Now Loading...

連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

21

恋しき体臭 〜シネマ食堂街と富劇〜

2018年10月14日 公開

私が富山駅周辺に繰り出すようになったのは、高校時代の90年代半ばだった。富山駅の向かいには真新しい商業施設「CiC(シック)」があり、その中で営業していた「サイゼリヤ」のドリンクバー目当てに友達とよく通った。その道中必ず目にしたのが、古ぼけた看板「シネマ食堂街」を掲げたアーケード状の路地だった。この奥にエッチな映画館があるのはなんとなく知っていたが、昼間でも「ガキが来るとこじゃねえぞ」という鬱々としたオーラを放ち、とてもじゃないが入る勇気はなかった。駅前の若い世代をターゲットにしたファッションビルのキャピキャピ感とは折り合いをつける気が毛頭ない“闇市”感。その雰囲気は、高校生の私には“戦後”、ひいては“戦争”を連想させ、怖さを増幅させた。

私が初めてシネマ食堂街に足を踏み入れることになるのは、富山に出戻り、すっかりトウが立ちまくった33歳、2013年のことだった。ブックエンドの常連客であり、私の専属酒場案内人・島倉さんに引率してもらったのだ。アーケードをくぐると人気のない路地が広がり、店子の看板のみがほのかに闇を照らしていた。片隅には小さな鳥居がポツンと佇んでおり、すぐに店が軒を連ねていると思っていた私は、ぽっかりと穴が空いた時空間にたじろいだ。この先に本当に酒場があるのだろうかと不安になった。駅前の明るい喧騒をシャットアウトする異界ゾーンは、大人になっても怖かった。


異界への入口のような「シネマ食堂街」

シネマ食堂街は、1950年開館の「富劇」に続く、富山駅前2つ目の映画館「富山シネマ劇場」の開館に伴い、59年に誕生した。当初は居酒屋や中華料理店、スナックなど約30軒が営業しており、二つの映画館の間には、戦後の闇市を継承する「須田ビル」(シックの前身)を中核としたアーケード街「駅前百貨街」もあった。百貨街には魚屋、八百屋、洋品店、書店、薬局など約100店舗が軒を連ね、多くの人で溢れ返っていたという。富山市は、1945年8月1日、2日の富山大空襲で、地方都市としては、原爆が投下された広島・長崎に次ぐ戦禍を被った。それからたったの10年で富山市はめざましい戦後復興を遂げ、高度経済成長期へと突入しようとしていた。66年になると富劇の方にも食堂街が併設された。

当初、シネマ劇場は富山駅を利用する客が列車の待ち時間に見られるようにと、短いニュース映画を上映していた。やがて娯楽映画も上映するようになったが、70年代以降からは映画産業の斜陽とともに客足は落ち、成人向けのピンク映画を上映する「駅前シネマ」にリニューアル。同じような過程で「富劇」も成人映画館となったが、92年に閉館。駅前シネマも07年に閉館した。映画館という屋台骨がなくなった後も、いずれの食堂街も細々と営業を続けていた。

しかし私が初めて訪れた2013年にはすでに、食堂街一帯は建物の老朽化や耐震性の問題もあり、2年後の2015年の北陸新幹線開業に伴う再開発で、取り壊しが決まっていた。飲食店も11軒を残すのみとなっていた。

和式の公衆便所から漂うすえたフレグランスに私は鼻をひん曲げつつ、低い天井の下、島倉さんについて迷路のように入り組んだ食堂街を歩いた。シンと静まりかえった通りを過ぎると、島倉さんが一軒の看板が灯った寿司屋の前で足を止めた。引き戸をガラッと開けると、「ワハハハ!」と豪快な笑い声が耳に飛び込む。コの字型のカウンターに10席ほどの店内は客でギチギチに埋まっており、閑散とした通りとは一変して、熱気と甘ったるい酒臭さに溢れていた。その店の名は、21時から夜中の1時まで営業する「寿し晴」。近所の常連客から、報道記者やアナウンサー、会社員、観光客、そして「あとの5割は職業不詳」(島倉談)という、様々な客層が集う人気店だった。

「あのねのね」原田伸郎似の大将・牧野さんが、カウンター越しに「そこ! 空けてあげて!」と指示すると、客たちが一斉にガガガッと席を詰める。大将は「狭いけど堪忍しられ(許して)えぇ~」と詫びながら、新参者の私を招き入れてくれた。「目利きはピカ一。ギャグは三流」(島倉談)の大将が握る寿司は、サス(カジキマグロ)のトロ、白エビ、アジなどの新鮮な地場もんばかりで、魚は食い飽きたはずの富山県民の胃袋をなお驚かせた。なかでも大ぶりのバイ貝の身を肝醤油と薬味、ワサビで和えた「バイのたたき」(通称バイたた)は、酒がジャンジャンバリバリにすすんだ。半分はそのままツマミで、半分は軍艦巻きにして食らうのが鉄則だった。

寿し晴はいつ来てもやかましかった。店内では、県外の人には口喧嘩に聞こえるらしい語気強めの富山弁が飛び交っていた。店が狭小ゆえに「一人でしっぽり飲みたいんです」などと思っていようがパーソナルスペースは問答無用に侵され、隣の知らない客とも必然的に会話が生まれる。外の公衆便所には備え付けの紙が無いので、トイレに立つ客がいれば、カウンター上のトイレットペーパーリレーで当人に手渡されるのもおなじみの光景だった。


客で賑わう「寿し晴」カウンター

出張で京都からやって来たというサラリーマンが居れば、「〇〇の鱒寿司は買っとかれ!」といった地元民のお節介アドバイスの集中砲火が浴びせられる。メートルが上がってクダを巻き始めた客には、「アンタ! そんだけ飲んだがやから満足したやろ!?」と大将から強制的にお勘定が発動され、代わりに新規客をお出迎え。大将の客さばきも見事だった。

私は寿し晴を皮切りに、貝専門店「岬」や蕎麦屋「つくし」、フォークソングとおでんの店「茶文」などを次々と踏破。朝5時まで営業する、泥酔客の“最後の砦”こと中華料理店「粋宏閣(すいこうかく)」の「ムースーロー」(きくらげと豚肉の卵炒め)で、駅前の徘徊を〆るようになった。表通りから恐る恐るチラ見していたシネマ食堂街の奥地には、人と人とが交ざり合う混沌と、独特の躍動感がみなぎっていた。

いっぽう、富劇食堂街はシネマ食堂街から東へ徒歩5分程度の所にあった。富劇の顔である創業45年の老舗居酒屋「初音」は、シネマ食堂街とはまた別な意味で衝撃的な店だった。

建物まるごとヌカ床に漬け込んだような、年季の入った外観。店の軒先には発砲スチロールのトロ箱(魚を保存する箱)が、一見客の侵入を阻む要塞のごとくうず高く積まれていた。カウンター8席ほどの店内には富山名物・幻魚(げんげ)の干物、10カ月は熟成させるという「ゆべし」(ゆず味噌とクルミを練った菓子)、そしてハエ取りリボンが吊るされており、半世紀分のおでんの出汁と客の愚痴が染み込んだ茶色い壁には、思い出の写真やらサイン色紙やらが所狭しと飾られていた。この店も、島倉さんの導きがなければ私ひとりでは絶対に入れなかっただろう。酒道を極めた先に桃源郷があるとするなら、きっとこんな場所に違いないと思った。


トロ箱が積み重なる「初音」の店先

カウンターの中では食器と調理器具の山に埋もれるようにして、一合300円の地酒「白緑」の一升瓶を、おでん鍋に入れられたチロリにトクトクと注ぎ込む小柄な女将さんがいる。店主の経明(つねあき)尚江さん、通称・お母さんだ。2013年当時77歳。旦那さんを亡くしてから30年以上もの間、ひとりで店を切り盛りしてきた。大将と客による丁々発止の掛け合いが繰り広げられる寿司晴に対し、初音は優しいお母さんを中心にすべてが動いていた。

「はい、ホタルイカね~」と客に刺身を提供した後は、おでん鍋のカニ面(カニのむき身を甲羅につめたおでんタネ)に出汁を回しかけ、味を染みこませる。名物の冷たいカレーのルウを器に盛れば、次はぬる燗の温度を確認する。そんな風にせっせと働くお母さんの一挙手一投足を、くたびれたオッサンたちがじっと見つめている。常連たちは自分でおしぼりを取り出し、「おかーさーん、2本目もらうちゃね」と自己申告制でビール瓶の栓を抜く。黒板に書かれたメニュー「うなぎの肝串」に関しては、島倉さんから「焼くのに時間がかかるから絶対に頼むな!」ときつく注意を受けた。この店には「お母さんを困らせてはいけない」という、客同士で交わされる暗黙のルールがいくつもあった。

日々の労働の苦しみや、博打に負けたしょっぱい気分を抱えた客たちは、まるで囲炉裏を囲んで暖をとるかのようにお母さんを囲み、心と体を癒してきたのだろう。眼光鋭いギャンブラー、銀行の元・偉い人、用心棒のようなコワモテ親父、ブックエンド長屋界隈の連中、先代との縁で繋がる京都大学山岳部の面々。みんながお母さんと自分たちの棲み処を慈しみ、守ろうとしていた。

しかし富劇ビルも再開発事業で取り壊しが決まり、お母さんは店を畳むことにした。店の存続を願う客もいたが、「息子たちにこれ以上、心配をかけるわけにはいかない」と言うお母さんを、誰も無理に引き留めようとはしなかった。

2015年4月末、富劇食堂街はすべての店の営業を終えた。最終日、初音のお母さんは、いつもの16時開店を繰り上げて昼から営業を始めた。8席のカウンターには30人を超える客が訪れ、口々にお母さんへの感謝を述べ、その労をねぎらった。閉店はきっかり22時。店の灯りが消えた後、「おらぁ、明日からどうすればいいがよぉ……」と落涙する常連客もいたと島倉さんから聞き、私は胸が締め付けられた。

続いてその年の5月末、シネマ食堂街が56年の歴史に幕を閉じた。寿し晴は連日、予約客で一杯で、最終日も朝方まで賑わった。

2018年現在、シネマ食堂街の跡地には18階建てのホテルとマンション、専門学校、カラオケや居酒屋などの飲食店が入った複合型商業ビル「パティオさくら」がそびえ立っている。11の飲食店のうち富山の店はわずか一軒。北陸新幹線に乗ってやって来る県外の観光客を「ようこそ富山へ!」と出迎えるのは、東京、石川が資本のチェーン店になった。そして富劇食堂街の跡地にできたのは、富山市が標榜する“コンパクトシティ”の対極にある車社会の象徴、コインパーキングである。

街の変化を全否定したいわけじゃない。パティオさくら内に串カツ屋がオープンしたと聞いて「おほっ!」とテンションが上がったし、実際、モリモリ食って飲んだ。店内は外国人観光客やサラリーマン、合コン中と思しき若い学生たちで賑わっていた。「ここは一人でも入れるし、サクッと食べて飲んで帰れる。楽チンなんよね」と語る知人の話を聞いて、シネマ食堂街の客層とはまるで違うこの店の方が、多くの人に歓迎されているのだろうと思った。きれいで入りやすいし、接客はスムーズ、ドリンクもすぐ出てくるし、串カツはどれも平均的にうまい。何も悪いところはない。だが、毒もない。

かたやシネマ食堂街と富劇の初音は、やすやすと通り過ぎることのできない、めんどくせぇ場所だった。建物は汚くてイスは座り心地が悪いし、昔はワルだったっぽいオッサンや、今でもワルそうなオッサンもたくさんいたし、シネマ食堂街の某店の女将さんからは「座布団、二枚重ねて座るな! お里が知れるよ!」と怒られた。泥酔客に絡まれてこっちまで悪酔いし、翌朝に「行くんじゃなかった……」と後悔することだってザラにあった。あそこは最後まで、私にとっては攻略できないスポットであり、だからこそめちゃくちゃ面白かった。気の合う仲間たちと過ごす箱庭では決して出会うことのない、酸いも甘いも噛み分けた大人たちの吹き溜まりは、雑多で猥雑なエネルギーに満ち溢れていた。それはまさに、街が持つ普遍性だったのではないかと今は強く思う。

シネマ食堂街と富劇を失った今の駅前には、表と裏、光と闇の境界線までもが取っ払われてしまったように私には思える。街はどんどんわかりやすく、効率化されていく。街の中に不気味で、いかがわしくて、思わず足がすくむようなエリアが無くなっていくことで、自分たちの心の中までもがどんどん地ならしされていくような気がする。ひとつの場所が失われるということは、多様に絡み合ってきた人間模様が奪われてしまうということだ。物理的に建物が無くなること以上に、その喪失のダメージは計り知れない。

昆布出汁のおでんの香りとタバコの煙。公衆便所のアンモニア臭と呑兵衛たちの酒臭い吐息。かつてシネマ食堂街と富劇から放たれていたディープな体臭は、様々なバックボーンを抱えた大人たちの人生そのものの匂いだったのだろうと思う。街が無味無臭化されてしまった今は、あの匂いが無性に恋しくてたまらない。


てるてる坊主のように吊るされた、初音名物、ゆべし。

写真(バナー / 07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」 / 文中:島倉和幸、Mr.山崎、著者)

(つづく)