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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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怒りの逆噴射パワーでミニコミ誕生

2018年7月2日 公開

「ピストンさんの連載、ちょっとアクが強すぎるので、もうちょっと読みやすいオシャレなページになりませんかね? たとえば『BRUTUS』みたいな感じで」

「私にはオシャレな引き出しはありません」

2010年6月に富山のフリーペーパーで始まった私の連載「郷土愛バカ一代!」は、営業部から配属されてきたという若い女性編集長との打ち合わせの席で、一年ももたずに終了することが決まった。

狙って作ったわけではない、何がどうしてこうなった的な場所、どう魅力を表現したらいいのか俄かにはわからない、語彙力を試されているかのような人物。私が担当することになった連載は、そんな「うん……うん⁉」と思わず二度見してしまうような、富山の日常から浮かんでくるアクを掬い取るようなページを目指すことに決めた。私はコンちゃんとの週末富山ぶらり旅を、誌面上で繰り広げようと試みたのだった。

第一回目の取材対象は、私が富山の面白さに開眼した種口茂店長率いるドライブイン「日本海食堂」しかあり得ない。そのほかにも「総曲輪ビリヤード」の生き字引的女ハスラー、水野田鶴子だって控えている。こちらが富山を全力で面白がれば、読者のひとり、ふたりは食いついてくれるはずだと妙な自信があった。

「Hanako」みたいな日本酒特集、「花椿」(資生堂のPR誌)みたいなお土産特集といった、若い女性向けの整った誌面の中で、私の「探偵!ナイトスクープ」的アプローチを目指した富山ルポは、読者の間では驚きと戸惑いをもって迎えられたようだった。私は富山に帰郷して以来、発酵させてきたくすぶりを少し解消できた気になっていた。

しかしその高揚もつかの間、わずか10カ月で新編集長の方針により、スタイリッシュな誌面作りに原点回帰しようということになったというのだ。私はようやく自分のフィールドを得ることができたと思ったのも束の間、とっとと追い出されてしまったのだった。

私は基本的に、「四角いもんを丸く収めたい」という、笑福亭仁鶴イズムを発揮する性質だ。できるだけ周囲とは軋轢少なく、ヘラヘラと笑って済ませたい。それができない程、癪に障ることがあっても、頭が真っ白になって反論する言葉が出てこない。こういうタイプはその場で対処できずに、憤りの気持ちを熟成させてしまう。そして一週間後ぐらいに、突然、シュポポー!と憤怒を噴き上げるので、相手にとってみれば「なんでこいつ急にキレたの?」となる。

この時もそうだった。事実上、ライターをクビになった私は、後日、フリーペーパーを発行する会社の社長に長文メールを送りつけた。目上の人に抗議を表明するなどということをしたのはこの時が初めてだった。それぐらい悔しかった。

私がどれだけこの連載に情熱を注いできたと思ってるんですか。オシャレって何なんですか。結局東京の真似事ですか。「探偵!ナイトスクープ」的要素を入れてほしいという話はどこにいったんですか。富山のディープな魅力を読者に伝えたいっていうポリシーは消えたんですか−−−—

しかしその数日後、面識のない社員さんから「感動しました」とメールが送られてきた。社長はなんと私の入魂のメールを全社員に一斉転送し、朝礼でこう告げたらしい。

「ピストンさんの熱い思いを引き継ごう!」

見知らぬ人からのメールを読みながら、  「ち、ちっくしょ~……」と涙がポロポロこぼれた。その時は、自分のピュアな情熱が、自分を用済みにした会社の士気を高めるためだけに利用されたとしか思えなかった。

今から思えば、あんな広告収入も見込めないページを好き勝手にやらせてくれたことにもっと感謝すべきではあった。そしてよく考えれば、フリーペーパーという場所は、私が自分で作ったものではなくあらかじめ作られたものであり、私は他人様のフンドシでひとり相撲を取っていたにすぎない。親方の方針にそぐわなければ、追い出されるのは当然のこと。今なら至極真っ当に思えることも、その時はムカついて、惨めで、悔しさで一杯だった。とにかく外に向かって「キー!」と叫ばないと、自意識のブラックホールに吸い込まれて、いよいよ戻ってこれなくなる気がした。

私は「お前はうちには必要ない」と宣告され、とても傷ついていたのだと思う。自分でアメーバブログを開設し、ひとりで連載を続けることにした。「クビになっちゃいました。テヘ♡」と自虐の皮をかぶりつつも、「クビにしやがってこの野郎!」という編集部への恨み、「富山はもっと多面的な魅力があるはずだ!」という想いをブログ上で発散させていくことにしたのだ。

ところが、怒りの逆噴射パワーによって始まったこのブログが、のちに「自分で自分の居場所を作る」ことに繋がる、小さな、小さな一歩となる。

***

「藤井さん、自分で本とか作ったりはしないんですか?」

総曲輪で古本屋「古本ブックエンド」を営む石橋さんからそう尋ねられたのは、2013年春のことだった。それは、燃えたぎっていたフリーペーパーへの怨念の炎もすっかり冷め、ブログの更新も停滞していた頃だった。富山探検ルポは隊長のコンちゃんが結婚し、母となると同時に活動を休止。その間、自分が何をやっていたのかは記憶にない……。「表現しなければ死ぬ!」と思っていたはずなのに、私は自分で思っているよりもずっと鈍感な人間だった。

だがその更新されない私の墓場ブログを読み、鬱屈した熱量を感じ取ってくれた人がいた。地元の飲み会で知り合ったフリーの映像カメラマン、島倉さんという人だった。そして「面白いブログを見つけた」とSNSで発信してくれた島倉さんから、友人の石橋さんへと情報が渡り、ある日私は彼らが開いている飲み会に呼ばれることになった。石橋さんと島倉さんたちは、今では富山の大規模な本のイベントとなった「BOOKDAY とやま」を初開催しようとしていたのだった。

イベントの趣旨は、県内外からプロの古本屋さんが出店するだけでなく、一般の人が段ボールひと箱分の古本を持ち寄る「一箱古本市」も同時に開催するというもの。自費出版したミニコミやジンを販売してもOKだという。その一般枠にミニコミを作って参加する気はないか、というのが石橋さんからのお誘いだった。まさかそんな話が自分に舞い込んでくるとは思わなかった。東京や京都、金沢などのイベントに頻繁に出店している石橋さんにしたら、自分で制作物を作る人たちの存在は珍しくはないのだろう。しかし私自身は、「自分で本を作る」という発想はこれまで1ミリもなかった。

東京の出版社でも富山に帰って来てからも、会社から与えられたハコの中でエゴを撒き散らしていた。だから自分のやりたいこと、面白いと思うことが反響を得られずとも、「媒体が悪い」「読者層が違う」と他人のせいにしてこれた。しかし土台から自分で作り上げるとなると、自分で自分のケツを拭かねばならなくなる。何よりミニコミは私そのものではないか。それが「凡庸だ」と喝破されてしまった時の地獄を思うと、とにかく怖かった。さんざん「表現したい!」と思い続けてきたくせに、いざ機会が回ってきたら急に怖気づいた。

石橋さんには「そうですね……考えてみます!」と返事したが、まったく自信が無かった。いきなりベストセラー本を作れとか、芥川賞をとれとか言われてるわけではまるでないのに、私にとって「自分の作りたいものを作る」というハードルは、それらと同等に高かった。しかしそんな日和った私に喝を入れたのは、まさかの母だった。

「アンタは富山に帰ってきてからも、自分で作る覚悟も自信もなくて、そのくせ文句ばっか言っとる。お母さんはずっと、なんでアンタは自分で本を作らんのかと思っとったよ。いっぺんやってみられ」

夫に見切りをつけてひとりで薬局を開業し、自分の人生を切り拓いた女の言うことはさすがの説得力に満ちていた。今から35年前、薬局を立ち上げてまず母がやったことは新規客の開拓だった。単なる調剤薬局ではなく、化粧品や洋服も売るブティックを兼ねた店にし、近くの工場で働く女性たちに商品を売り込みに行った。今の自分と同じ年頃のオカンが、スーツケースいっぱいに化粧品を詰め込んで単身、行商しに回っていたのだ。当時のオカン版「黒革の手帖」には、女性客の趣味嗜好、洋服サイズのデータがギッシリとメモしてあった。その手帖をたまたま実家の机から発見した私は、中身を読んで胸が熱くなった。営業経験もなく、ましてや経営なんてはるか縁遠かった主婦が、二人の子育てをしながら未開の地に飛び込むことは、さぞかし勇気がいったことだろう。オトンは何をしていたのだ。

「お父さんが人生で唯一、勝ち星をあげたのは、お母さんという人と結婚できたことだ!」

良くも悪くも、この夫がいたからこそ今の母がある。

誰でもいいから結婚しろとか、子供をはよ産めとか、金にならんことをするなと罵る一方で、誰よりも私にエールを送ってくれるのはいつもオカンだった。「子供という、自分以上に大事な存在ができることの素晴らしさを知ってほしい」と母親になることの幸せを娘に望む時もあれば、「もう、お前は唯我独尊で戦っていけ!」と個人経営者として叱咤激励する時もあった。いずれにしろ、東京でも富山でも地団太を踏み続けている娘のことが、母はもどかしくて仕方なかったのだろうと思う。

「本を作るのがおこがましいって言うけど、アンタはもう既におこがましいが。人に何かを伝えたいって思っとる時点で、おこがましいが! そのことをそろそろ受け入れられ。そして恥をかけ!」

68歳になった今では薬局だけでなく、介護施設を営むまでになった母だが、未だに社員さんの前で、社長然として物を申すのが恥ずかしくてたまらないそうだ。「何を偉そうに言っとるんじゃ」と自分で自分にツッコミを入れるらしい。母は偉くなりたいわけでも、権力を持ちたかったわけでもなかったのだろう。夫に頼らず、自分の人生を変えたいと思って生きてきたら、いつの間にかこんなところまで来てしまった。そんな感じなのかもしれない。

「アンタは私の何を見てきたんけ? いっぺんやってみられ。やってみたら分かる」

私はカッコつけずに、全力で恥をかくことを決心した。

2013年6月、高校の同級生である奥ちゃんから「冊子届いたよ~!」とメールが入り、私は「総曲輪ビリヤード」へと向かった。田鶴子へ上納するケンタッキーを買い忘れたことに気づいたが、「今はそれどころじゃねえ!」と店の扉を開けた。店内で奥ちゃんから手渡された未開封の段ボール箱を一気に開けると、中には薄肌色をしたペラッペラの小冊子が100部入っていた。

「なんじゃこりゃ……」

表紙には熊のぬいぐるみを抱えたモノクロ写真の切り抜き田鶴子が、こわばった笑みをこちらに投げかけている。「なに? どうしたのよ?」とまるで状況を知らない本人を放置し、私と奥ちゃんは黙り込んだ。

オカンに背中を押され、持てるエネルギーのすべてを注ぎ込んだミニコミ『文芸逡巡 別冊 郷土愛バカ一代! ホタルイカ純情編』。紅白の舞台に立つような心持ちで、満を持して自費出版した私の処女作は、「岩波文庫のように末永く読んでもらえる名著にしたい!」といういきり立った理想をかすりもせず、「複製された遠足のしおりにしか見えない」という現実となって私たちの元にやって来たのだった。

 

写真(バナー / 07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」 / 文中:著者)

(つづく)