第1回
ヴェネチアビエンナーレで目指した「女」「写真」「個展」
2018年5月3日 公開
ブリヂストン美術館との不思議な縁
ー 昨年の夏、笠原さんに集大成的な本を作りたいとお声がけした時はまったく存じ上げなかったんですが、実はなんと明日……。
笠原 自分へのご褒美として赤い還暦バッグを買ったんですが、東京都写真美術館を明日、3月31日で定年退職して、4月2日から石橋財団ブリヂストン美術館の副館長に就任することになりました。60歳で定年とはいえそのまま別な形で居続けることもできたので、夏の時点ではまだ身の振り方は決まってなかったんです。でも、その後にブリヂストン美術館へ行くことが決まって。だからこの本も、今回のトークも、なんだか企んでいたかのようですが、全然そんなわけではないんです。写真美術館では、91年の「現代女性セルフ・ポートレート」展で私が企画した展示はスタートしたんですが、そのとき唯一の日本人アーティストとして参加していただいたのが石内都さんでした。なんですかね、石内さんで始まり、石内さんで終わるんですかね、私は。
石内 私もびっくりしました。一ヶ月くらい前に彼女から電話があって、定年退職して石橋財団ブリヂストン美術館に行くって聞いたんです。でもよく考えたら、05年に笠原さんと組んで展示したのがヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展だったんだけど、あの日本館を建てたのが、石橋財団なんですよ。
笠原 戦後、占領が終わった後、ヴェネチア・ビエンナーレから日本政府に初めて声がかかって日本館を作ることになったんですが、日本政府は300万しか予算を計上しなくて足りない。見かねた石橋財団の石橋正二郎氏が日本館を自分のお金で建てて寄贈して、それをずっと使っていたんです。そして04年に私がビエンナーレの準備をしていたときも、日本は相変わらず文化にお金を出さないので、全然足りないんですね。それで、私は石橋財団とはまったく縁もゆかりもなかったんですが、かつて日本館を建てたという、それだけの細い細い蜘蛛の糸をたどって「200万足りないんですけど」って突然電話をかけて、訪ねて、交渉したんです。だからブリヂストン美術館とは私、そのときからの縁なんです。
石内 そうだったんだ !
笠原 作家さんはそういうこと知らないからね(笑)。
石内 私、美術大学ですから、ヴェネチアビエンナーレなんて雲の上みたいなところで、呼ばれるなんて思ってもいなかったんです。でも、つながりとしては本当に縁があって。
笠原 ともかく1989年に東京都写真美術館の準備室に入ったんですが、私は女性のセルフ・ポートレート展っていうのをやりたくて学芸員になったようなものだったんです。その企画を準備している時に、石内さんに会いました。だから本当に30年間、石内さんで始まり、石内さんで終わるというね。
石内 あなたと私はすごく縁があって、その縁もすごく上手くいったのよ。コミッショナーとアーティストって、なかなか上手くいかないんですよ。でも、私と笠原さんは、「楽しかったね」って言える。私たち一つの価値観がピシッと持てるというような。
笠原 30年間、作品を通じてずっと関わってきたけど、お互いのプライベートなんてそんなに知らないですし。石内さんとは、この日の何時に会いましょうっていう約束をして会うっていうことがそんなにないのよね。
石内 約束しないのに、ばったり会うことが多い。
笠原 それがレセプションだったりするので、そんなに驚くようなことはないんですけど、何かの節目節目で会うんですよね。
ヴェネチアで目指した「女性」で「写真」で「個展」
ー 日本人で女性でコミッショナーをされたのは05年の笠原さんが初めてだったんですか?
笠原 いや、私の前に女性は二人いて、最初が、横浜美術館で石内さんの個展「肌理と写真」(2017年12月〜2018年3月まで)をキュレーションされた逢坂恵理子さんでした。逢坂さんは01年、写真家の畠山直哉さん、サウンドアーティストの藤本由紀夫さん、アーティストの中村政人さんと男性3人を選ばれた。2003年が長谷川祐子さん。長谷川さんも曽根裕さんと小谷元彦さんという男性2人を選んでいる。2005年は、私が女性のコミッショナーで、女性の作家と組んだ個展というのが初めてだったんです。
石内 ヴェネチア側はその年、女性二人がアーティスティック・ディレクターだったんです。だからどういう意味かわからないですけど、「女のヴェネチア」って言われましたよね。
笠原 日本とイタリアって家父長制が強いという意味で似てますね。100年以上の歴史があるのに、05年で初めて女性のアーティスティック・ディレクター。それも、「女性だったら二人か!」っていう(笑)。私はコミッショナーを依頼された時に、柱は三本だと思ったんです。ひとつめは、写真ということ。80年代、90年代は世界的に写真や映像が席巻していた時代なのに、日本館の写真家は76年の篠山紀信さんお一人だけ。逢坂さんの時の畠山直哉さんがいますが、現代美術作家とのグループ展でした。これだけ日本には良い写真家がいるのに、誰も個展をやっていないのは、日本で写真が美術の分野として大学でちゃんと教えられてないからなんです。日本は大学もマーケットもないけれども、いい写真家自体はいっぱいいる。だから絶対写真家で、というのが一つです。そして、コミッショナーを私にした人たちは、私が写真専攻でフェミニストだというくらいの知識はあって選んでるわけだから、アーティストは女性。グループ展も含めて、もう100年の歴史があるのに、女性が展示したのは86人と1プロジェクト中、5人だけしかいなくて、草間彌生さんと内藤礼さんしか個展をやっていない。そして、ヴェネチアという場所を考えたら絶対個展だと思った。グループ展では太刀打ちできないと思ったんです。それを考えたら、やっぱり石内さんしかいなかったんです。
— ヴェネチアの会場はどんな感じだったのでしょうか。
笠原 石内さんと2月に下見に行ったんです。そしたら床が大理石で白黒の格子模様になっていて、その床ってとても主張が強いので、インスタレーションには向かない。だからずっと使われていなかったんですよね。それを私たちは大理石を隠していたリノリウムを全部引っぺがした。天井の一番上に空間があって、床にも下を覗き込めるように四角くに空いていて。まぁ、とんでもなく使いにくい空間でした。でもその空間の地の部分が美しいと思ったので、なるべくその空間を活かすっていう形でやったら良かったですよね。
石内 展示って、建物の空間だったり空気だったり、そういうのって写真は特に影響するんですよ。私は搬入はすべて立ち合うんですが、写真をどこの位置にどう配置するかはすごく大きい。写真って大変なの。薄っぺらい紙じゃない。だから展示ってすごく難しくて、空間に影響されちゃうんですよ。サイズや額装はそういったことを計算に入れて決めていかなきゃいけないわけ。いろんな方法がないの。私はその空間をどうやって活かすかっていうことをずっと考えてきた気がします。空間に対して身体的な写真というか。
笠原 床の穴の上にちゃんと歩けるような形で、ガラスを敷いて、その下に大きなモニターを入れて『絶唱、横須賀ストーリー』『APARTMENT』『連夜の街』の三部作の静止画をスライドショーみたいな形で見られるようにしたんですね。そういうアイデアっていうのはお互いから。
石内 そうね。ただ、ヴェネチアの時も実は私は傷を撮っていたんですよ。「キズアト」を半分、「Mother’s」を半分のつもりで「Scars」は撮り下ろしで発表する予定だったの。そしたら急に笠原さんから呼ばれて、「実は私は『Mother’s』だけでやりたい」って言ってきたんです。
— 石内さんは反対はされなかったんですか?
石内 だって別に反対する理由がなかったから。
笠原 何百もある展覧会の中で見せていくのは、一般的な想像力が持ち得る作品が強いってわかっていたので。「キズアト」はとても抽象度が高い作品で、私は大好きなんですが、でもそれはとても真面目に写真を学んで理解しようと思った人にわかるものだったから。
石内 パッと見てわかりにくいってことね。
笠原 「Mother’s」は、反応があるんです。飯沢耕太郎さんは「初めてみたとき『Mother’s』はやりきれなかった」みたいなことをおっしゃってましたけど、反発するにしろ、感激するにしろ、非常に個人的なものなんだけど一般的な想像力を用いやすい作品っていうのは、「Mother’s」の方が勝っていると思ったんです。
石内 結果的に笠原さんの判断がすごく良かったんですよね。あの狭い空間で。
笠原 そういう意見の相違って……、
石内 なかったよね。だからお互いに意見を出し合う。だからヴェネチアはすごくそれがうまくいったんだと思う。
笠原 ヴェニスは楽しかったですね。
石内 もう最高の思い出。今でも「楽しかったね」って言えるのは、現地にいる日本人コーディネイターの方ともすごくうまくいったの。
笠原 「こんなに昼夜美味しいものを食べてるキュレーターとアーティストもいない」って言ってましたけどね(笑)。
石内 あぁ、そうなの?
笠原 お昼美味しいものを食べて、夕方はさっと仕事をやめてワイン飲むっていう生活でしたね(笑)。
— お二人でやりとりしてる時間が楽しかった?
石内 というか、ヴェネチアは展示するまで待ってる時間が多かった。二人でずーっと座って。イタリア人は仕事が遅いから(笑)。二人で待ってたよね。ぼーっと。
笠原 やっぱり日本とは違うから。でも私その前に、韓国のソウル市美術館でグループ展をやったんですけど、私以外のキュレーターって上海と香港とソウルから3人いたんです。でもとにかくギリギリまで絶対にやらないし、明日、美術館オープンでレセプションっていうのに、まだ展示もできてない。だけど、韓国も中国もイタリアも、最終的に「わあ、良かった。楽しかった」っていうところに絶対持って行くんですよ。彼らは色々話し合いをして、こういうことが必要なんだって理屈を説明して、納得させないと動かない。でも、納得してくれると、思った以上のものにしてくれる。だからそこは私はやり方の違い、教育の違い、文化の違いっていうものだから、どっちが優れているとか優れてないとかの話じゃないんですよね。
(構成 / 里山社 ・清田麻衣子)
(つづく)