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連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

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双葉のルーツと未完の映画館・小名浜座

2023年11月6日 公開

人間の愚かさに対する怒り

 インディと話をしたあとのある日、ぼくはまた、「賠償金」のこと、それがもたらした軋轢や分断について、またモヤモヤと考えこんでいた。思い出すことはいろいろある。さっき書いた「賠償金御殿」以外にも、たとえば、震災直後、当時のいわき市長が「原発避難者はパチンコばかりしている」と語り批判が寄せられたことがあった。市長までこういう発言をしてしまう複雑な状況だったということだ。公式には一切発表されていないはずの「賠償額」がまことしやかに語られていたり、それをなじる言葉が出てきたり、敵視するような言説が出てきたり。思い出したくもない話がいくつもある。

 さらに賠償金は、多くの人たちの人生を変えた。賠償金があったことで諦めていた大学進学の夢を叶えたという若者の話を聞いたことがある。賠償金の使い方をめぐって夫婦の関係が壊れ離婚してしまったという人の話も聞いた。8万円しか賠償されていないいわき市民の「双葉郡の人たち賠償金もらいすぎだっぺ」という愚痴はそれこそ何度も聞かされた。受け取った人も受け取らなかった人もみな、賠償金の影響を受けたということだ。その意味で、賠償金とはある意味で二次災害だと言っていい。それくらいのインパクトを与えたということだ。

 原発事故について、賠償金について、「誹謗」や「中傷」とカテゴライズされるような言説は、残念ながら、今もゼロにはなっていない。それはネットに限った話ではない。知らないがゆえに、誤解しているがゆえに、いや確信犯的に、現実の人と人の間で、それは交わされている。

 発言した彼らを責めるべきだろうか。いや、原発事故後さえなければ分断は起きなかったはずだ、だから原発事故がすべての原因なんだと考えるべきだろうか。いや、やはり差別的な発言をする個人を批判しなければいけないのか。そうではなく、もっとそれ以前の問題、原発を受け入れたことそのものを問い直すべきだろうか。

 そのどれもが正しいようで、しかしどれもぼくのモヤモヤをクリアにするだけの力はないのだった。目の前の人を怒ったところで、廃炉は進まず、失われた文化や財産は戻ってこない。今なお故郷を離れて暮らす人たちの安心にもつながらない。

 そしてまた、行き場のない怒りが湧き出てくる。思えばみんな怒っていた。震災後、突拍子もないアクションを起こした人も、やっぱりなにかに怒っていたのだと思う。楽しいから、好きだから、興味があるから、と平素にこやかに語っていたとしても、そうした人ほど心の奥に他人には見せない怒りを持っていた。そして案外、怒りという原動力は持続してしまう。今もそうだと思う。一見するとポジティブに見える飛躍や偉業や、突拍子もない「横っ飛び」の背景にある怒り。それはやはり「原発事故に対する怒り」としか言いようがないものだ。それは「東電」に対する怒りかというと、そんな小さなものではない。それを含んで超えるもの、いわば「人間の愚かさ」に向けられた怒りだということはできないだろうか。


かつてチケットもぎり所だったところはDJブースになった

 怒っていたインディがいた。怒っていたぼくもいた。チーナン食堂のお母ちゃんたちも、里見さんも、江尻さんも、Y社長も、みんなどこかで怒っていた。しかし、その怒りに身を食われてしまわないように、それぞれが怒りの飼い慣らし方を発明し、日々をできるかぎりポジティブに捉えながらやってきたのだと思う。そうでなければ自分が壊れてしまうからだ。

 こうして改めて怒りを自覚すると、戦争や公害、人間がもたらした災禍の当事者とならざるを得なかった人たちも、まったく同じとは言わないまでも、ぼくたちと少しだけ重なるような怒りを心の中に抱えているのかもしれないと思えてくる。もちろん、「その気持ちわかります」などと安易な共感もしたくないし、当事者たちは、根っこにある怒りをそう簡単には他人に見せないかもしれない。しかしそれでも、だれかのポジティブなアクションの背景に怒りが、悲しみや無力感があり、その感情がぼくたちにも向けられているのではないかと思うと、背筋が伸びるような思いがしてくる。

 映画は、インディの怒りを鎮めてくれているだろうか。人間は歴史に名を残すような過ちを犯す一方で、映画をつくり、人の悲しみや怒りに寄り添い、それでも現実を生きようとする力を与え続けてきた。インディも、映画からそんな力を受け取ったひとりだと思いたい。いや、それだと少し無責任かもしれない。ぼく自身が、映画や映像作品、そしてインディのアクションから、なにかを拾い上げ、考え続けなくちゃいけないよな、とも思う。映画は、遠く離れただれかに一握りの当事者性を付与するような優れた作品を数多く残してきた。他人事にしてはいけない。


剥き出しのコンクリーは、若い作家たちや撮影家たちの表現の場になった

 モヤモヤを振り払おうと、ぼくは事務所の外に出て、小名浜座まで歩いていく。スーパー「ヨークベニマル」のある交差点から横町の小道に入り、小名浜座の前を通る。インディが乗り回す軽トラの姿はなく、シャッターは閉まったままだ。神出鬼没なインディのことだ。どこか遠くの解体現場で古材でも物色しているのだろう。そのうちLINEに、「リケンさん、久々に映画見ないっスか?」なんてメッセージが来るかもしれない。

 さっきまで降っていた雨は止み、西のほうに沈み始めた太陽の光が、雲間から漏れているのが見えた。晴れた日の小名浜もいいけれど、雨上がりの小名浜も大好きだ。ぼくの目の前にある小名浜座。それは怒りから生まれた、未完の映画館。インディはどんな結末をつくるのだろう。長く長く楽しめる作品になりそうだ。


映画館の完成は未定。インディの仕事次第

(本文中、バナー写真すべて:著者/バナーデザイン:渋井史生 PANKEY inc.)

(つづく)