鶴子が変わり続ける総曲輪という街で、変わらずにただ「居る」ことが、私にとって生きる道しるべだ。

「私は自分で自分のことを信じてるわよ。だって、信じるしかないじゃない」

かけがえのない大切な女友達の言葉は、いつだって私のケツを蹴り飛ばしてくれる。


野球チーム、ノリスターズのマスコットガールとしてベンチ入り

写真(バナー / 07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」 / 文中:著者)

 

(つづく)