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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

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「お前らは何も疑わねえのか?」

2018年8月27日 公開

「うどん屋で泣いた うどん屋で泣いた

なんだかわからねぇけど ボロボロ泣いた

悲しくはないんだ 寂しいわけじゃない

ただうどんが美味くて ボロボロ泣いた」

−−−−W.C.カラス「うどん屋で泣いた」

 

メンフィス調のソウルフルな曲「うどん屋で泣いた」のコール&レスポンスが、フォルツァ総曲輪の会場中に鳴り響く。

「キツネじゃないんだ! たぬきでもない! ましてやカレーじゃねえぇえ! 素うどんで泣いたあああああ!」

定員を軽く超えた150人もの観客の熱気に包まれたホールで、私はみんなと一緒に歌詞を吠えまくった。大好きなカラスさんのライブを馴染みの地元ホールで実現できたことの充実感に満たされ、色気がダダ漏れするステージ上のカラスさんに「兄貴ぃい!クソかっこいいっす!」と心底しびれていた。

カラスさんのファンを公言する地元メディア関係者から、「カラスさんのライブを一緒に企画しないか」と声を掛けられたのは2016年の初夏だった。「やっとこの機会が回って来た!」と思った。2016年9月、フォルツァ総曲輪で行われたW.C.カラス、富山初の単独ホール公演は大成功を収めた。チケットはソールドアウト、県内だけでなく、東京、埼玉、奈良、福岡からもお客さんが駆け付けた。だがそれは「日本のブルース・シーンに革命を起こした」と言われた、鳴り物入りのデビューアルバム発売から3年の月日を必要としたのだ。

 

カラスさんは、48 歳で2013年にブルースの名門「Pヴァイン・レコード」より全国デビューを果たした。ファーストアルバムは国内唯一のブルース専門誌「ブルース&ソウル・レコーズ」の年間ベスト・アルバム10枚に選出され、大きな話題を呼んだ。ブルースの垣根を超えるポップな音楽性のみならず、富山で木こりという肉体労働に従事しながら、音楽活動を続けるカラスさんの生き方が注目を集め、大手新聞社でも取り上げられる存在になっていった。

かたや当時の私はというと、カラスさんの100万分の1くらいのスケールながら、「珍スポットライター ピストン藤井」として地元メディアにひょっこり顔を出すようになっていた。「富山地方鉄道」と刻印された黄色のヘルメットと、オトンがかつて着ていた水色の作業服を着用し、ローカルバラエティ番組のゲスト枠をゲットするまでに至った。私はディレクターさんに言われるがまま、ロケでウーパールーパーの素揚げを頬張ったり、伝説の奇祭「尻打ち祭」を再現すべく神社で自分の尻を突き出したりした。実家のご近所さんや酒場のみなさんから「アンタちゃ、楽しい人やねぇ!」と声を掛けられ、「へへへ」と素直に喜ぶ反面、視聴者からツィッターで「ピストン藤井っていうババアがクソスベってる」とディスられ、枕を濡らした夜もあった……。ババアと言われたことよりも、スベってる方に“クソ”の形容詞が付いたことに、「これは、よっぽどスベってるんだろうな」とヘコんだ。しかし兄からは「お前が自分でそういうキャラ設定にしたんやろが」と言われ、確かに自業自得だなと思った。

私は孤高に我が道をまい進するわけでもなく、かといってメディアの人が期待する「素人のおもしろおばさん」としても振り切ることもできずにいた。そんな矢先に出会ったのがカラスさんだった。カラスさんのデビューは、「世に出るのに遅すぎることはない」「地方在住でも訴求力がある」という二つの要素を併せ持った成功例として、「誰にもコントロールされず自分で発信したい!」という鬱屈を抱えていた私に大きな勇気を与えた。それと同時に、どうしてカラスさんは富山在住のままなのかが不思議でならなかった。ミュージシャンとして飛躍するには、音楽業界にすぐさまリーチできる東京に出るのが当然だと、私はまだ心のどこかで思っていたからだ。

「若い頃に上京しようとは思わなかったんですか?」

私は思い切ってカラスさんに疑問を投げかけた。すると、カラスさんから予想外の告白が返ってきた。

「いやぁ、私、パニック障害だったんで、東京に行こうにも行けなかったんですよ」

大いに歌って、ガハハと笑い、安い日本酒をガブ飲みしては、20分おきにオシッコがしたくなり、ヘベレケになってそこら辺に転がってグースカ寝る。しまいには大事なドブロギターを電車に忘れてしまう。そんな豪快で愛嬌溢れるカラスさんが、精神的な病気を抱えていたなんて、私にはまったく想像がつかなかった。

カラスさんは幼少期からお父さんの影響で、力士が土俵上で披露する相撲甚句や、浪曲といった日本の伝統的な歌を聴いて育った。中学校ではバンドを結成し、ロックから歌謡曲までジャンルレスな音楽漬けの日々を過ごした。がむしゃらにローリング・ストーンズの曲をギターでかき鳴らしつつも、鏡を見つめては「自分という存在は何なのか」と考え込み、恐怖を感じるという繊細な少年でもあった。

楽しいはずの遊園地に友達と繰り出したある日のこと、カラス少年の人生が一変してしまう。鏡張りの回転遊具に乗って以来、学校の授業中だろうが電車の中だろうが、床が持ち上がってくる感覚に襲われるようになる。いまで言う「パニック障害」だった。それからは「自分の頭がおかしくなったんじゃないか」と恐怖と隣り合わせの毎日だった。だがギターを弾いている時だけ、その恐怖を忘れることができた。カラスさんにとって音楽は生き甲斐ではなく、生きる術そのものだったのだ。

「みんないつかは死ぬのが当たり前だって当然のように受け入れてるけど、俺は怖くて仕方がないんですよ。なんで死ぬんだろうって」

高校生の頃は「自分は20歳まで生きていられるのだろうか」と思い悩み、20歳を過ぎれば「25歳までもつか」と不安に駆られた。カラスさんはそんなギリギリの自問自答を50年近く繰り返し、“何とか”生きてきた人だった。発作の恐怖から電車にも乗れず、東京に行く選択肢も自ずと消えた。

しかし苦しみもがきながら20歳になったカラス青年は、ブルースの大御所ジョン・リー・フッカーの来日公演を富山で目撃する。動物的なパフォーマンスに度肝を抜かれ、「この人と肩を並べるミュージシャンになる!」と決意したという。

「東京に行くことはできなかったけど、向こうから俺の事を発掘しに来いよ、と昔からずっと思ってました。今でもそう思ってます。まぁ、バカなんでしょうねぇ。あと、年とったら頭が悪くなったのか、鈍感になったのか発作は起きなくなりました」

ホンモノだけを信じて、富山で愚直に音楽を続けてきたことが、海千山千が集う東京で惑わされるよりも逆に良かったのかもしれない。そう話すカラスさんの言葉を聞きながら、図々しくも私とカラスさんに共通項があるとするなら、その「バカさ」加減かもしれないと思った。私も未だ、いつの日かジャッキー・チェンと、塚本晋也と一緒に仕事ができると夢想することをやめられないでいるからだ。

カラスさんはライブ活動に励むかたわら、生活のために様々な肉体労働をこなした。20代前半に結婚し、3人の子供にも恵まれた。林業に従事したのは30代後半からだ。40代に入ってからは離婚も経験し、シングルファーザーとして子供を育て上げたのは並大抵の苦労ではなかっただろう。しかもパニック障害を抱えていたのだからなおのこと。

 

「ふらふらよろめき つまずいてばかり

ただ歩くだけ それだけが

俺の宿題だと生きてきたが いつまでたってもうまく歩けない

今日も何とか切り抜けられた」

−−−−W.C.カラス「今日も何とか切り抜けられた」

 

屈託のない笑顔を見せながら、カラスさんが明るく歌うご機嫌ソングに、どれだけの絶望が鳴り響いていたのだろうか。後ろめたくなる私に、カラスさんは「いやぁ、あの曲はレコーディングの3日前に、本当に何とかして切り抜けられた曲だったんです! ワハハ!」と笑い飛ばした。

「ブルースって苦虫噛みつぶしたように歌うイメージがあるかもしんないけど、曲自体は底抜けに明るくてポップですよ。人は泣きたいときほど笑うもんです。影があるから光がある」

富山に居ようが東京に出ようが、いかに不確かな希望で己を鼓舞し続けられるか。「見切り発車でやる度胸が必要ですよ」と話すカラスさんのタフな生き様を目の当たりにし、私はこの人と出会うために富山に帰ってきたのだろうと思った。東京でも見つからなかった追いかけるべき存在が、思いがけず富山で見つかった。

カラスさんは、呼ばれれば全国どこへでも、ギター一本で駆けつけるスタイルを今も続けている。主催者との連絡をひとりでこなし、みずから軽4をぶっ飛ばしてステージに立ち、富山に帰ってきたら木こりの仕事で今度は山へと入る。初めて訪れた地方で、わずか数人の客を相手に歌わねばならないハコもあった。

地元富山でのライブでは、酔っぱらった客が野次を飛ばす、ステージに乱入するなんてこともしょっちゅうだった。私はその度に「うちのアニキの邪魔すんじゃねえぞ、ごらぁ!」と舎弟の心持ちで、プクプクとした我が拳を握りしめた。客だけじゃない。「あのハコでやるなら、うちではやらせない」といったライブハウス同士の牽制のし合いのために、思うように集客が伸びないこともあった。

こういう事態に直面すると私はいつも、富山という土地で表現するということに対して気持ちが揺らいだ。カラスさんは富山なんかに居るべき人じゃない。拠点を東京に移して、ちゃんとしたプロモーターや、ツアーのスケジュールを管理するマネージャーをバックにつけたほうがいい。

しかしその仕掛けを作るには、私はあまりにも非力だった。そんな歯痒さが募ったある日、私はカラスさんに怒られるのを覚悟で、「あまり自分を安売りしない方がいいのではないか」と物申した。何様だこの野郎的な私の提言に、カラスさんは「その土地土地でライブをやるのが自分の本分だから」と、怒りもせずに淡々と答えた。

「地元で音楽なんてもんをやってると、お前いい歳して何やってんだって言われますよ。でも俺からしたら、なんでサラリーマンやってる奴は自分を疑わないんだって思いますよ。何も疑問を抱かねえのかって。俺は常に自分を疑ってるし、社会を疑ってますよ。疑わない奴にブルースは歌えない」

自問自答を続けるカラスさんは、迷いを捨てずに流浪する歌い手だ。その歌に魅了されればされるほど、自分にはまるで、カラスさんの素晴らしさを世に訴える発信力がないことが悔しくてたまらなかった。せめて富山の人たちには、カラスさんの歌をちゃんと聴いてもらいたいと思った。

 

そこへ舞い込んだのが、カラスさんの富山単独初ホール公演の企画だった。イベントの趣旨は「カラスさんを知らない人たちにカラスさんの歌を聴いてもらうこと」だった。そのためには間口の広いパブリックな施設で、もちろん音響設備は整っていて、イス席も立ち見も確保できる広いホールが必要だった。それらの条件に見事にはまったのが、バリアフリーも行き届いた富山市の第三セクターが運営する「フォルツァ総曲輪」だった。

フォルツァを押さえた次はプロモーションだった。実行委員会のメンバーの八面六臂の活躍のおかげで、メディアへの働きかけも積極的に行えた。私は確かな手応えを感じながら、「地元のアーティストをバックアップすることは、地元メディアと第三セクターの当然の義務なんやぞ!」と、誰に言うわけでもなく心の中で叫んだ。

ライブ当日、満杯の客で埋め尽くされたホールを見渡し、破顔して歌うカラスさんの姿に、私は「この人は本当にステージがよく似合う人だな」と感極まった。再び、ここでカラスさんのパワフルなパフォーマンスを見たいと願った。しかし「ああでも、このフォルツァで見るカラスさんは最初で最後になるのか」と思ったら、うどんを食べてもないのにボロボロと泣けてきた。

熱気に包まれているこのフォルツァ総曲輪は、約3週間後の2016年9月いっぱいをもって休館することが決まっていたのだった。富山のはみ出し者たちを受け入れてきたみんなのフォルツァが、再開発事業によって奪われようとしていた。

「お前らは何も疑わねえのか?」

私は目の前のカラスさんに、そう問われているような気がした。

 

写真(バナー / 07年当時の富山駅:「駅への旅・駅からの旅」 / 文中:著者)

(つづく)