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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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場所は人が作るもんじゃないけ?

2018年11月19日 公開

2016年9月23日、私は休館を一週間後に控えた「フォルツァ総曲輪」のステージに立っていた。自分のペンネームを冠した郷土愛イベント「ピストン祭」の第3弾「FUJII ROCK FES 見切り発車の郷土愛リサイタル」が、クライマックスを迎えようとしていた。

「燃えて散るのが花ぁあ! 夢で咲くのが恋ぃい! ひとり咲ぁああ~きぃいいい!」

「富山地方鉄道」の黄色いヘルメットを被り、父が潰した工場の作業服を着用し、チャゲ&飛鳥のデビュー曲「ひとり咲き」を熱唱する37歳の行かず後家。思春期の頃から「映画監督になりたい」「雑誌編集者になりたい」と思い続けてきた私のその姿は、「町内の祭でカラオケを歌う珍スポット好きのおばはん」以外の何者でもなかった。

ピストン祭を初めてフォルツァで開催したのは2015年9月のことだった。フォルツァのスタッフの中川さんから、「うちが8周年を迎えるので、富山のアーティストたちのイベントを連続で企画しようと思っている。ピストンもやってみんか?」と誘われた。私は「やるやるぅ!」と前のめって引き受けた。中川さんが「富山のアーティスト枠」として自分を選んでくれたことが、素直に嬉しかった。

「好きにやっていい。法に触れなければ」と言われ、私は珍スポットライターとして富山の地べたから湧き上げてきたアクをすくいとり、フォルツァのステージでお披露目することにした。町おこしをしたいという大層な動機というよりは、自分のミニコミ『郷土愛バカ一代!』では収めきれなかった、富山のユニークさを別な形で表現したいという独りよがりの衝動だった。

記念すべき第1弾「郷土愛学習発表会」は、ファッションショー「発酵美熟女コレクション」で幕を開けた。全面的に協力してくれたのが、ホタルイカの街・滑川の老舗衣料品店「トムトム」だった。ベビー用品から喪服まで、良心的価格で取り揃えるこの店は、近所の人が茶菓子を頬張って井戸端会議を繰り広げる寄合場でもあった。店の中心にいる水野店長は私が店を訪れるたび、靴下やら歯ブラシやらをおまけにくれた。ついには「おまたせ~!」と店の奥から熱々の鍋焼きうどんを持ってきたこともあった。サービス精神が過剰な水野店長は、私にイベント出演を依頼された時も、ヘルニアをおしてまで快諾してくれたのだった。

当日は「若いツバメと繰り出す最強デート服」をまとった水野店長、「総曲輪ビリヤード」の女ハスラー、田鶴子ら平均年齢70歳越えの熟女たちがフォルツァのランウェイを練り歩いた。「また性懲りもなく一円にもならん祭なんぞしやがって!」と怒っていたオカンも、バカ娘と一緒に「ゆるふわ農作業ファッション」のモデルとして登場。予想に反して満杯のお客さんに迎えられ、嬉々として投げキッスをかましていた。その後も、富山のライター仲間のアコタンによる珍スポット・スライドショー、“デキのいいほうの藤井”こと我が兄による「富山県民攻略講座」など、私が培ったコネと血縁をフル活用した郷土ネタで駆け抜けた。

時には盛大にスベったりもしたが、私の中では「誰もやらないであろう、わけのわからんことをやっている」という謎の達成感があった。モジモジしながらミニコミを作っていたくせに、ピストン祭に関しては「やっちまえ!」となぜか心臓にボーボー毛が生えた。「これはライフワークにするしかない」と決め込んだ私は、翌2016年3月に第2弾、9月に第3弾をフォルツァで開催することになる。

しかし2回目の祭をやる直前にフォルツァの休館が正式決定した。私はイベント当日になっても事実を受け入れられずにいた。そしてあろうことか祭の最後に突然、壇上で泣き出してしまった。それまでホタルイカの目玉を「ぺっ!」と飛ばしていたヘルメット女が、エンディング曲「ひとり咲き」が流れる中でひとりシクシクと泣いている。そして「フォルツァが無くなるんです……」と語り始め、ここが自分にとっていかに大事な場所かを涙ながらに訴えた。突然の号泣に呆気にとられる客席から「話長いぞ~!」とヤジが飛んできた。ヤジの主は泥酔したオトンだった。


フォルツァ休館の報にステージで号泣する著者

それまでの私は憤りながらも、街の変化は仕方がないと諦めているフシがあった。しかしフォルツァが休館する段階になって初めて、居場所を奪われることに何ら抵抗しない傍観者の自分が我慢ならなくなった。行政は近くにシネコンができるから、フォルツァは必要ないという。だがフォルツァは何かに代替えできる単なるハコではない。富山では見る機会の少なかったマイノリティのための映画が上映され、一流のアーティストがパフォーマンスを披露した。そして何より、ほかでは黙殺されるであろう、ピストン祭というバカバカしい企画を通してくれた。フォルツァに行けば富山の内側の珍妙な奥深さと、外側に広がる景色を同時に知ることができた。そんな場所はどこにもないのだ。私はそのことをフォルツァのステージでがむしゃらに訴えることが、自分ができる休館への抵抗なのだと考えていた。

フォルツァの休館が目前に迫った最後の祭は、あらゆる人たちを巻き込んで、全身全霊でフォルツァ愛を謳うフェスを開催した。生バンド編成で富山のご当地CMソング、メスのホタルイカの情念を歌ったオリジナル演歌「身投げ慕情」を披露。黒部の酒蔵「皇国晴酒造」のCM曲「生一本(きいっぽん)」の替え歌では、「フォルツァKEEP ON!」としつこくコール&レスポンスした。スコップ三味線を「ガチャ!ガチャ!」と奏でるアコタンの横で、「古本ブックエンド」の石橋さんの愛娘ハナちゃんがラッパを「ピー!プー!」と吹けば、富劇の名酒場「初音」の常連だった泥酔おじさんまでステージに乱入。そのまま「どんがらがっしゃーん!」と舞台下へと落下、ついでに私の妄想彼氏マネキン人形、エチオピア君も「バターン!」と転倒した。想いが溢れすぎた最後の祭は、仕掛けた張本人の私ですらおののく阿鼻叫喚のショータイムとなったのだった。

「今度は新生フォルツァで会いましょう!」

私は慌ただしく締めの言葉を叫び、狂乱のピストン祭は幕を閉じた。翌日、イベントを取り上げてくれた地元紙の北日本新聞に、「往生際悪くフォルツァ存続を訴える」という見出しが載った。私は「往生際が悪いとは言い得ているな」と感心しつつ、自分の役目を少しでも果たせた気がしてホッとした。それから一週間後、フォルツァは長い休眠に入った。


「フォルツァKeep On!」とシャウトする著者とピストンバンドのみなさん

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あの時の私は、行政への怒りに満ちていた。市民にとって文化を享受し、発信できるフォルツァのような拠点を設けることは、行政の当然の責務だと考えていたからだ。富山市はそれを放棄したように私には思えた。しかし東京をはじめ他県のミニシアターの苦境を知った今は、フォルツァがとても恵まれた環境にあったことを思い知らされている。

1993年に開館し2003年に閉館した東京「BOX東中野」を経営していた代島治彦さんの著書『ミニシアター巡礼』(2011年、大月書店)は、代島さんが文字通り全国各地のミニシアターを巡礼し、各劇場の奮闘を綴ったルポルタージュである。全国的にミニシアターが次々と閉館に追い込まれるなか、「でもやるんだよ!」と奮起し、使命感に突き動かされて映画館を営む人々の情熱が活写されている。そこには映画館を存続させることができなかった、代島さん自身が抱える後ろめたさも透けて見える。

ミニシアターのパイオニア的存在である東京「ユーロスペース」をはじめ、新潟「シネ・ウィンド」、沖縄「桜坂劇場」、群馬「シネマテークたかさき」といった劇場のオーナーたちは、私財を投げ打ったり、地元民から基金を募ったりしてハコを作った。誰もが街から映画館がなくなることを危惧し、シネコンのラインナップからはこぼれ落ちてしまう多様な作品を上映するため、知恵を振り絞って運営を継続していた。代島さんはミニシアターの独特の空間について、次のように綴る。

「人間にはあの暗闇が必要なんだ」

本書にも登場する1998年開館の金沢「シネモンド」は、かつて市に対して助成金の援助を申し出たことがある。2006年には1万5千人もの署名を集めたが、それでも願いは退けられたという。私は図書館や美術館と同じぐらい、映画館には公的な存在意義があると思っていたが現状は違っていたらしい。「金沢21世紀美術館」と組んで子供向けの映画教室を行い、金沢に文化的貢献を果たしてきたシネモンドですら、援助を受けられなかったのだ。にもかかわらず同館は今年、開館から20周年を迎える。助成金を諦め、自分たちのスタイルでやっていくという切実な覚悟でもって、映画館の暗闇を必死に守り続けているのだ。

他のミニシアターが四苦八苦しているなか、富山市の第3セクターが運営するフォルツァは全国的に見てとても厚遇された施設だったことに、私は休館してから初めて気がついた。私にとってフォルツァは「映画館の暗闇」そのものであり、くすぶり続ける何者かにスポットライトを当ててくれる光でもあった。それを官民連携で運営していたことの価値を、私たちは本当に分かっていたのだろうかと思った。

行政との対話を粘り強く繰り返したシネモンドのような気概が、フォルツァにはあったのだろうか。私たち客サイドは、行政の恩恵をただ受けるだけでよかったのだろうか。我々はそんな反省の余地を与えられることもなく、フォルツァを奪われたのだった。

フォルツァでピストン祭をやれたことは、迷走しまくりの我が人生においてひとつのターニングポイントだったと思う。通りすがりの酔っ払いや、歌謡ショーだと勘違いした近所のおばあちゃんまでもが祭に集った。私がステージ上で恥をさらしている間、ホールでは酒盛りが始まり、ロビーでは日本海食堂が設置したレトロ遊具でちびっ子が遊び、トムトムの2足100円の靴下を購入する淑女たちがいる。その隣の劇場では『ヤクザと憲法』が上映中という混沌とした空間が生まれていることに、私は「なんて懐がでけえ場所なんだ!」と心が震えた。バラバラの個性が好き勝手に集っていたフォルツァは、公共施設のひとつの在り方を体現していたと思う。

不在の時間が長引けば長引くほど、私の中でフォルツァの存在感は増していく。


「ピストン祭」の賑わいの奥には上映中の映画「ヤクザと憲法」のポスター

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かつて駅前シネマ食堂街で営業していた「寿し晴」が、富山駅から少し離れたビルの一角に移転し、私の専属酒場案内人である島倉さんと一緒に飲みに行ったことがある。新天地の寿し晴は以前より随分とキレイな店構えになっており、小上がり席まで出来上がっていたが、大将の牧野さんは相変わらず原田伸郎にそっくりだし、店内もやかましいままだった。島倉さんはいつものようにひとりで日本酒二合を飲み、「バイたた」(バイ貝の肝あえ)をつまみながらこう言った。

「駅シネが無くなっても、大将と俺たち客さえいればいい。結局、店は人が作るもんじゃないけ?」

島倉さんはしきりにそうつぶやいた。その言葉は今、より一層、深く私の心に突き刺さっている。島倉さんが言うように、あらかじめ場所が与えられているのではなく、人が場所を作っていくものなのだろう。私はもう、居場所の喪失を嘆くことよりも、自分たちで生み育てていくステージに来ていると思う。あとは「人さえいれば、なんとかなる」とハッタリかまして、次に進む覚悟が自分にあるかどうかだ。

(つづく)