第4回 後編
旗野秀人×永野三智「水俣病発生から【遅く来た若者】だからできること」
2018年12月14日 公開
日本には四大公害病以外も存在する
永野 さっきの旗野さんのお話を聞きながら、つい3日前に患者さんから言われたことを思い出していました。相思社が発行している機関誌『ごんずい』141号に掲載されている方なんですが、初期の患者の方で「奇病だ」「伝染るかもしれない」と言われていた時期のお話を聞かせてくださいました。家の前をお母さんが子どもに「口を塞ぎなさい」と言って走って行く。お店に行っても火ばさみで商品を渡されて、「団扇にお金を入れて置きなさい」と言われる。私、普段は患者さんのお話を聞いているだけなんですが、このときはポロっと「どう解釈していいのかわからない」って言ってしまったんです。そしたらその方は「子どもの頃、母親が山で仕事をしてアケビや野イチゴを獲って帰ってくる。すごく美味しくて、すごく幸せだった。家族の記憶は幸せな記憶しかない。だから水俣病だからって、不幸だとは思わないでね」と。それを聞いてドキっとしてまた何も言えなくなったんですが(笑)。
でもその後、「償う」ってなんなんだろう、何ができるんだろう、誰に責任があるんだろう、ということを考えたんです。そんなことを考えていたら、最近私は、市民の責任とか、患者の責任というのを問いたいなあと思うようになりました。
新たに相思社にやって来た患者の人たち、最近手を挙げた人たちに対して今、「あの頃、あなたは何をしてましたか」ということを聞いてるんです。それはたとえば、「患者の人たちが座り込みをしていた時にあなたは彼らのことをどう見ていましたか」とか、「初期の患者が発生した頃はどうしていましたか」とか。「かわいそうだと思ってました」って言う人が大半なんですけど、なかには、「汚いと思っていた」とか、「腐った魚を食べた人がなる病気だから俺はならないって思ってた」なんて言う人も未だにいるんです。やっぱり最初の頃に学者が出した説(※チッソの工場排水に含まれる有機水銀が原因ではないとする諸説)は、これだけ今でも影響力があるんだなとつくづく思います。そのほかに「患者に唾を吐きかけた」なんていう人もいたりする。そういう人たちの罪って明らかになっていかないのかなあということを考えているんです。
うちの子どもが小学校6年生の時に学校で長崎に行って戦争について学んできたんです。帰ってくると子供達は口を揃えて「戦争はいけないと思います」「被爆者がかわいそうだと思います」と同じトーンで声を揃えて言うんですが、これ、ちょっと怖いなと思ってしまったんです。私は、アウシュビッツに行って日本人の案内人の方に案内をしていただいたとき、そこで言われた言葉がずっと残っていて。「国の責任、県の責任、市の責任を問い終えた。そしたら次は、市民の責任を問う段階だ」と。
かたや水俣では、いまだに患者が増え続けて、2万4千人の人口のうち、1万2千人、65歳以上の80%がなんらかの補償を受けているという状況にもかかわらず、今になっても水俣病のことを普通に語ることができないという異常さ。なぜ今になっても語れないのか。それぞれが語り始めるということに委ねられてる部分があると思うんです。
「あの時何を感じていましたか」と問われることで、扉が開かれるということもあるんじゃないかなと思うんです。そして、そんなとき、問いは自分にも向かってきます。毎日苦しい。私の場合、「水俣出身であることを隠しました」「患者が悪いと思ってました」と(笑)。
そして、私が今やりたいなと思っているのは四大公害病(水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく)以外の公害病を知らせたいということなんです。このきっかけもまたやっぱり娘なんですが、「日本の中で公害病ってどのぐらいあると思う?」って聞いたら「4つ」って答えたんです。それ聞いて「えー!」って驚いて(笑)。私が水俣病のことを一生懸命やりすぎたかなと(笑)。
「宮崎県の土呂久砒素公害もあるんだよ」とか、「三池も北九州も福岡も長崎も、どこもどこもひどかったんだよ」って話をするんですが、なかなか母親の言うこと聞かない(笑)。四大公害って単に1960年代の後半という同じ時期に四大公害裁判という大きな裁判が起きて原告側が勝訴して、それが教科書に載った。つまり「四大公害病」ではなく「四大公害裁判」というところから来ているんですよね。だけど、教科書にはあたかも4つしか公害がないように載っている。四大公害だけが特別扱いされている気がして、これ以外の公害病がこれだけ日本全国にあったということ、今も苦しんでいる人たちがいるということを紐解いていきたなと思っています。
(構成:里山社・清田麻衣子 / 構成協力:和島香太郎)
佐藤真(さとう・まこと)1957年、青森県生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。大学在学中より水俣病被害者の支援活動に関わる。1981年、『無辜なる海』(監督:香取直孝)助監督として参加。1989年から新潟県阿賀野川流域の民家に住みこみながら撮影を始め、1992年、『阿賀に生きる』を完成。ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭銀賞など、国内外で高い評価を受ける。以降、映画監督として数々の作品を発表。他に映画やテレビ作品の編集・構成、映画論の執筆など多方面に活躍。京都造形芸術大学教授、映画美学校主任講師として後進の指導にも尽力。2007年9月4日逝去。享年49。
影響を受けた人からともに歩んできた人まで、佐藤真に惹きつけられた32人の書き下ろし原稿とインタビュー、そして佐藤真の単行本未収録原稿を含む傑作選を収録。映像作家であり、90年代後半の類稀な思想家とも言うべき佐藤真の哲学を掘り下げ、今を「批判的に」見つめ、私たちの確かな未来への足場を探る。
第1章 阿賀と日常
赤坂憲雄(民俗学)、平田オリザ(演出家)、想田和弘(映画作家)、森まゆみ(文筆家)、佐藤丹路(妻)、小林茂(映画監督)●佐藤真と盟友・小林茂の往復書簡 ※佐藤真の手紙を初収録 ●座談会 旗野秀人(『阿賀に生きる』発起人)×香取直孝(映画監督)×小林茂×山上徹二郎(シグロ代表)
第2章 生活を撮る
松江哲明(映画監督)、森達也(映画監督・作家)、原一男(映画監督)、佐藤澪(長女)、佐藤萌(次女)
第3章 芸術
椹木野衣(美術評論家)、秦岳志(映画編集)第4章 写真と東京
飯沢耕太郎(写真評論家)、笹岡啓子(写真家)、諏訪敦彦(映画監督)●グラビア 佐藤真1990’s トウキョウ・スケッチ ※佐藤真の東京スナップが蘇る! 構成・解説:飯沢耕太郎
第5章 不在とサイード
四方田犬彦(批評家)、大倉宏(美術評論家)、八角聡仁(批評家)、ジャン・ユンカーマン(映画監督)●インタビュー 阿部マーク・ノーネス(映画研究)
第6章 ドキュメンタリー考
港千尋(写真家、映像人類学者)●企画書「ドキュメンタリー映画の哲学」
第7章 佐藤真の不在
林海象(映画監督)●論考「佐藤真をめぐる8章」萩野亮(映画批評)●インタビュー 小林三四郎(佐藤真いとこ、配給会社・太秦代表取締役社長)●教え子座談会 石田優子(映画監督)×奥谷洋一郎(映画監督)×山本草介(映画監督)●ルポ「佐藤真のその先へ−—−—「佐藤真の不在」を上演するということ」村川拓也『Evellet Ghost Lines』
(つづく)