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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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ワイルドサイドで歌う木こりのブルースシンガー

2018年8月6日 公開

ミニコミを作ってから、私は薬局の仕事帰りに総曲輪へと立ち寄る機会が多くなっていった。「古本ブックエンド」の店主・石橋さんから「藤井さん、『郷土愛バカ一代!』が売り切れました! 早く補充しないと商機を逃します!」と連絡が入るたびに、「かしこまりましたああ!」とミニコミを積んで街なかへと軽4を走らせた。私にとってブックエンドは、自分の本を現実社会に繋いでくれる唯一のプラットホームであり、課外活動を行う際のアジトのようなものになりつつあった。

時を同じくして、私はブックエンドから歩いて3分のミニシアター「フォルツァ総曲輪」にも通うようになった。松竹系の作品をメインに上映していた老舗映画館「ウィズシネマ」を改築したフォルツァは、私が富山に帰郷するちょうど一年前、2007年に開館した。「街なかに賑わいを創出する」という富山市が掲げた再開発プロジェクトの一環で、富山市の第三セクター「まちづくりとやま」が運営を手掛けていた。ウィズが2002年に閉館して以来、5年ぶりに富山市中心部に映画文化の燈火が灯ったのだった。

当時、県内の映画館は郊外にある「高岡イオン」「ファボーレ富山」と、パチンコ屋を併設した「シアター大都会」のシネコンが3つあるのみ。メジャーではないインディーズ系配給会社の地味な小作品や、マニアックなエログロ作品を上映する県内唯一のミニシアターの誕生は、映画好きの地元民のみならず、Uターン組である私にとっても朗報だった。しかもフォルツァは音響設備を配したイベントスペース、カルチャー教室を行う会議室なども良心的な価格で市民に貸し出していた。

私は富山大空襲の遺構である旧・大和デパートの建物がなくなった代わりに、「総曲輪フェリオ」などの複合型商業施設が次々と建設され、街なかがどんどん洗練されていくことに一抹の寂しさを覚えていた。しかし同級生の野上がフォルツァで漫才イベントをやったり、ブックエンドのお客さんがライブ企画を催したりする様を身近に見て、「再開発だって悪いことばかりじゃないんだ」と思った。市民の文化活動をバックアップし、地元の若手アーティストの発信源を作るべく、行政サイドが働きかけていることは希望だと思った。

フォルツァで映画を見て、ブックエンドで古本を物色し、田鶴子にケンタッキーを献上してから、西別院周辺の裏酒場に繰り出す。しだいにそんな濃密なルーティンが私の中で出来上がっていった。「BOOKDAYとやま」で初めてミニコミを出してから、新世代のカルチャースポットと、生けるレジェンドがどっしりと構える砦が乱立する西町・総曲輪一帯にどんどん奥深くハマっていったのだった。

と同時に私は、ミニコミという紙媒体だけでなく、いつかフォルツァで、富山への偏愛を煮詰めたバカバカしいイベントを仕掛けたいとも思うようになった。私は「やらないで文句言うより、赤っ恥をかいて頭を抱えるほうがいい」と考えるようになった。自分が一歩、踏み出しさえすれば、受け入れてくれる土壌がこの街にあることを実感したからこその心境の変化だった。

オカンに「もう無駄金を使うのはやめれ」とたしなめられ、兄には「お前、30過ぎてもまだ学生みたいなことやってんじゃねーぞ」と軽蔑され、オトンに至っては読みもしなかったミニコミ『郷土愛バカ一代!』が、局地的ながらもまさかの好感触だったことに、私は浮き足立っていた。総曲輪の裏通りカルチャーに潜入することに成功し、「理解してもらえない」という私の積年のくすぶりは、「受け入れてもらえた!」という喜びに変わった。がんじがらめになっていた自分オンリーの世界が、外に開けたことが嬉しかった。

しかし一方で私は、すごいスピードで人脈が広がっていくことに戸惑っていたのも確かだった。コミュニティの中に入れば、人と関係性を築くまでの時間が驚くほど速い。「えっと、あっ、あのっ」と躊躇する間もなく、どんぶらこっこと次から次へと人が流れてきて、数珠つなぎの繋がりがあっという間に出来上がってしまう。あまりにもスムーズなので、よく知りもしない相手のことをわかっているような錯覚に陥ってしまう。

富山のカルチャーシーンの中で、自分がどのような振る舞いをすればいいのか、私にはまだよくつかめずにいた。しかし、そんなふうに新しい人たちと関わることに喜びと戸惑いを感じていた私のもとへ、富山で表現することの難しさだけではなく、表現「し続ける」ことの厳しさを私に教えてくれる人が現れるのだった。

ジャッキー・チェン、市川雷蔵、塚本晋也が、20代までの私の人格形成に大きな影響を与えた人であるならば、30代以降の自分にもっとも大きな影響を与えた存在は、間違いなくこの人になるのだと思う。

W.C.カラスという名のミュージシャンの存在を知ったのは、「BOOKDAYとやま」の打ち上げの二次会の店だった。ロックバー「ワイルドサイド」は、旧・大和が取り壊された跡地にできた「TOYAMAキラリ」の裏手側、太田口通りにあった。かつて太田口通りは飛騨街道と称され、富山の鰤や塩を岐阜・高山へと運ぶ物流経路の重要起点だった。周辺には「日枝神社」(通称・山王さん)があり、6月頭に行われる「山王祭り」では、どこから沸いて出てきたんだと言いたくなるほどの人混みで溢れ返る。しかし普段は基本的に静かな通りで、夜ともなるとひっそり度はより高まる。ブックエンドのある西別院周辺から、ちょっと外れているだけなのに、それまで私は歩いたことすらないエリアだった。「ワイルドサイド」と記された看板が、闇の中でボーッと明かりを発して佇んでいた。その看板の文字がマジックの手書きであることに気づくのは二年後の話だ。

いつも私を富山の異界へと誘ってくれる島倉さんたちの後に続いて店内に入ると、「ケッケッケー!」と奇声を発しながら床に転がる女性の姿がいきなり目に飛び込んできた。スナックの居抜き物件らしき店内には、カウンターとボックス席、そして小さなステージが設けられている。私は「ディープゾーンに紛れ込んでしまった」と恐怖におののきながら、ボックス席でチビチビと酒を飲んでいた。

だが、背後から歌声が聞こえてきた瞬間、猫が逆毛立つように背筋がピーン! となった。すぐさま後ろを振り向くと、カウンターの隅に置いてある旧式テレビデオに、ひとりの男の人がギター片手に歌っている姿が映し出されていた。

「軍手の煮びたし 軍手の煮びたし 汗と油で煮含められた 油と泥で煮含められた

雨と汗で煮含められた 軍手の煮びたし 軍手の煮びたし

ゴム手の粕漬け ゴム手の粕漬け 嗅がせてやりてぇ 俺のゴム手

爪の間には どす黒いかたまり その手でお前をまさぐる」

————「軍手の煮びたし」(作詞・作曲 W.C.カラス)


ワイルドサイドのステージで歌うW.C.カラス

「誰ですかこの人!?」と叫ぶと、「カラスだよ! W.C.カラス! めっちゃいいやろ!」と、さっきまで床に転がっていた女性が即答してくれた。この人はこの店のママ、通称「ぶんちゃん」だった。私は呂律の回っていない島倉さんのトークをそっちのけに、傾いたテレビデオの画質の悪いライブ映像に釘付けになった。

ぶんちゃんによると、カラスさんは自主制作でリリースした1枚目のアルバムが評判となり、48歳にして東京のインディーズ・レーベル「Pヴァイン・レコード」から本格的にデビューを果たしたばかりだという。富山市の隣の高岡市在住で、木こりをしながら30年以上にわたって音楽活動をしているブルースシンガーということだった。てらいのない、ふくよかな歌声が私の脳内で響きまくり、その夜は興奮して寝つけなかった。

私は翌日すぐにカラスさんのアルバムを買いに、再びワイルドサイドを訪れた。私がカラスさんの歌にガチで感銘を受けたと知ったぶんちゃんはとても喜び、カウンターから身を乗り出してカラスさんの話を聞かせてくれた。

ワイルドサイドは駆け出しの若手からベテランまで、県内外のミュージシャンのライブを毎週のように企画していた。私は正直言って驚いた。富山の街の片隅に、こんなにも音楽熱の高い磁場が存在していたなんて全然知らなかった。カラスさんもここで頻繁にライブをしているという。私はなんとしてでもカラスさんの生歌を聴きたいと思った。それから三ヶ月後、待望の機会は訪れた。

初めて生のカラスさんを目の当たりにした時、思っていたよりも小柄な人だなという印象を受けた。テレビデオに映っていたカラスさんは、圧倒的な存在感を放っていたせいか、とても大きく見えたのだ。

「いや~、どうもどうも」とワイルドサイドの常連客と挨拶をかわす姿は、気さくなオッチャンという風情だった。演奏する前から酒を飲み始め、ダラダラと客と談笑していた。

「いつ始まるんだろう……」と思いながら私は所在なくカウンターの端っこに座っていたのだが、「じゃあ、そろそろやりますか」とカラスさんがステージに立ち、「あ~」と一声、発した途端、店内の空気がカラスさんに染まっていくのがはっきりと分かった。

それは強引にガラリと一変させるという感じではなく、客同士の喋り声や笑い声に、カラスさんの歌声がじんわりとかぶさっていくみたいだった。カラスさんにとっては準備運動だったのかもしれないが、その浸透圧の高さに私の心は震えまくった。

惣菜の天ぷらが売れ残っていただの、洗濯物が全然乾かないだの、スーパーで半額シールが貼られるのを待つだのといったことを歌った、「人生に救いはねえ」「軍手の煮びたし」「せんたく物ブルース」といったカラスさんの曲は、生活のしょっぱさを綴る歌詞ばかりだった。かと言って日常の悲哀を泥臭く歌うというわけでもない。歌声が心の深部にまで染みこむのに、曲自体はものすごくポップで、飄々としていて、カラッとしたドライさがあった。

きっとカラスさん本人が、そういう人なんだろう。この人は、どこか冷めている部分を持っている人なんだろう。

たしかその日のライブは別のミュージシャンがメインで、カラスさんは前座的役回りだったはずなのだが、メインの人のことを私はまったく覚えていない。「何なんだこの人は! こんなスゴイ人が富山に居るなんて!」と、私はカラスさんに圧倒されていた。どうしてもお近づきになりたいと思った私は、ステージを終えて酒をガッツリ飲み始めたカラスさんに「最高でした! ぜひビールを奢らせて下さい!」と駆け寄った。するとイイ感じに酔いが回っていたカラスさんは、猛烈に感動している私に向かってこう言い放った。

「あん? 俺は俺のペースで酒を飲みたいんだよ!」

頬を上気させた私に、カラスさんは「気安く話し掛けてくんじゃねぇバカ野郎!」と言わんばかりに冷水を浴びせたのだった。これが心の師匠、カラスさんと私が初めて交わした会話となるのだった。

 

写真(バナー / 07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」 / 文中:著者)

(つづく)