第2回
「いつからフェミニストですか?」
2018年5月4日 公開
「いつからフェミニストですか?」
——— 笠原さんは毎日殺人的なスケジュールをこなしてらっしゃいます。本を作っている間も、いつも判断が早くて的確でした。ひとつのイベントを成功させるのは、キュレーターの裁量とセンスが大きいと思うのですが、石内さんから見て、キュレーターとしての笠原さんについてどう思われますか?
石内 私からは褒めるしかないでしょう(笑)。いやいや、でも、やっぱり真面目。キュレーターの中でちゃんと思想性を持って「私はフェミニストですよ」って大手を振って言えたのは笠原さんが初めてだと思います。ある方向性をピシッと表明できてるっていうキュレーターは初めてだった。中途半端じゃないから。もちろんリスクもありながら、私はこういう立場で、こういう発言をして、こういう思想性を持ってますよって、ちゃんと表明してたわけですよね。だから、私はすごく付き合いやすい人です。
——— 『ジェンダー写真論1991-2017』は、笠原さんの企画された展示の図録に収録された文章を中心に収録されていますが、この中でもすごくはっきりと、ご自身の思想を表明されていらっしゃる。それは展示にも文章にも現れています。
笠原 87年にアメリカから帰ってきて、89年に東京都写真美術館の準備室に入って、最初の展示が91年でした。日本の美術館の怖さとかオヤジたちの怖さをまったく知らない状態で何も知らずにやったんです。あの時は怖いもの知らずでした。今は丸くなりましたけど(笑)。
石内 だから突っ張っていた感じが格好良かったですよ。
笠原 アメリカ帰りの小生意気なガキでしたね。だって日本では全然美術を勉強していないし、写真なんてまったく興味なかったし。
——— 渡米前、明治学院大学では社会学専攻でしたか?
笠原 社会学です。でも最初に入ったのは薬科大学だったんです。長野の実家がスピードスケートの小平奈緒選手でとても有名になった茅野市なんですが、本当に寒いところで。稼業が薬局で三姉妹の私が長女なんですが、18歳で高校を出て上京して、東京薬科大学に入ったんです。入ってみたら、まったくついていけなかった。だって大学に入って初めて家庭教師をつけましたからね。薬科大学って国家試験を受けないとダメだから、三教科落とすと赤紙が届くんです。それも自分じゃなくて実家の親に。怖いですよ、これ。で、一年生の前期で赤紙が来ました。そして後期に、二つ落としたけど、三つ目はなんとかして二年に進学したものの、夏に犬の解剖をするっていうことになって、「もうこれはダメ」って言って、妹に泣きついて、「財産放棄します。あなたにみんなあげますから、すみませんけど、継いでください」って言って。だから私、妹に頭が上がらないんです(笑)。
———— そこから社会学を選択するというのは、どういう問題意識があったんでしょうか。
笠原 高校時代はバリバリのハードロック少女で、ブリティッシュロック、プログレッシブロックばっかり聴いて過ごしてたんです。長野の田舎の女子校でそんな感じだったので、正統派なものよりも社会の周縁に興味があった。そしてものすごく本が好きで「坂口安吾の『堕落論』素晴らしい!」なんて言ってるような小生意気な高校生だったんです。そんなのが薬学部行っちゃいけませんよね。そういうことを思い出して、明治学院大学の社会学部に入りました。そして83年に卒業したんですが、その当時って……まぁ、石内さんは私の10個上なんだけど……。
石内 10個上です(笑)。
笠原 そう見えないところが怖い(笑)。その頃って、三年大学を遅れていて、女性で、文化系で、それも実家じゃなくて一人暮らしっていうのは、就職がなかったんですよ。18でも22でも、とにかく“新品”が良かったんです。“新品”、つまり色の付いてない女性を、受付とか、補助とかに雇うみたいな、そういう時代でした。その頃って“女性はクリスマスケーキ”って言われてた時代ですからね。
石内 何? 知らない。どういう意味?
笠原 石内さん知らないの?
石内 初めて聞いた。
笠原 もう、どういう世界に住んでたの? 石内さんと話してると、普通の社会に住んでたのかな?って思う時がある(笑)。だからクリスマスケーキっていうのは、24日まではとっても価値があるけど、25日になると二束三文になってしまう。価値がなくなってしまうという意味。
石内 そうなんだ。誰が決めたの?
笠原 そういうことを世間が言ってたって話。
石内 だって、関係ないじゃない。そんなの。
笠原 ずっとこう言う会話をヴェニスでしてました……私たち。
石内 えー、気にしてたの?
笠原 気にしてるわけないじゃないですか(笑)。
石内 だからアメリカに行ったってことね。日本にいてもしょうがないから。
笠原 たぶん私たちの時代は、日本にいると25歳とか30歳くらいまではものすごく世間のプレッシャーを浴びていると思いますよ。今は初婚年数がものすごく上がってきて、男性も女性も大体子供を考えて30代後半までには、と考える人たちが多くなってきてますけど、私、普通のまともな家庭の普通のお嬢さんだったから。
——— 石内さんが「クリスマスケーキ」を知らないということは、気にされたことがなかったからではないかと。
笠原 アーティストなんですよ。
石内 いや、自分のことは自分で考えてきたから、世間が何か言ってもあんまり、耳に入んない。だって、私に関係ないことじゃない、クリスマスケーキなんて現実的に。自分の価値で考えていかないといけないじゃない。世間はそうだからって意識する必要全然ないよ。世間なんて蹴っ飛ばせば良いんだよ(笑)。
笠原 石内さんは美共闘(註:美術家共闘会議)の学生運動の生き残り世代ですからね。
——— 日本でずっとそういう問題意識を抱えていて、アメリカに行って、自由とか可能性みたいなものを感じていらっしゃったんですか?
笠原 というか、そんな状況だから就職がなかったっていう逃げの選択でアメリカに行って、まぁ英語くらいなんとかできるようになろうっていう感じでした。そしたら食べていけるくらいのことはできるかなと。でも、女も仕事をしなければいけないという意識はずっとありました。それはやはり育った環境が、みんな薬局の仕事をしているし、女性が強い家なんですよ。もちろん、田舎の薬局なのでおじいちゃんとかお父さんにちゃんと「おやすみなさい」って三つ指ついて正座してっていう躾はされてきたんですけど、それでも夕飯どきにお店はやっていて、しょっちゅうお客さんもきたりするから、お父さんが「おかわり」って母親にお茶碗を差し出すんじゃなくて、自ら盛るっていう、そのくらいの家事参加はしているわけです。私の父はもう亡くなっていて、今生きていたら85、6なんですが。なので、親戚の家とか友達の家に行って、お母さんたちが家事をいろいろやっているのに、ふんぞり返って何もしない人がいると「なんでこのおじさんこんなに威張ってるんだろう」って思っていました。だからそういう違和感がフェミニズムへの関心につながっているところはありますね。「いつフェミニストになりましたか?」ってよく聞かれるんですけど、「そんな風に、その中で育ちました」としか言いようがないですね。精神的な自立って経済的な自立をバックアップにしないと成り立たないものだから。まぁ、そうじゃない人もいっぱいいますけど。
——— そういった話はお二人でよくされたんですか?
石内 そりゃまあ、知ってますよ。だってヴェネチアで毎晩飲んでいたんだから(笑)。でも、やっぱり今言った地方性みたいなことと、薬局って結構大変なことだもんね。でも、家にお金はあったんでしょう?
笠原 いや、ただの田舎の薬局ですよ。私の留学でかなり貧しくなった。長野県って教育にお金をかけてくれるし、私が辞めた薬科大学っていうのは、父の母校であり、おじいちゃんの母校で、代々薬局の先祖が行っていた大学なので、それを辞める娘が出てきたっていうのは、父にはもう理解不能だったと思う。それまでは父のことまったくわからなかったんですけど、辞めた後、いろいろ。まあ、喧嘩にもならないんですけど、辞めた後の方がお互いに「あ、この人と自分は全然違うんだ」というところから理解が始まったような感じがあった。今にして思えば、20歳の時に偉大なる挫折をしてしまったということは、自分にとっては良かったですね。今だから言えるけど、もう死にそうだったから。10代、20代なんて、私、絶対戻りたくないです。
石内 私も一緒ですね。若い時に絶対戻りたくない。今が一番。
笠原 辛いですよね。10代20代って。
石内 やっぱり傷つくことはいっぱいあるじゃない。まぁそれは忘れちゃうけれども。でも根底的に思春期って傷ついたことをなかなか回収できない。
写真は女がするものではなかった
笠原 私が10代の頃って、石内さんは多摩美の美共闘だった頃ですよね。
石内 68年とか69年ね。
笠原 68年は東大安田講堂事件もあって。
石内 そうそう。だから、やっぱり時代なのかな。私たちは70年安保の時代で、社会的なアプローチが普通だったのね。考えないと生きていけない時代だった。だから言ってみればバリケードがあって、そこに入るか入らないかということで、まずひとつ決めなくちゃいけない。私はきっとバリケードの中に入った方が面白いなって思ったの。やっぱりバリケードって自分たちで学ばないと維持できないわけだから。でもそこで本当にいろんなことを学びました。
——— その中で女性は少ないんですか?
石内 実はそこからウーマンリブが出てきたんです。私、初期は田中美津さんにも会っているんです。
笠原 60年代、70年代の学生運動で裏切られた社会主義者の女性たちがだいたいフェミニズムの方に行ってますね。でも、写真の世界には、同世代にもその前の世代にも何人か女性はいましたけど、石内さんのような形でと「絶唱、横須賀ストーリー」「APARTMENT」「連夜の街」という三部作、そこから「1・9・4・7」というふうに、継続した作家活動をしている方は珍しいですよね。だっていつも「女性初」って言われてきてるでしょう。木村伊兵衛賞をとった時からして。
石内 でも私、あんまり考えて写真を撮ってきたわけじゃないんですよ。もっと違うことを考えていて、その結果として写真にプリントするようになった。もともとグラフィック・デザイナーになりたくて美大に入ったの。それは挫折して、染織も挫折して、結果的には学校をやめてしまうのね。私は中退なんですけど。
——— 中退は学生運動のせいもありましたか?
石内 まぁ、学生運動っていうのは、学生の頃しかできないものだから。それってそんなに未来はないのよ、変な言い方だけど。だから、私は写真に出会ったっていうよりも、自分の表現方法として写真を選んだっていうのがあったから、写真そのものについてあんまり考えたことはなかったんです。だから最近ですよ。横浜美術館の展示で考え始めた。
笠原 でも石内さんの在り方ってわりと紅一点ということが多かったですよね? いろんなグループ展に選ばれるのも一人だけ女性とか。
石内 実は私、1977年の「絶唱、横須賀ストーリー」の個展の前に1976年に「百花繚乱」展っていうグループ展をやっているんですよ。私は大学を辞めたのが70年で、その後どんどん運動も大きくなっていったんだけど、76年はもうそんなに特別な運動はなくなっていた時期でした。でも表に出さなきゃいけないっていうことで、リブ運動の流れも含めて、デビュー前の29歳くらいの時、女性10人集めて、「百花繚乱」展っていうのを企画したの。その時に一緒に展示をした女の子の話を聞いていて思ったのが、女性は写真というものを真面目に考えると、当時のカメラは重いから「写真は女性の仕事じゃない」って言われてたらしいんですよ。女性が写真を始めても、結婚したり子供産んだりすると全部やめちゃうの。それが基本的な女性の写真に対する考え方だったのね。その後、一緒にその時やった子で、50歳で亡くなった人がいるんです。その子はその後新聞社に就職してかなり頑張って写真をやってたけど、「すごく差別された」って言ってた。だから、新聞でも雑誌でも写真は「女はいらない、男の仕事だ」と思われてたんですよ。私はそういうのと関係ないなかで写真をやってたけど、会社の男社会の中で女が写真を撮って生き抜くってすごく大変だったと思う。私は結婚もしなかったし子供も産まなかったし、もともと写真を撮るのが嫌いで撮影しないで暗室でプリントするのが大好きだったから、そういうのもあんまり関係なくて。写真を撮らないと暗室に入れないでしょう? そういうふうにして始まってるから。だから木村伊兵衛賞もらった時は、すごかったもん。仕事が山のように来たんですよ。女が初めて獲ったっていうんで。でも、仕事で写真を撮るのは向いてなかったから、一回だけやって、もう二度とやりたくないと思った。それで25年間、私は一切頼まれ仕事はしてない。
——— 作品ではないものはやりたくなかった?
石内 そうです。自分の作品以外の写真は撮らないって決めたの。だから今もわりと持続できているのかもしれない。
笠原 ストレスはないんですか?
石内 そんなことはないけど、ただ写真に対するストレスはないね。だって自分の好きな写真しか撮ってきてないから。
笠原 本当に石内さんは長生きすると思うわ(笑)。
——— お二人が出会ったのは何年でしたか?
笠原 89年です。91年が「現代女性セルフ・ポートレート」展だから。
石内 ちょうど私が「1・9・4・7」を撮り始めた頃ですね。
笠原 最初に会った時に、撮り始めたばかりの「1・9・4・7」のシリーズを小さなサイズで見せてくれたんでえす。アポも何もしないで会った頃に。
石内 当時まだ「1・9・4・7」を発表はしてなかったんですよ。写真美術館の準備室で、笠原さんが女性だけの企画をやるっていうので見せたのかもしれないね。
——— その時の石内さんの印象はいかがでしたか。
笠原 本当に私、32、3歳のすごく生意気なガキだったから、ポストモダニズムから入っているので、石内さんのことはもちろん既に知ってましたけど、「APARTMENT」あたりではなくて、「1・9・4・7」の方を見せられて、すごく面白いと思った。
——— 大きく作風が変わられたという印象でしたか?
笠原 でも、興味のあり方は石内さんの場合変わっていない。作風が変わっているだけで。
石内 いやいや。基本的に何も変わってない。ただ、やっぱ表面が変わるってことは、見る人にとってすごくびっくりするわけね。だから、初期の三部作を好きな人は「1・9・4・7」以降を認めないの。今はそうでもないですけど、その当時はやっぱり仰天されたの。だって40女の手と足だよ。
———— 当時の石内さんと同い年の方の。
石内 そう。美醜の問題も含めて、私は「時間」を撮りたかったから、身体の中でいちばん過酷な目に遭ってるのが手と足で、そういうところに時間が溜まっていると思って撮ったの。40女の手足を撮ったんじゃない。40年間の時間の器としての手と足を撮ったの。でも女性だけしか撮らないからね。
笠原 ヴェネチアで展示してもらった「Mother’s」も最初に、すごくちっちゃな、あったかーい、本当に宝物のような写真集を見せてもらって、それは私にとってすごい衝撃的で。でも「Mother’s」も、評価ってすごく分かれたんですよね。
石内 遺品ですからね。
笠原 それも男性と女性とでは見方が変わったって石内さんがおっしゃってました。
石内 下着が多かったから。「Mother’s」の写真集見て、飯沢耕太郎さんは途中で閉めちゃったの。「恥ずかしい」って。自分の母親の下着とか口紅とか、そういうのを見たくないって言うのね。つまり母親を女としてちゃんと意識してないの。
笠原 男性にとってはお母さんの事を一人の女性として意識するのは、女性よりも全然難しいと思う。
石内 ただ、実は私もそうなんですよね。母を一人の女性として認めるってことがなかなか出来なかったわけ。亡くなって、遺品たちと出会った時に初めて「あぁそっか、同じ女同士なんだな」って、彼女の生き方みたいなのものをスッと認めることができた。それまではやっぱりあんまりうまくいっていなかったから。だから、やっぱり女性が女性を認めるということってすごく難しいことだなっていうのは「Mother’s」で学んだんです。
写真と美術はもはや同じか
——— 写真も美術の範囲に入ってきていて、境界がどんどんなくなってきているとは思います。そういう状況は、石内さんが最初に横須賀を撮られていた頃とはだいぶ変わってきているとは思うんですが。
石内 写真とかアートとか、そういうの私、全然関係ないです。だから外国行くと“Artist”で日本に帰ってくると写真家なんです。私は「どっちでもいいですよ」って言ってますけど。ただ、日本ってやっぱり写真に対して何かこうヘンテコリンなこだわり、“写真”っていう言葉に対するこだわりも含めて、何か変な感じする。そう思わない? 笠原さんは。
笠原 うーん……私は石内さんの今の言葉に対してはイエスよりもノーかな。写真だからこその、現実に片足突っ込んでいるようなメディアだからこその面白さがある。また、80年代以降から現代美術が写真と融合して、半分以上が映像とか写真作品だったりしてきています。石内さんは「美術」と「写真」を分けるのは日本だけって言うけれども、そんなに簡単じゃなくて、アメリカとかヨーロッパでも、写真専門のキュレーターと、現代美術のキュレーターが写真を扱うときって全然違うし、「写真美術館」でやってきた私たちにしてみれば、現代美術のキュレーターに対して「写真の歴史も知らなくてよくこんな展覧会やるなあ」と思ってしまうこともあります。あ、これは日本のキュレーターにも言えるので、なかなか大きな声では言えませんけど(笑)。でも、やっていることはほとんど同じでも、たとえば写真のギャラリーで売っている作品はすごく安いのに、現代美術の作品になると、同じような作品でもどっと高くなるっていうことがある。90年代以降は過渡期ではあると思うんですけどね。
石内 写真のエディションがきちっとでき始めたのってやっぱり90年代? 昔はエディションなんてなかったわけだから。
笠原 そうですね。アートマーケットがちゃんと写真においてでき始めるのは、アメリカがいちばん早いけれども、やっぱり70〜80年代くらいで、日本がそういう作家が出てきたのは杉本博司さんが80年代。杉本さん、畠山直哉さん、あと石内さんもそうです。それまでは日本ではやっぱり雑誌や写真集がメインの発表の場所でした。だいたいアメリカから比べて50年位遅れて、日本の場合は美術館が写真を扱ったという状況でした。だから美術館が写真を買ってくれて、アートマーケットもあって、ギャラリーもあって、それで大学でも写真を教える職があれば、わりとアメリカとかヨーロッパみたいにコマーシャルアーティストとアーティスト、コマーシャルの写真家とアーティストっていうのはグレーゾーンはありますが、ちゃんと分かれると思います。
石内 私がなぜ生きていけるかっていうと、オリジナルプリント、ヴィンテージプリントが山ほどあるわけ。それを売って生きているわけですね。
——— でももちろん売れる人と売れない人がいますよね。
石内 だから私は、暗室作業が好きだった結果として写真が売れているという感じがすごくあります。あとさっき言ったように、私の写真は、表面は写真だけど、実はそれじゃないものを写したいと思ってる。写真って昔はなかったものですよね。でも世界的に写真をやっている人たちが増えて、表現の可能性を広げていった。だから写真は何やったっていいんです。
笠原 写真ってわりと使うのは簡単なんですよね。その人の思想性とか、その人の表現したいものが出やすい。ただ使うのは簡単なんですけど、その人自体が出てくるっていう、どっちかっていうと成熟したメディアだと思いますね。
石内 でも、成熟っていうよりは、機械のおかげかな? 本来は写真ってすごく不自由なの。その不自由な写真をどうやって自由にするかっていうのが、たぶん私がずーっと考えてきたことで。写真をもっと自由にしたい。そういう気持ちがあるのよね。そういう意味でまだ可能性はあるし、いろんなことができると思う。
——— ただ、笠原さんは新天地ではその「写真」の枠組みから外れていくわけですが。
笠原 どういうことになるのかまだ想像できないですけど。ブリヂストン美術館という、すごく良いコレクションを持っている日本の有数の美術館のひとつで、今改装していて2019年秋にリニューアルオープンなんです。私を呼んでくれた方も私がどういう人間かということをわかっておられるので、今のブリヂストンの良い所を絶対に壊さずに、何か新しいことを入れたりできたらと思っています。今のアーティストたちがいっぱい来てくれるような、そういうことに少しでも役に立てればいいな、と。
石内 私は、ちょっと前にブリヂストン美術館に行くって聞いていたんですけど、その決断は良かったんじゃないかなってすごく思うんです。ずっと写真美術館にいるっていうのもありだけど、やっぱり環境変わるのって面白いからね。
笠原 写真もそうだし、石内さんとの出会いもそうだし、今回の本もそうなんですけど、自分で決めているんじゃなくって、本当に動かされている感じです。
石内 もちろんそうよ。でも何か縁があったな、ブリヂストン美術館。
笠原 自分自身でこうなったら良いなっていうよりも、何かそっちの方に決断せざるを得ないというふうにいつも動いている気がします。
最後に
——— では、会場からの質問を受けさせていただけたらと思います。
会場 日本のアート業界では、笠原さんの存在のお陰でフェミニズム的な視点で展覧会ができて、私たちはそれを享受させてもらいました。そのことについて感謝の気持ちがあります。でもこの本のまえがきに、やり足りないことがあった、もうちょっと頑張ればよかったということが書いてありましたが、それはどんなことでしょうか?
笠原 今現在の日本の女性の置かれたポジションというのはひど過ぎて、ジェンダーギャップ指数は144カ国中114位なんです。これは数字だけの問題ではなくて、状況が表している。それは、そういう状況にしてしまってた世代っていうのは、私も含まれていて、その責任として、もう少しなんとかできなかったかなということは正直なところ思います。でも、じゃあ具体的に自分自身がどうしたら良かったんだろうっていうことは本当に色々あるんですが、まぁこれが精一杯だったっていうのも実感としてあるので、諦めないでやり続けるしかないかなと。それがひとつの形になって、こういう本にしてくれた。まぁこれから何ができるかわからないですが、それは、ブリヂストン美術館でも、私が企画に関わった今年の10月に開催される写真美術館の展覧会でもそうです。そして、私が直接というわけではありませんが、写真美術館で後輩が本当によく育っていて、恵比寿映像祭をはじめ、多くの展覧会が企画されています。女性の作家の展覧会も今後たくさん企画されています。写真美術館は今12人、私も含めてキュレーターがいますが、なんと3人しか男がいない。写真美術館に男性でいるには、おばさん化するしかないっていう素晴らしい環境ですので(笑)、そこらへんのところは安心して離れられるなって思っています。
(構成 / 里山社・清田麻衣子)
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