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連載読みもの

どこにでもあるどこかになる前に。 〜富山見聞逡巡記〜

23 最終回

ここでしか会えない人

2018年12月25日 公開

アラフォーになったいまも、部屋でひとり週刊誌を読みふけり、テレビドラマを眺めて「わっかる〜ぅ!」と合いの手を入れる時間を愛する私は、毎日飽きもせず『スパルタンX』を繰り返し観ていた幼少期と基本的にやっていることは変わらない。でも29歳になる年に富山に帰ってから、大きく変わった部分もある。自分の中に築き上げた要塞に他者が大きく介在してくるようになり、人の目をとても気にするようになったのだ。

東京にいた頃は、大都会の中で自分が何者なのかを模索するのに必死だったから、社会の輪郭は見えていなかった。子どもでいられた、とも言える。でも富山ではそうはいかなかった。なぜか周囲は私をほったらかしてくれず、親身になって横並びの共同体に招き入れようとする。女、未婚、子無しのうえ、若くもないのにまだ自分探しをしている。それらを兼ね備えた私は、富山では落ちこぼれ認定されるのだと知った。突然、社会が生々しく立ちふさがった気がした。うんざりした。しかし他者に辟易する私を救ってくれたのも、また他者だったのだ。

富山という超保守社会で、自分の足場を確保できるかもしれないと思えたのは、2013年に開催された本のイベント「BOOKDAYとやま」のおかげだった。帰郷して5年。私はイベントに参加するために、初めて自分のミニコミ『郷土愛バカ一代!』を制作することになった。きっかけを作ってくれたのが、私にとって永久不滅の専属酒場案内人こと島倉和幸さんだった。ブックデイの実行委員だった彼が、主催者である「古本ブックエンド」の店主、石橋奨さんと山崎有邦さんを紹介してくれたことから、私の人生は動き出した。

島倉和幸という人は、一体、何を生業としているかわからない人だった。島倉さんと知り合ったのは地元の飲み会でのこと。差し出された活版印刷の小洒落た名刺に「BOOKS-Sima」という屋号が記してあったので、古本屋をやっているものと思い「お店はどこにあるんですか?」と訊いたら「いや、あの、また!」とかわされた。実は元・高校教師で、現在の職業は映像カメラマンだと判明したのは半年後のこと。あの名刺は何だったんだ。富山にもいい加減な大人はいるもんだと、ホッとしたことを覚えている。

実態のないエセ古本屋「BOOKS-Sima」は、総曲輪から少し外れた千石町商店街に、島倉さんの事務所として存在していた。古本屋と嘘をつくだけの本と写真集がギッシリと棚に陳列されており、机の上には吸い殻が山盛りになった灰皿とビールの空き缶、床には『BRUTUS』『POPEYE』などの雑誌が乱雑に置かれていた。仕事用のカメラと編集機材、ターンテーブルとレコードもあり、まさにサブカルおじさんの城だなと思った。

ブックデイの打ち合わせという名の飲み会で“ブクシマ”を訪れ、みんなでよく酒盛りをした。泥酔して前後不覚になった女性メンバーを、「俺に任せろ!」と颯爽と抱きかかえ、そのままズルズルッと階段を滑り落ちていった島倉さんの姿を私は忘れないだろう。富山の酒場を熟知する島倉さんと飲みに行くようになり、ヤクザ映画や塚本晋也について熱く語り合ううちに、私はいつしか10歳も年の離れた島倉さんのことを、親しみを込めて「島倉」と呼び捨てするようになった。

島倉は私たちの大好きな『仁義なき戦い』の山守組長こと金子信雄の写真を、「お父ちゃんはお前の好きな金の玉2個持っちょる!」という迷セリフを添えてしつこくメールしてきたり、「某大型書店が撤退して、970坪、全部、歯医者になる」と嘘八百を並べたり、「あいつとあいつがデキてる」と下世話な噂話をタレこむロクでもないオッサンだった。しかし妙なところで生真面目で、どんなに前日に深酒をしても、ブックデイに遅刻することは5年間ただの一度もなかった。二日酔いの吐き気と戦いながら会場設営をし、本の入った重たい段ボール箱を運ぶ地味な裏方仕事を黙々とやっていた。そして「読んでない本、見てない映画、行ってない酒場のことは語るべからず」を信条とし、本や映画の批評も鋭かった。

島倉は「犬も歩けば島倉に当たる」と言われるほど年がら年中、総曲輪界隈にいた。めぼしい酒場の大将とは大体が顔なじみで、しまいには「島倉さん、千石町の中華料理屋で肉団子運んでるらしいよ」なる怪情報まで流れてきた時には腹を抱えて笑った。とにかくめちゃくちゃ顔の広い人で、節操もないくらいにあらゆる街なかのイベントに携わっていたので、「このオッサン、本当は何がしたいんだろう?」と思ったりもした。

そんな折、島倉から「ピストンに読んでほしいものがある」と連絡が入った。それは千石町商店街が企画した映画『がんこもん』の脚本の準備稿だった。千石町商店街の人たちは市の助成金に頼らず、自分たちで地域を盛り上げようと奮闘していた。その町おこし映画の撮影と脚本を任されていたのが島倉だった。店を畳むことにした居酒屋店主が、商店街の仲間の励ましや、不思議な少年との出会いによって希望を取り戻していく。首チョンパシーンが登場する残酷B級映画が大好きな島倉らしからぬ、ファンタジーを交えた真っ当な人情ものだった。本人も照れ隠しのように「ラストは商店街のゆるキャラ“千石こまち”の大爆破説もあり得るぞ!」と言っていた。私は「それ最高すぎるやろ」と笑いつつも、ズブの素人のくせに、2時間もの長編シナリオを書き上げた島倉のド根性に心のなかで拍手を贈った。

公開直前まで島倉がヒーヒー言いながら編集した『がんこもん』は、2013年11月末にフォルツァ総曲輪で無事公開された。西川美和監督作『ディア・ドクター』以来の大盛況となり、数多くのメディアに取り上げられたことで第2弾『まちむすび』製作への足掛かりになった。

思い返せば、島倉は文句ばかり言うのではなく、ちゃんとケツを拭こうとする人だった。フォルツァ休館のニュースが新聞に載り、いち早く「フォルツァ総曲輪の未来を考える会」を発足させたのも島倉だった。内部の人間でもないのにフォルツァを守ろうと唯一、具体的な行動を起こしたのに、フォルツァの客から「劇場の運営がずさん過ぎる」と糾弾され、私からは「はよ署名活動しろ!」と責められた。しかし「俺を吊るし上げたアイツらを、いつか自叙伝で暴露してやるぜ! どふぅ!」と日本酒片手に悪態をつく島倉は、殺伐とした現状に対しても、いつもユーモラスで救いがあった。そうか、島倉は救世主だったのか。今頃、気づいた。

ライター仲間のアコたんからその電話を受けとった時、私は「またガセネタが飛び込んできやがった」と思った。しかしアコタンの震える声を聞いているうちに、だんだん頭が真っ白になっていった。

2018年10月29日、島倉は、49歳という若さでこの世を去った。突然死だった。ついこの間まで意気揚々と悪口を吐いていた島倉が、突然いなくなってしまった。

島倉は亡くなる前日も、西へ東へと駆けずり回っていたらしい。ずっと咳き込んでいたそうだが、とあるイベント会場で若い女子たちの写真をスマホで撮ってあげて、「はい、撮影料200万」と大して面白くもない冗談を言ったという。島倉らしいなと思う。でも私はどれだけ本当の彼を知っていたのだろうか。

訃報を聞いてから一カ月半の間、何度、島倉を偲んで献杯を交わしたか分からない。私の行きつけの店は島倉が連れてってくれた所ばかりだから、常連客はみんな彼の知り合いだった。相手と腹を割って話すべく、喧嘩を吹っ掛けるのが島倉のコミュニケーション手段だったので、なかには殴り合いの喧嘩をし、疎遠になった人もいた。それでもみんなが口々に「憎めない男だった」と言い、島倉の武勇伝を語ることで慰め合った。私はその話を聞いてるうちに、街から文化が衰退し、溜まり場が失われていくのを誰よりも危惧していたのが、島倉だったのではないかと思った。

島倉は縄張り意識が強固なコミュニティ間を繋ぐ、潤滑油の役割を担っていた。そんな面倒くさい役、普通はやらない。しかし互いに牽制し合っていては、画一化という行政主導の大きな流れに街全体が飲み込まれてしまうことを、島倉は分かっていたのだろうと思う。

街からミニシアターの灯を消すまいと奔走していた島倉は、富山で音楽イベントを企画してきたクラブカフェとフォルツァ関係者との間を繋いできた。その尽力もあって、2016年11月に小さなシネマカフェ「ほとり座」が街なかに生まれた。また同時に、行政関係者ともコンタクトを取り、フォルツァ復活のシナリオも描いていた。誰かにとって必要かもしれない多様な場所を街に確保するため、矢面に立ってきたのが島倉という人だった。

財布を持ち歩かず、ポケットからゴソゴソと小銭を出す。語尾に「どふぅ!」「んんばば!」という謎の擬音語をつける。自分の話に誰も耳を貸さなくなった時、「すんません! 僕にあと3分、時間を下さい!」と哀願するパターンを繰り返す。私はそんな島倉が好きだった。酒場で出くわした同業のカメラマンに酔って絡みまくる。私はそんな島倉が嫌いだった。島倉は面白くて、猥雑で、真面目で、ややこしくて、カッコイイ大人だった。

島倉よ、聞け。駅前シネマ街が無くなろうが、フォルツァが無くなろうが、アンタの喪失に勝る悲しみなんてないんだよ。身体が半分に引き裂かれたみたいで、寂しくて仕方がないよ。私の体脂肪40%が20%になっちゃってもいいのか! てめぇ以外、誰がピストン祭のイスを並べるんだ、このボケェ! みんなが島倉に会いたくて会いたくてたまらないんだよ。お願いだから戻ってきてよ。

「あとはお前らで勝手にやれや。俺はもう知らん!」と捨て台詞を吐くかのように、島倉は何もかもを放り投げていってしまった。「場所が無くなっても、人さえいればどうとでもなる」とドヤ顔で言っていたくせに、当の本人がいなくなってどうすんだ。

島倉を失った総曲輪は、今日も再開発の工事が行われている。街に出ると私はつい島倉の姿を探して、「どうしていないのだろう」と途方に暮れる。島倉のいない街は、前にも増してつまらなくなったように私には感じる。しかし島倉が通っていた大衆酒場で定番のニギスのすりみ揚げを食べる時、バーで島倉のよく飲んでいたスコッチウイスキーを飲む時、島倉と過ごした濃厚な時間が瞬時に蘇る。島倉だけじゃない。この一見、「どこにでもある」ように思えるフラットな街の風景のなかには、私が「ここでしか」出会えなかった人たちの人生、出来事が、過去から現在にわたりいくつも交錯しているのだ。

ミニコミ『郷土愛バカ一代!』には、島倉の寄稿文が全四巻すべてに掲載されている。どれもこれも無くなったか、無くなる予定の店のことばかりを書いている。島倉は二度と行けない場所を、酔狂客の酒臭い息が文字から漂ってきそうなほど緻密に描写した。街の記憶を留めようとする、強い意志と愛情がにじみ出る玉稿だった。私は改めて文章を読み返し、このミニコミを作って心底良かったと思った。ページをめくればいつだって島倉と、島倉が愛した富山がある。

ペンネームのピストン藤井ではなく、本名の藤井聡子名義でこのウェブ連載を始めた私に、島倉は誰よりも力強いエールを贈ってくれた。以前から口酸っぱく「本名で勝負しろ。ピストン藤井のキャラに逃げるな」と言われてきた。きっと島倉は、街を茶化して消費するのではなく、街の記憶を残すべきだと私に言いたかったのだと思う。富山のことを本名で書くことに臆する私を、ずっとそばで励まし続けてくれた。

「いっちゃいっちゃ。大丈夫やちゃ。アナタの言葉には力がある。そのまんまでいっちゃ」

総曲輪のハイソなタワーマンションのすぐ近くでは、田鶴子88歳がビリヤード場でケンタッキーにかぶりついている。東京の枠組みを流用したハコモノの並びでは、古本ブックエンドの石橋さんが「お客さん、来ないな……」とつぶやいている。地元食材を売る総曲輪通りの「地場もん屋」では、八百屋のオッサンと化したフォルツァの中川さんがせっせと野菜を売りながら、定期的に映写機をメンテナンスし、フォルツァが復活する日を待ち続けている。ここにいる彼らの姿と、ここにいた島倉という胡散臭いお祭り男を思い浮かべた時、街は途端にユニークな表情を取り戻す。

私はこれからも富山で暮らす人たちのこと、そして総曲輪という街にいた島倉のことをずっと書き続けていく。デコボコとした営みがチグハグに乱立する街の姿をとらえることで、一律に「前へならえ!」を強いる動きに抵抗するのが自分の役割だと思うからだ。私にとってフォルツァが暗闇と光を併せ持つかけがえのない場所だったように、島倉がずっと寄り添い続けてくれたように、私の書く文章そのものが、誰かにとって必要な居場所でありたいと思う。


島倉和幸氏、フォルツァ総曲輪客席にて。

1年3ヶ月間、ご愛読ありがとうございました! 本連載は、加筆し、2019年に里山社より書籍化予定です。お楽しみに!

(了)