ヨーロッパ人は田代一倫『はまゆりの頃に』をどう見たか。関口涼子ワークショップルポ
遡ること今年の3月16日、フランスの中でも移民が多い都市、マルセイユの、「シテ」という劇場が主宰した「ビエンナーレ・ドゥ・レエル」(リアルのビエンナーレ!)という、社会的なテーマを扱うイベントで行なわれたワークショップの模様です。
現在、イタリアのメディチ家(!)に
アーティストレジデンスで居住し、活動する
詩人の関口涼子さん(その模様は「メディチ家の館に住んで」で連載中。面白いです)が、会場の通りに面した壁にスクリーンをもうけ、そこに写真を展示するほか、16日に開かれたワークショップでは、特に海外では「フクシマ」に集約されがちな311の問題を、より相対的で普遍的な問題にも広げたいと、田代一倫の『はまゆりの頃に』の写真を見ながら、お話されました。
ルポを書いてくれたのは、
知人のつてで知り合った、ベルギー在住、
ベルギー自由大学で映像理論修士課程在籍中の、クリストフ・ヴァンコリーです。
翻訳は、近藤知子さん。忙しい合間を縫って、ありがとうございます。
当日、会場ではかなり議論が紛糾したようです。
日本国内でも被災地の人々のそれぞれに異なる事情、
繊細な心の揺れ動きにはなかなか目が届かない状況ですが、
遠くフランスに行くと、また違った角度で東北について、
日本について見ていることがよくわかります。
何人もの人の手を通し、翻訳され、届いたレポートです。
時間がすこし経過してはいますが、
いまだ鮮烈な、興味深い内容だったので、ここに掲載させていただきたいと思います。
写真上:ソファに座っているのが関口涼子氏。
写真下:田代一倫の写真を映写しながら、会場の人々に話をした
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はじめに
「現実のエクリチュール」フェスティバルを主催するテアトル・ド・ラ・シテのメンバーたちが関心を示しているのは、日本で起きた二重の大惨事、つまり、「自然」と産業が引き起こした2011年の大惨事だ。彼らは隔年開催のこのフェスティバルに作家の関口涼子を招いた。彼女は私たちに震災の記憶について語り、さらに、彼女の実践する執筆行為と田代一倫の写真の仕事を結びつける話をすることになっている。田代一倫は、およそ2年間にわたって、被災地で写真を撮り続けた写真家だという。3月11日から16日の間、東日本大震災からちょうど3年後という日程で、マルセイユの人々は、フェスティバル会場のメゾン・ド・ラ・レジオンで、東北地方の人たちを写した写真を目にすることができた。「物語を持たない」市井の人々、彼らはみな、一つの物語を持っている。写真のイメージはそのことによって意味付けられている。それでは、写真と文学という二つの異なった芸術はそこにどんな意味を与えることができるのか? テアトル・ド・ラ・シテのメンバーたちは、そう問いかけながら、芸術と社会との間の関係を探っていこうとする。この催しの目的の一つは社会的なつながりを作ることにある。
開かれた討論の場:写真による問題提起
今日、カフェ・エキターブルでは、詩人で作家の関口涼子が進行役をつとめるイベント・討論会が開かれていて、彼女は私たちに、田代一倫の写真集から10枚ほどのイメージ――メゾン・ド・ラ・レジオンに展示されていたのと同じ写真――を見せる。写真集を紹介した後で、彼女は写真家が書いたコメントを読みあげる。中心にあるテーマは、展示のなかでも見え隠れしていた記憶のテーマだ。それは、写真そのもの、そして文章によって、これまで目とペンがさんざん向けられてきたテーマでもある(※註)。
これから見ていくように、写真の被写体、被写体に対して示される美学的な解釈、そして、被写体が呼び起こす記憶の間でどんな力関係が働くのか、という問題は小さな問題ではない。写真の被写体が指し示している現実の事物と鑑賞者の知覚するイメージ――知覚や歴史のコンテクスト、そして、出来事や撮られた主体についての知識を前提にした意味で満たされている鑑賞者の知覚するイメージ――はぶつかり合うものだからだ。写真集が紹介されている間、バルトが提起した写真の三つの視点の問題が前面に出る事はなかったが、その問題はその後の議論の呼び水となるだろう。写真家本人は会場にいなかったのだが、彼の存在は、彼が書き、関口涼子が読みあげるコメントとして立ち現れた。写真に撮られた人たちは、イメージの中に存在している。そして、会場に集まった参加者は、各々の感じ方や自分自身の感情を内に保ちながら彼らの姿を見る。それゆえ、震災の記憶が全ての人にとって同じものになることは決してない。
錯覚、あるいは、共通の考えの否定
討論というのものは全員で共通の認識を見つけ出せるという錯覚を抱かせることがままある。そして、どんな場合でも、全員で共有できそうな認識を私たちが個別に作り上げてきた個々人の感じ方に引きつけようとすると、意見の衝突が起きる。そこに肯定的な側面があるとすれば、その衝突じたいが、人々の複数の考えや人々の集まる場から生まれたものだということだろう。たしかに、人々が共有する議題の形というものはある。だがそれは、ゆっくりとした過程をへて形成されていく。明らかなのは、そのような思考の実験は一般の参加者との意見交換の時間から必ずはみ出して延長していくということだ。つまり、それは私たちの研究や読書や出会いという形で延長していくのである。それでは、一般の人々の認識を前にして、芸術はいかなる役割を演じることができるのか? 人々の側にただ一つの感じ方を想定することはできないし、現実は常に動きの中にある。イメージが事物を固定するとしても、思考は外にはみ出していく。私たちの記憶は体験や様々な経験のつらなり全体と呼応して紡がれていくものなのだ。
田代一倫と里山社から刊行された彼の写真集
会場に集まった人たちに向かって、中心から少しずれたところのソファーに座っている関口涼子の後ろの壁に、田代一倫の写真画像がいくつか映し出される。どの写真も正面からの撮影で、人物を上から見下ろすことを避けるためか、ややあおり気味のアングルで撮られており、大惨事の後の人々の目録の体をなしている。何ヵ月ものあいだ断続的に、田代一倫は被災地に足を運んだ。福島から、岩手や釜石のような津波に襲われた場所まで。そこで撮った何万もの写真の中から、里山社から出版される写真集のために、写真家自身が写真を選んでいったという。私たちはそこから何点かの写真を、カフェ・エキターブルの壁に映された画像として見ることができたのだが、それらの写真があったおかげで、討論も具体性のあるものになった。
関口涼子は、写真家の仕事の背景を語った。大多数の人たちが、撮影され、自分の姿が人目にふれることを望まなかったと観客に説明した。彼女がいうには、写真につけられた日本語のコメントが撮影の状況を詳しく説明しているということだ。コメントは写真家と撮影された人々との出会いについての簡潔な記述になっている。写真家は、ある種の後ろめたさや遠慮を感じながら、彼らに近づいていったという。つまり、これらの写真は、過度に主観的な解釈をいっさい放棄した写真家による差異化の試みとして撮られているといえる。いうまでもなく、このように自ら身を引く姿勢はとても日本的なものだ。「私たち」のために、西洋的な「私」を否定することが、世界の中でも特に日本では大切なこととされている。実際のところ、アジアにおける「私たち」は、ヨーロッパにおける「私」と同じように作り出された概念だといえるだろう。日本では「私たち」という概念が個を束縛することもあれば解放することもあるため、「私」と「私たち」を二元論的な区別に回収するのは難しい。それに、関口涼子のように長くヨーロッパに住んでいる日本人は、日本文化に愛着を持っていると同時に日本社会に対してときに批判的な態度を取ることもある。その後、関口涼子と話をする中で私たちが気がついたのは、日本で起きていることを理解しようとしている人たちに、こうした根の深い文化の複雑さを伝えるのはとても難しいということだった。
田代一倫の写真は、何の変哲もない写真のように見える。だが実際、写真家は撮影に際して強い制約をみずからに課しており、そのことが作品に意味を与えている。ほぼ毎回同じフレーミング、人物の周囲を含めたパースペクティヴ、そういったもののすべてが、フレームの外から内側を掘り下げるように、それぞれの人物の話・ストーリーへと向かっている。私たちは何が起きたのか知っており、震災という大惨事を生き延び、そこから立ち上がろうとしている人々を見ているわけだが、写真の平凡な見た目のために、彼らは私たち自身の置かれている状況と向かい合わせになるのである。
これらの写真を見ていて私が思い起こしたのは、ヴァイマル共和国の庶民の、媚びへつらいのない、あるがままの肖像写真を撮ったドイツの写真家アウグスト・ザンダーの仕事だ。芸術の領分の内と外で行われたザンダーの記録写真の実践は、芸術の領分をあらためて問い直すものだったといえるだろう。田代一倫の仕事についても同じ事がいえる。田代一倫は耽美主義に浸ることもなければ、廃墟の美学といわれるフォトジェニックな外観に頼ることもない。これらの写真と鑑賞者との関係は複雑である。というのも、両者の関係は、私たちの感じ方次第で変わってくるからである。たとえば、私たちが積極的な反原発論者であるか、芸術写真の愛好家であるか、単純に好奇心旺盛であるか、日本人であるか、あるいは、ヨーロパ人であるかといった違いに応じて、関係が変わるということだ。田代一倫とアウグスト・ザンダーに違いがあるとすれば、ザンダーは写真術という新たな客観性の虜になって人々の目録を作成していったということだろう。ザンダーが生きたのは社会学が誕生して間もない頃、複製技術時代が始まり、写真術が今日では失われてしまった科学としての重要性をまだ十分に保持していた時代だった。それでも、田代一倫の写真はそのあり方・形式において、ザンダーの写真に接近している。にもかかわらず、田代一倫の写真に対する会場の参加者たちの反応をうかがってみると、写真の内容と写真が写し出している出来事のみが重視されているようなのだ。すなわち、必ずしも写真そのものに含まれている意味ではなく、写真と鑑賞者の精神にある悲劇の記憶との関係から生じた意味が写真に課せられてしまっているのである。というのも、写真には私たちを見つめている人物の姿があるだけだからだ。写真を見た人たちは、撮影された人たちが笑っていることをしきりに話題にしていたが、記録写真に典型的な正面を見据えた視線についての指摘をした人は一人もいなかった。だが、撮影された人たちを私たに結びつけ、明らかな繋がりを持たせているのは、その視線にほかならないのである。
田代一倫の肖像写真においては、どの写真もフレーミングはほとんど同じで、明るさも一定しており、撮影は正面から行われ、写真家と向かい合った人物の視線は真っ直ぐに正面を向いている。写真家は被写体となった人物の地位や身分とは関係なしに、いつも決まって、あおり気味に撮影しようとしている。それによって人物にある種の威厳が与えられている。そして、こういった特徴があるからこそ、これらの写真は他者の思考を受けいれることができるのである。田代一倫の写真は、会場の参加者の何人かには希望を感じさせたが、その他の参加者の間に議論を引き起こした。といのうのも、これらの写真を見て、東北の人々が諦めていると感じたり、彼らが生き延びることの論理をただ受入れているだけだと感じた人たちもいたからである。何人かの人たちは、東北の人々が微笑んでいることに抵抗を感ていた。社会心理学によると、あまりに大きな災害がおきると、不安を解消し、再び立ち直るために、人間はみずからと世界との関係を可能な限り正常な状態に戻そうとするということだが、大惨事の報道として私たちに真っ先に届けられるイメージには、現実の世界を前にして笑ってしまうほどの苦しみを記録したものが数多くある。とすると、災害はある種のスペクタクルといってよいのだろうか。スペクタクルとは現実を演出したものだといえるが、災害のイメージと人々が共有した時間は、実際に人々が経験したものに違いない。
会場で写真を見ている人たちの多くが気がつかなかったことの一つは、撮影されたのは少数の人たちに限られていて、その他の大勢の人たちはイメージに姿を残すことを丁寧に断っているという事実ではないだろうか。そこには政治や社会運動に関係する問題があり、政治的になるかどうかという葛藤があったはずである。だが、撮影された人々は控えめな人たちであり、田舎に住んでいて、必ずしも政治に強い関心があるとは限らないのだ。彼らが写真家に与えたのはひと時の交流であり、彼らの存在のほんの一瞬でしかない。その一瞬が写真によって機械的に複製され、永遠のものとなるのだ。こうして、固定化され、私たち一般の人間に向けて公開された形の現実は、今起きている出来事とも繋がっているために、見る者にショックを与えたり感動させたりするのである。そうなると現実の事物を表象することは慎むべきなのだろうか? 芸術家とは触媒のような働きをするものであり、自身を取り囲む世界を力強く生き、世界にある形を与えようと試みる存在なのだ。それでは、「正しい形式」というものがあるのだろうか? 文学における文体とは勇気のことだ、フローベールはそのようなことをいっていたが、映像芸術における形式とは、芸術家が利用するメディアの歴史との関係における、透かし模様になった作者の肖像のことではないだろうか。つまり、形式は作者の思考の影絵のようなものとなり、私たちに、作者の美学的あるいは政治的な選択を教えてくれるのである。それゆえ、形式は作者が世界を見る時の流儀だけでなく、作者が芸術家の仕事を実践する時の流儀を伝えてくれるものでもある。
参加者の反応、ときに攻撃的な発言がなされる
参加者たちは、イメージの問題に強く関心を引かれ、即座に反応したが、彼らの態度ははっきりと分かれていた。いくつかの発言が手短かになされた。その後も発言が続き、参加者は発言に熱心に耳を傾けている。ある女性が関口涼子に自作の詩の朗読を依頼したので、討論の後で朗読が行われることになった。また別の女性が発言し、自然災害と産業、工業の災害の区別を行った。彼女にとって、二つの災害を区別することは重要なことなのだ。たしかに、日本でも、自然災害についてはすべての人たちが同じ意見を持っているといえるが、原子力の問題となると、大きく意見が分かれるようだ。自然災害に対してはなす術がないとしても、何千人もの人々が被爆することを避ける手だてはあったはずだ、とその女性はいっていた。大惨事に屈することなく人々を避難・退去させること、嘘の報道をやめさせること、原子力産業の安全神話を広めようとする政府の操作をやめさせること、そういったことについて彼女は話をした。参加者の多くは、そのあたりの事情に通じており、彼女の意見に理解を示し、原子力を不条理なエネルギーだと考えているようだった。
私や私の周りの人たちはチェルノブイリ原発事故の大惨事の後に社会運動に参加したし、原子力関連の大量の資料に目を通してきたわけだが、昨今、原子力政策に対する世論が変わって来たように感じられる。というのも、1986年のチェルノブイリでの事故は、その後の共産圏の崩壊の一因になるほど巨大なインパクトを残したはずなのに、原子力の安全神話への信仰は、福島での事故が起きるまで、なおも世論を支配していたからである。そして、チェルノブイリの事故がひとつのシステムを決定的に終わらせたはずであるにも関わらず、福島の事故は、フランスの原発を問題視させるには至っていないようなのだ。こうした事実は、今日、新自由主義[ネオリベラリズム]がいかに強力なものかを痛感させられるという点でも、とても興味深いものである。
とはいえ、事態は動き始めている。とりわけ、原子力の安全神話への信仰について変化が感じられる。「クリーンで安価なエネルギーである」という神話は足下をすくわれたのだ。世論を味方につけるために、原発推進の熱心なロビー活動が行われているとしても、原発事故は、人的、社会的、そして経済的に莫大なコストがかかるものであり、純粋に経済的な合理性の観点から見ても、原発推進派の主張には正当性がなくなっている。こうした討論は、私たちの意識が鈍らないように、望もうと望むまいと参加者のつながりを維持し続けるものだ。その意味で辛辣な発言をした参加者が討論を煽り、挑発したのは正しかったのかもしれない。
その発言者のいわんとしたところは、異なった形を取りながら、討論会・イベントが終わるまでずっと、ひき継がれていったように思う。それをうまく要約するのは簡単ではない。すでに書いたように、会場の一部の人たちは、写真に写された人たちが大災害に対して、あきらめ、それを受入れているかのような表情をしていると感じ取ったのだが、全員がそう感じたわけではなかった。もっとも極端な発言をする人たちは、被災した人たちが「日常生活」を取り戻すように仕向けている日本政府についての話をした。彼らはさらに、強制収容所の真実性の問題まで引き合いに出して、強制収容所に連行された人たちが微笑んでいる写真、歴史が私たちに伝えているイメージに言及した。私はといえば、ハルーン・ファロッキの2007年の作品『猶予期間』のことを思い出したのだが、その映画は、ルドルフ・ブレスラウアーが1944年に撮影したアーカイヴ映像が用いられいて、ファロッキによるコメントが映像の意味を見直させ、見る者に異なった視点を与える、という構成だった。
こういった発言があったということはつまり、討論会が強い感情で満たされていたということだが、強制収容所の比喩は強烈で、何人かの聴衆はそのせいで黙り込んでしまった。とはいえ、市井の人たちと向き合った写真家の撮影行為と、強制収容所に連行された人たちにカメラの前で微笑むことを強要した戦中のプロパガンダを同列に扱うことには無理があるだろう。そのカメラは銃と同じように、敵の兵隊が向けたものだったのだから。嘘ごまかしは見え透いており、写真家の行為といっしょくたにすることはできない。必要な場合にはおそらく、無理にでも微笑ませるために兵士はもっともらしいことを口にしたことだろう。田代一倫の写真の場合には、撮影が強制されたものでないことは明らかだ。唯一、指摘しうる強制が写真の中にあるとしたら、それは文化的な強制とでもいえるもので、日本人の多くは政府に対して強い信頼を寄せているのではないかという印象を受けた。こうした文化的な下地は、日本社会においては重要なもので、社会における集団のまとまりを生み出してきたものだといえるだろうが、目下、「福島」はそのまとまりに亀裂を生じさせているというわけだ。
討論会の場では、一部の人たちが口を挟めないようにする言い回しや態度というものがあるが、人前で発言するのに明らかに長けている人の発言というのもその一つだろう。私を含めた何人かはそういった人たちの発言に簡単にいいこめられてしまう人の側にいた。イベントの参加者の一人は、会場の雰囲気のせいで自分の考えを述べることができなかったと後で口にしていた。彼女は議論に脅かされてしまったのだ。議論の対象となった日本の「現実」はもっと複雑なものであり、別のやり方で、つまり、強制収容所という恐ろしい比喩に頼らなくとも「現実」について語ることはできたはずだろう。産業が人間の生活・命を大切にしないということ、産業が損得の論理のみに従って機能していることについては、私たち皆が同じように感じている。だが、歴史に触れる際には、あせって間違った省略をしたわけでもなくても極論に走ってしまう危険があるため、細心の注意が必要とされる。つまり、結局のところ、人間の存在を重視していようとそうでなかろうと、原子力擁護派の単純な物のいい方という同じ武器を手に取ってしまうことになりかねないのだ。いずれにせよ、福島の大惨事をめぐって、思考を的確に働かせることが簡単でないというははっきりしている。というのも、私たち自身は、大惨事について、どうしたら今の状況から脱することができるかについてはあまり議論せずに、大惨事をどのように語り、どのように示すのか、そのための発言をどう組み立てるのか、といった問題についつい時間を割いてしまうからだ。
それでも私を含めた何人かの参加者は、世界を変えようとしている人のためには、お互いに耳を傾けることが重要だということに気がつくことができたし、それだけが、必要性というロジックに陥らないための助けになるはずなのだ。私たちが避けるべきなのは、ある種の統一的な考え方という、私たちが克服しようとしている考え方と同じように害のある思考のあり方である。
参加者の一人が議論を整理してくれたおかげで、私たちの考えは前進することができた。彼が説明してくれたところでは、「津波」のことを思い起こし、そのことを話題にするのはある種の追悼にあたる行為であり、それはつまり、人々の記憶に働きかける行為であるという。それに対して、原発事故は目下進行中の事態であるため、即座に行動に出ることが必要になるということだ。前者が私たちの過去に関わる行為だとしたら、後者は地球の未来に関わる行為なのである。もちろん、危険な場所にいる人々は全員避難させるべきだったのだろうが、もしも本当にそうしたとしたら、その数は世界のいかなる国家も移動させる手段が思いつかないほどになっていただろう。だが実際、放射能汚染の範囲とはどこまでを指すのだろうか? 日本政府の見解によれば、その範囲は明確に限られたゾーンに収まるということだが、東京の周辺地域までをも避難の対象にすべきだという科学者もいる。
関口涼子と会場の数名の人たちが、日本では、東北の大惨事のことを簡単に話題にすることができない状況にあることを説明しようとしていた。たしかに日本には、固有の文化、ものの考え方、そして、政府に対する揺るぎない信頼があり、物事を良いように捉え、不安を感じさせる部分についてはふたをしてしまうという傾向がある。ただただ生き抜いていくことができるように、不幸とは距離を取る傾向があるということだが、そのことが状況を複雑にしてしまっている。反原発の活動に参加し、活動の普及を願っている参加者の一人の女性にとっては、それでは話にならないという。闘う必要がある、と彼女はいう。とはいえ、日本とフランスでは社会のシステムも違うし、フランスと違って、日本では集団性に重点が置かれている。日本では個人が何かを生み出すということはなく、誰もが常に集団のロジックに従っている。つまり、日本で物事を変えるには集団を相手にしなくてはならないということだ。また、災害についての数々の情報は互いに矛盾している場合もあるため、的確な情報を得るためには、それぞれの情報が等しく同じ価値を持つわけではないということを理解できなくてはならない。だが、すべての人々に急進的な活動家になることを望むことはできない。シモーヌ・ヴェイユが指摘しているように、世の大多数の人々は平穏に暮らしているのである。そういったわけで、良くも悪くも、物事を動かし変えていくのは活動的な少数の人たちということになる。それでも、物事の実体が鮮明になる瞬間というものがあり、大多数の人々が一丸となって押し付けられた論理をはねつけるということもある。だからこそ、難しい人間関係であっても受けいれるべきなのであり、自分たちとは考え方が違う人たちのことも尊重しなくてはならないのである。物事をねじ曲げたり、誰かを傷つけることなく、主張をすること、それは難しい作業である。田代一倫の仕事には、そのような積極性のある中立性の形を見出すことができる。
記憶するという仕事 私たちを感動させ、問いかける対象に近づき、その対象を語ること
関口涼子が提案したのは、具体的な主題をあげ、それについて議論するということだった。そこで、話題は記憶の働きに向かっていった。ある男性は、思想統制を連想させる白紙の戦中の絵葉書についての話をしながら、彼自身の日本の思い出や、ウクライナのプリピャチの思い出について語った。写真イメージと、人々の微笑みにまつわる議論がここであらためて持ち上がった。参加者全体の感情が高ぶり、攻撃的なやり取りが避けられない雰囲気になった。私と何人かの人たちは、微笑みについて厳しい発言をする女性に対して、実際のところは、彼女の考えに賛成できないわけではないが、今ここでそのことを話題にするべきではないし、物事を変えていきたいのならば、他者の発言にも耳を傾けた方が良い、というふうに声をかけた。それに対して、私たちの次に発言した知的な青年は、彼女を擁護し、微笑みの問題は根が深いものであり、時間をかけて議論すべきものだといった。その青年は、批判的な感覚は失われたり、飼いならされたりするものだという話をつけ加えてくれた。
論争は激しくなるが、同時に、生産的なものとなる
芸術はつねに現実を越え、現実の姿を変えていく。参加者のうちの何人かは、芸術が現実を受け入れやすいものにしたり、通俗化したりすることを決して認めないという立場だった。他の何人かの人たちは、関口涼子が指摘していたように、極端に写真ばえするような災害の景観を写した写真ではないため、田代一倫の写真に問題になるようなところはないという見方をしていた。繰り返された表情を見ながら、彼らのストーリーの一部分を知りたいと思ったところで、彼らの心にしまわれたストーリーと私たちを繋げるものは、何も写されていないのである。知的な青年は、それらの写真イメージに対して、批判的なスタンスを取っていた。だからといって彼が田代一倫の写真そのものを認めていなかったわけではない。むしろ興味深いものだと思っている、そう彼は後で私に話してくれた。今、芸術と政治参加の問題は決定的に重要なものだ、とも彼はいっていた。
関口涼子は、ある写真家が事物に残存した放射線にフィルムを反応させて撮影した写真があるという話をした。放射線の有害な作用を可視化できる写真があることは興味深いということだった。
見世物・スペクタクルに対抗する芸術
芸術家は大惨事を見世物・スペクタクルに仕立てることのないように気をつけなくてはならない。そして、批評的な表現の形式・あり方を見つけ出し、議論を喚起しなくてならない。いずれにせよ、議論がいかに騒がしいものであったとしても、「カフェ・エキターブル」に集った私たちは激しく衝突しあっていたわけではないのである。参加者の考えはそれぞれにばらばらだったかもしれないが、そうでなくてもやはり、表現の形式・あり方の問題は無視できないものだったように思う。その問題が、関口涼子が進行役を務めたイベント、討論会の時間を延長させたともいえる。写真をめぐる議論が、イメージと言葉と記憶についての思考を呼び起こしたのだ。大惨事を「いかにして語るのか?」という問いが私たちを捉えて離さなかったのである。だが、ひとつ注意しておかなくてはならないのは、文化の違いによって、人々の行動の仕方は変わるということだ。異なる文化を持つ国の間では、人々と社会、歴史、そして政治との関わり方も異なる。年に半分を日本で過ごしているという参加者の一人がそういった指摘をした。舞台俳優で演劇の演出家だという別の参加者は、日本の状況を取りあげた作品を準備しているということだったが、田代一倫の写真に共感したという。印象的だったのは、日本のことをよく知っている観客が、ヨーロッパで考えられている政治参加――情熱的で理想主義的なアンガージュマン――と、日本的な思考――集団主義的で日本に固有の規範や慣習に縛られており、政府のデマを無防備に受入れてしまう思考のあり方――をはっきりと区別していたことだ。こうした違いは、近代的な個人主義のあり方に慣れきっているヨーロッパ人にとっては理解しづらいものだろう。ヨーロッパの個人は世の中の慣習と切り離されているかもしれないが、規範や慣習の力が日本ではいまだに根強く残っているのだ。関口涼子をはじめ、日本に住んだ経験があったり、日本文化を理解し、大惨事について語ることの難しさを知っている人たちにとっては、ヨーロッパと日本の文化の違いの問題は無視できないものである。それでも、福島の汚染地域の問題が、日本の問題というだけではなく、人類全体にとっての大きな問題でもあるという事実については、私たちの見解は一致していたはずだ。
終わりに
討論会をなごやかにまとめてくれたミシェル・アンドレは、原発事故のような大惨事を取りあげるにあたって、今日、どのような表現がふさわしいのか、といった本質的に重要な事柄についての指摘をあらためて行った。田代一倫という若いアーティストの文章と写真イメージ、そして、関口涼子による紹介から出発して、私たちは、今なお進行している悲劇的な事態に関するいくつかの問題を掘り下げて考えることができたように思う。記憶とは、過去に向かって後退していくべきものではない。勢いを強めていく生きた記憶が重要なのであり、記憶を活性化させるためにも、今回のような討論会は有意義なものだったといえる。なにしろ、旧来のメディアは、人目をひく事柄しか取りあげようとしないものだし、それもたった一行で済ませてしまうからだ。福島は言葉を発しない悲劇だといえる。他方で、私たちはすでにチェルノブイリ原発事故のことを良く知っているわけで、世界の人々に福島のことを知らせ続ける必要がある。それには芸術が役に立つだろうし、討論会は思考の糧になり、思考の幅を広げてくれるに違いないということだ。
クリストフ・ヴァンコリー
※註
たとえば、ロラン・バルトは写真の本質を論じた著書『明るい部屋』のなかでこう述べている。写真は「現実の存在としては二度と繰り返されることのないものを、機械的に反復する」。それでいて写真は「ご覧のとおり」としかいわないのだ。したがって、物や人が写っていない写真は存在しないということになる。写真は目に見えない。つまり、人が写真に見ているのは、写真そのものではなくて、そこに写された被写体[オブジェ]なのだ。写真には指示対象は何なのかという問いが張り付いている。田代一倫の写真の指示対象は何かというと、簡潔になやり方で、あるいはこれ見よがしなやり方で大々的に報道された大惨事である。そういった大惨事は、他の全ての惨事と同じように、その主題が売り物にならなくなったとたんに取りあげられなくなってしまうものである。他方ではしかし、復興作業は途轍もない規模のものであり、原発事故については、今なお収束の目処さえたっていないのだ。
ロラン・バルトによれば、写真は三つの視点から理解することができるという。第一に、現実をとらえる写真家の視点。第二に、写真イメージを見て、自身の経験に結びつけてイメージを豊かなものにしていく鑑賞者の視点。そして第三に、スペクトル・現出の視点。つまり、それによってイメージがとらえられる視点そのもののことだ。それを主体といっても亡霊といっても良いのだが、スペクトルという言葉は、「死」とスペクタクルの両方と関係がある。もちろん、現実の状況を前にして、こういった言葉を使うときには慎重でなくてはならない。ひとまずは、現実とは別のレベルの知覚だと理解しておくことにしよう。イメージは時が止まった現実から取りだされる。写真が瞬間のもの[ルビ:「瞬間のもの」アンスタンタネ]と言われるのはそのためだ。あるいは、日に焼かれた瞬間[ルビ:「日に焼かれた瞬間」アンスタン・タネ]といっても良いかもしれない。写真イメージは現実を示すが、それは現実そのものではない。それは現実の記憶である。つまり、現実の亡霊が現在まで取り憑いているのだ。