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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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総曲輪・裏通りカルチャーと出会う

2018年7月23日 公開

雑誌編集をかじってはいたものの、一冊まるまる本を作った経験の無い私。そして映像制作者なのに、畑違いの紙の冊子をデザインしろと私からムチャぶりされた同級生の奥ちゃん。本作りの素人である私たちが、図々しくも岩波文庫の伝統ある装丁を真似て作った、汗と涙と「これでいいんやろか……」なる迷いの結晶が、ミニコミ『文芸逡巡 別冊 郷土愛バカ一代! ホタルイカ情念編』だった。案の定、最初の読者となった藤井家の反応は冷ややかだった。私は折れた心を修復できないまま、2013年6月、富山市中心部で開催の本のイベント「BOOKDAYとやま」を迎えたのである。

あの日のことを思い出す時、「本が50冊近く売れた!」という感慨よりも、「つまらなさそうな仏頂面のおじさん」がまず私の脳裏に浮かんでくる。私のミニコミを手に取ってくれた最初のお客さんだ。その恰幅のいい中年男性は私の目の前で仁王立ちしたまま、クスリともせずにページをめくり、読み終えると買わずに去っていった。一気に血の気が引いた。次に浮かぶのは「これ100円で売ってるの!? 赤字にしてどうすんのよ!」と初対面の私にいきなり怒り始めた女性の姿だ。値段を下げておけば、中身の質が悪くても文句は言われないだろうという自分の日和った姿勢を、縁もゆかりもない相手から叱責されたことは、オカンに怒鳴られる以上に強烈だった。

本と人とが出会う喜びを呼び起こそうとした「BOOKDAYとやま」は、私にとって自分の化身であるミニコミが読まれる瞬間にリアルに直面し、正面切って恥をかくことのできた最初の大舞台だった。自我が暴走しがちな私の中に、生身の読者の姿がチラチラ見えてくるようになったことは得難い経験だった。

そして私だけでなく、このイベントは、その後の富山のカルチャーシーンに重要な意味を持つこととなる。2018年現在までに6回開催され、射水市の「ひらすま書房」や滑川市の「古本いるふ」といった、富山市の近隣の街にも古本屋が誕生するきっかけを作ったのである。また私同様、富山から紙の制作物を発信しようとする人たちの受け皿にもなっていった。

イベント終了後、ミニコミは引き続き総曲輪の古本屋「古本ブックエンド」で取り扱ってもらえることになった。本の価格は100円から300円へシレっと値上げしたが、それでも「地味に売れてる」と店主の石橋さんから聞いた私は小躍りした。「泥酔した中年男性が酔った勢いで買っていった」という話には、その人がシラフになった時のことを勝手に想像し、少し顔がニヤけた。なにより富山の街なかカルチャーに、私の本が居座っていることがとても嬉しかった。

「古本ブックエンド」は、美術品を扱うお店、雑貨店、民芸品店などが軒を連ねる総曲輪の長屋の一角にある。長屋は、200年以上の歴史を誇る「本願寺富山別院」(通称「西別院」)が所有する建物だ。西別院は富山における浄土真宗本願寺派の拠点で、夕暮れ時になると「ゴ~ン」というお堂の鐘の音が周囲に鳴り響く。旧・富山大和が総曲輪の表通りのシンボルであったのに対し、西別院は総曲輪の中枢に鎮座するもうひとつのシンボルだ。総曲輪の重鎮が見守る長屋の店子に、2010年頃から富山の若手店主の店がチラホラと入るようになり、新たなカルチャーが芽吹き始めていった。総曲輪のメイン通りの商店街がどんどんシャッター化していくのに反比例するように、この裏通りには、にわかに個人店が増え始め、人が集まるようになっていったのだった。


西別院裏の「長屋」。写真向かって右端が「古本ブックエンド」。左端が「林ショップ」。

「古本ブックエンド」が店を構えたのは2012年。高岡市で古本屋「上関文庫」を営んでいた石橋さんと、隣県の金沢の古本屋「オヨヨ書林」の山崎さんとの共同経営だった。山崎さんはまだアマゾンもヤフオクもない90年代末に、ネットで古本を売り始めた先駆者だった。実店舗のないネットの古本屋が、古書組合に入ることを許された初めての人だったらしく、古本業界のニューウェーブとして東京でその名を轟かしていたそうだ。その後は実店舗を構え、根津、青山などを転々としたのち、2010年にオヨヨ書林は地方の金沢へと移転した。山崎さんも石橋さんもそれぞれ富山から上京し、40歳手前で地元へと戻った人たちだった。二人は本の文化が消えゆく街なかに、「古本屋を作ろう」と意気投合した。

民芸品店「林ショップ」の林さんも、同じくUターン組で私と同い年だった。東京で写真に携わっていた彼は、元々、長屋にあった知人の店を譲り受けて2010年に開店。林さんは高岡銅器の鋳造作品を手掛ける作家でもあり、「林ショップ」では沖縄の焼き物や、富山の八尾の老舗和紙工房「桂樹舎」の商品などを扱っていた。いつもセンスのいいオシャレなお客さんが集っていたので、私は以前から「感度の高そうな人がやってるんだろうな」と遠巻きに見ていた。

長屋一帯は一種の文化的サロンのような役割を担っていた。お客さんはもちろん、個人で音楽イベントを催したり、ジンを作成したりする若手アーティストたちの溜まり場のようであった。田鶴子の棲む玉突きと同地区にあったので、以前から気にはなっていたが、私はなかなか足を踏み入れられずにいた。自分と似たような境遇の同世代の人たちが、のびのびと自由な活動を展開していることに、私は一方的に羨望と嫉妬を抱いてたのだ。そこに近づきたいけど、臆して近づくことができなかった。

しかし「BOOKDAYとやま」に参加し、ミニコミがブックエンドに置かれるようになって状況は変わった。富山に棲息する本の虫たちが手に取ってくれて、長屋の人たちも面白がってくれた。石橋さんの計らいで東京の古本市に陳列してもらい、稀代のミニコミ好事家・南陀楼綾繁さんにも興味を持って頂けたようだった。あまりものショボさに、私と奥ちゃんがガックリと肩を落とした『郷土愛バカ一代!』は、いろんな人たちを介して、ちょっとずつ、コツコツと、思いもしない形で外へと広がっていった。

当時、私は33歳。富山では、周囲の望む結婚適齢期もとっくに過ぎ、今度は別角度から査定されるようになってきていた。結婚して、家を建て、子供を産み育てられないのであれば、それと同等に価値のある人生をと強いる圧力だ。私の場合、「ピストン藤井として振り切れて生きる」ことで、「まあ、アンタは結婚できん変わり者でも楽しそうでいいよね」と周囲から及第点をもらえるらしかった。どっちにしろ「結婚」が、査定の固定軸であることには変わりはない。マイペースに日常を謳歌したいだけなのに、何かしらケチをつけられてしまう。

「え、結婚しろって? 無視無視無視!そんなことよりサトチン、魚津水族館やばいよ。カワハギが輪くぐりするが!イルカじゃなくて、あの刺身のカワハギが。最高やろ?」

そうやって私にはめられようとする既存の枠組みを、コンちゃんはドカドカとぶち壊してくれていたのだが、乳飲み子を抱えた彼女にこれ以上、甘えることはできない。寂しさを持て余した私は、ミニコミを片手に新たな仲間探しの旅に出ることにした。内容はどうであれ、ミニコミを「精魂込めて作ったことには違いない!」という事実は、キング・オブ・人見知りの私に、未知なるコミュニティの扉を叩かせる勇気を与えた。

石橋さんやカメラマンの島倉さん、林さんといった「BOOKDAYとやま」実行委員会の面々との飲み会に声を掛けてもらえるようになった私は、タガが外れたようにはしゃいだ。古本愛好家や、映画・音楽に詳しい長屋のお客さんたちとの交流が新鮮だった。その中には、私がかつて東京で在籍していたプログレ雑誌を読んでいた人がいたり、大好きだった塚本晋也監督の映画『鉄男』について「あの高速陰茎ドリルの発想はすごい」と語り合える人がいたりして、痒い所に手が届くカルチャートークに私は勢いよく前のめった。上京した当初、映画雑誌の編集プロダクションに拾ってもらった時の心境に近い、「ここに入れてもらえた!」という喜びに近いものがあった。

長屋の人たちからしたら、私が結婚していようがしていまいが、そんなことはどーでもよかったのだと思う。「結婚は?」「子供はいるの?」というお決まりの質問をされることはなく、私がどんな文章を書こうとしているのか、どんな場所に興味を持っているのかということの方に関心を寄せた。それは裏を返せば「結婚」で査定されるよりも、「お前は何者なのか」「お前は面白い奴なのか」というもっとハードな試され方をされていることだった。私は「受けてたとうじゃねえか!」と武者震いした。

彼らは日常の中から面白さを見つけ出すコンちゃんとはまた違い、意識的に富山の面白いものを開拓していた。「ヤカンに日本酒を入れて出すモツ鍋屋がある」だとか、「掘っ立て小屋のカレー屋が、新しい掘っ立て小屋に移転した」だとか、彼らが提供してくれた街ネタはいつも私の琴線に触れまくった。さらに「ピストンと気が合いそうな人がいるよ」「〇〇さんがピストンに会いたがってたよ」と、それまでの私の人脈では辿り着かないであろう、富山のユニークな人たちまで次々と紹介してくれた。家族、同級生、薬局の仕事仲間の内輪で回っていた私の富山的世界に、もうひとつ外側の世界が加わったことで、自分の活動範囲が一気に圏外へと広がっていったのだった。

また、長屋に頻繁に出入りする人たちの中には、かつて東京でデザイナーや、イベンター、ファッション雑誌の編集者といった、華やかな世界に身を置いていた人たちもいた。以前の私だったら「ケッ!スカしやがって!」と条件反射的に吠えていただろうが、今じゃそんな気持ちはわいてこない。彼らは家業を継ぐために富山に戻ったり、結婚で移住してきたりと、それぞれに事情を抱えていた。フリーのデザイナーの彼は「東京から来る仕事もやっていきたい」と言い、元・編集者の彼女は「私はヨソ者だから、地元に受け入れてもらうのが先決」と、東京からのオファーを断り続け、独自に富山取材を重ねていた。かたや富山にずっと居ながら、興味のあるイベントがあれば、東京だろうが大阪だろうが足を運ぶ人もいた。

彼らの話を聞いているうちに私は、ヨソから来る風を受け入れて、自分の新陳代謝を促そうとするのも、敢えてシャットアウトして自分の場所の密度を高めようとするのも、フットワーク軽くこちらからヨソへ出向くのも、全部正解だと思った。要はどれを選択するかだ。自分とは違う考えを持つ同世代との対話を通し、結局、場所がどこであれ、身のこなし方ひとつで世界はいかようにも広がるのではないかと私は思い始めていた。

気がつけば私は、東京というバカでかい大都会に居た頃よりもずっと、富山の片田舎に居ながら街に繰り出すようになっていた。そしてやがて、富山で生きる同世代の人々に対峙し、共感し、時には反発するような摩擦を繰り返すうちに、あやふやだった自分自身の在り方が見えてくるようになっていくのだった。

 

写真(バナー / 07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」 / 文中:空耳カメラ)

(つづく)