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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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拝啓、フォルツァ総曲輪様

2018年9月24日 公開

私が映画に没頭した思春期真っ只中の1995年、富山には自分が観たいと思うミニシアター系の作品を上映する映画館がなかった。今では老舗となったお隣、金沢の「シネモンド」もまだ開館していなかった(開館は1998年)。東京のミニシアターでは、私の永遠の推しメンである市川雷蔵の没後25周年を特集した「市川雷蔵映画祭」が企画され、ウォン・カーウァイ監督の『恋する惑星』が上映中というニュースを「キネマ旬報」で読み、羨ましくて「ギギギッ!」と八重歯を噛みしめた。その「観ることができない」という飢餓感が私の映画への情熱を焚きつけたし、私の中の映画人への憧れをむくむくと膨れ上がらせた。だから早く富山を出たいと思った。

それから10年以上経過した2007年、私が富山に帰郷する前年に、富山初のミニシアター「フォルツァ総曲輪」が開館した。総曲輪の商店街の一角という好立地にありつつも、2002年に閉館した松竹系映画館「WIZシネマ」を改築し、シネマホールとライブホールを併設。カルチャー講座も開かれる、新しい複合型文化施設として生まれ変わったのだった。

私の「フォルツァ」デビューは、2008年に公開された橋口亮輔監督の『ぐるりのこと』だった。その後の上映予定のプログラムには、かつての富山では観られなかったであろうアート系作品、カルト作品、社会派ドキュメンタリーなどが数多く含まれており、ラインナップを眺めるだけでもワクワクした。広い館内のロビーには映画雑誌のバックナンバーや書籍、パンフレットが置かれ、客が閲覧できるスペースもきちんと確保されていた。当月のプログラムを記した定期刊行物には、コピペではないスタッフ独自の映画解説もなされており、映画マニアが運営に携わっているのだとすぐに分かった。映画館なのだから映画好きのスタッフが居るのは当然だと思うだろうが、しかし富山にはここまで顔が見える映画館はこれまでなかったのだ。街なかに映画文化が芽吹こうとする胎動を感じ、私の脳内には「♪パンパカパーン!」と始まりのファンファーレが鳴り響いたのだった。

地方のミニシアターゆえに、旬の作品に関しては東京からの巡回を待たねばならないタイムラグがあったが、その代わり近隣の飲食店とのコラボ企画で上映会をしたり、映画にまつわるインスタレーションを行ったり、時流をガン無視して唐突にZ級映画を投下したりと、フォルツァは独自の訴求力で富山の映画ファンを魅了した。私の急所を連打したのは、選りすぐりのカルト作品を集めた年末年始の恒例企画「不識図鑑」だった。新年早々、よりによって『悪魔の毒々モンスター』を愛でるという背徳感といったらなかった。ハチャメチャで愛すべきポンコツ映画を、他の観客と一緒に笑い倒すのが、べらぼうに楽しかった。

2010年にはフォルツァが入るビルの一階に、地元の野菜や総菜を売る「地場もん屋総本店」がオープン。私の中に「フォルツァで映画を観た後に、地場もん屋で鱒寿司を買って、女ハスラーのソウルメイト、田鶴子に会いに行く」という新たなルーティンが加わった。自分のミニコミ『郷土愛バカ一代!』を「古本ブックエンド」に置かせてもらうようになると、ブックエンドとフォルツァをハシゴする機会がさらに増えた。県内のイベントのフライヤーが数多く集まるフォルツァは街の動きを知れる生きた情報源でもあり、その収集だけでも十分に通う動機になった。

「今度の不識図鑑は『不思議惑星キン・ザ・ザ』だからな! ピストン、好きだろ!?」

「好きに決まっとるやーん!」

そんな軽口を叩けるぐらいに、フォルツァのスタッフの中川さんとは顔なじみの仲になった。富山の某一流企業のサラリーマンだったが、「セカンドライフは映画に捧げる」と決意し、40半ばでフォルツァに転職。中川さんも生粋の映画大好きっ子だった。私は心震える映画を観終えた時には、ホールの扉を開けて客を送り出す中川さんにすれ違いざまに「最高でした……!」と声を掛けながら「グッジョブ!」と親指を突き出すようになった。

島倉さんを筆頭に、ブックエンドの常連客とフォルツァで顔を合わせることもしばしばで、そのまま酒場になだれ込んで映画の感想を語り合った。私はフォルツァの壁に貼り出された「お客様からの上映リクエスト」用紙を眺めながら、この映画館のど真ん中に立ち上る、送り手と受け手双方の「映画が好き」という青臭い想いを噛みしめた。もしかすると17歳の私が渇望していたものは、映画そのものよりも、こんなふうに誰かと映画の面白さを共有するという醍醐味だったのかもしれないと思った。

しかしよく考えてみれば、学生時代を大阪で過ごし、社会人になってから上京した私にとって、ミニシアターは既に身近な存在だったはずだ。しかも末端とはいえ、映画雑誌の編集者として業界に関わっていたのだからなおさらだ。しかし大阪や東京で観た映画の作品そのものが心に残ってはいても、映画館についての記憶は断片的なものに過ぎない。いっぽうで、フォルツァで観た作品を思い出そうとする時、劇場内の雰囲気や、「リバイバル上映の『アンダーグラウンド』を観た後『牛若』に飲みに行ってヘベレケになったな」といった、総曲輪を徘徊する自分の千鳥足ルートまでもが蘇る。そんな体験はここでだけだった。フォルツァは総曲輪という街の一部であり、私の日常の一部だったのだ。

東京では当たり前であろう舞台挨拶が富山で行われることは稀だったが、フォルツァには亡き若松孝二監督や井浦新、安藤サクラといった映画人が、たびたび来館した。私の嗚咽度ランキング・ベスト3にランクインするヤン・イクチュン監督の『息もできない』を、フィルム上映で、しかもヤン監督本人と一緒に鑑賞できたことは忘れられない思い出だ。監督直筆の「シバラマ!(くそったれ)」が記された、世界にひとつだけの「富山県民手帳」は私の宝物である。

またある日には、シンガーソングライターの二階堂和美(通称ニカさん)のライブで、ニカさんの手を取って歌い踊る老婦人が現れたこともあった。その人は映画鑑賞が日課のフォルツァ名物おばあちゃんで、恐らくスタッフに薦められてライブに立ち寄ったのだろう。それは映画と音楽が隣接するフォルツァならではの出会いであり、上機嫌で手をヒラヒラさせるおばあちゃんの姿に、場内が得も言われぬ多幸感に包まれた。一流のアーティストたちと富山の老若男女がフランクに交流する光景は、他のシネコンではお目にかかることができないものだった。

そして私がなにより、フォルツァがシネコンと一線を画していたと思うのは、映画館に留まらない発信拠点としての存在感をビンビンに発揮していたということだ。フォルツァは富山のアーティストたちに広く門戸を開いてきた。シアターホールでは『箱入り息子の恋』で知られる市井昌秀、ドキュメンタリー作家の鎌仲ひとみといった富山出身の映画監督の作品が上映され、ライブホールでは地元の劇団による演劇や、ミュージシャンのライブ、前衛芸術家のパフォーマンスなどが頻繁に行われていた。私の同級生の野上が漫才を披露したのも、ブックエンドの常連客がイベントを起こしたのも、島倉さんが携わったご当地映画がかかったのも、私がW.C.カラスさんのライブを企画したのもすべてフォルツァだった。


「シネマ」と「ライブ」。ミニシアターのみならず地域の様々なニーズを叶える場でもある。

しかし、2016年9月30日をもって、フォルツァ総曲輪は休館が決定した。表向きは「ビルの老朽化のため一旦、メンテナンスをします」という一時的な休館だったが、今後、再び復活するかどうかは限りなく未定だった。

富山市の第三セクター「まちづくりとやま」が運営を手掛けるフォルツァは、富山市が掲げるコンパクトシティ政策の一環で誕生した施設であり、運営費の3分の1を富山市からの助成金でまかなっていた。コンパクトシティとは端的に言うと、郊外に流れた人々を中心市街地に誘導させる都市計画で、街なかを「健康で文化的な生活環境」に整え、「賑わいを創出する」ことが再開発事業のひとつだった。

「ピストン、フォルツァの正式名称って知ってるか? “賑わい交流館”って言うんだよ。知らんかったやろ! 映画を観に来てくれて、施設を利用してくれるお客さんたち自身が文化を生んで、育ててきてくれた。フォルツァは場所を提供してきたにすぎない。ハコじゃなくて人が文化を発信してきたんよ。だからピストンも、じゃんじゃんフォルツァを遊び場として使ってほしい」

それが中川さんの口癖だった。

だが、富山市議会は総曲輪西地区に建設中の新潟資本のシネコン「J-MAX THEATER とやま」が6月にオープンすることから、「映画はそっちで観ればよし」と判断。フォルツァへの助成金打ち切りを決定し、フォルツァは運営が立ち行かなくなったのだった。

「フォルツァに映画を観に行ったお客さんたちが、帰りにうちに寄ることも結構あったんですよ。フォルツァがなくなったら、うちもどうなるんですかねぇ……。ははは……」

ブックエンドの店主・石橋さんは力なく笑った。総曲輪裏通りの長屋一帯と密接につながっていたフォルツァがなくなれば、当然、長屋の人の往来も変わってしまう。私たち映画ファンだけでなく、フォルツァを寄合場として活用していた街のお年寄りたちだってどうなるのだろう。フラメンコ教室に通う市民ダンサーたちは、読書会に集う本の虫たちはどこへ行く? 様々な人々の落胆する顔が私の頭をよぎった。

行政サイドは私たちに問い掛ける間もなく、非情な無関心さでもって、あっさりフォルツァを首チョンパしたように私には思えた。ただその無関心さはある意味、放任してくれていたという良い側面もあったのだろう。行政の庇護のもとで、商業ベースに乗らない作品を上映してこられたのは間違いない。しかし同時に、フォルツァは単なる入館者数の勘定では判別できない“賑わいの場”を、総曲輪という街に生み出してきたのも確かであると私は身をもって知っている。9年間にわたってフォルツァが地域に果たしてきた貢献を、シネコンが担えるとは私には到底思えなかった。

数の論理では浮上してこない豊かさが、きっと街の至る所に潜在している。その価値に気づいてもらうためには、ひとりでもいいから声を上げるべきだったのだ。行政に憤りをぶつける前に、街から受けてきた恩恵と喜びを、もっともっと声高に叫び続けなくてはならなかったのだと私は激しく後悔した。

2018年現在、フォルツァはいまだ休館のままだ。そして、街の変化はとどまることを知らない。北陸新幹線の開通を目前に控え、富山駅が一大リニューアルすると同時に、駅前シネマ食堂街、富劇食堂街が2015年5月31日にすべての店の営業を終えた。半世紀以上にわたって富山の飲兵衛たちの溜まり場だったこの地は、フォルツァとはまた少し違った形で、様々な人々の思いを受け止めてきた場所だった。

 

写真(バナー / 07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」 / 文中:Okureje)

(つづく)