第3回 前編
旗野秀人×永野三智「水俣病発生から【遅く来た若者】だからできること」
2018年12月7日 公開
2016年3月、書籍『日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』の刊行とともに始まった東京・御茶ノ水のアテネ・フランセ文化センターでの佐藤真の作品上映とゲストによる対談は大盛況となり、神戸、京都、福岡、福島、横浜へと、上映の波は広がっていった。この対談連載は、本上映会でのトークを再構成したものである。
佐藤真の「不在」が、いかにその「存在」を濃くし、不在に向き合うことが、いかに私たちの考えを深めていくものなのか。そして彼が目指したものが、私たちが理性を持って現代を生きぬいていくためにいかに必要な姿勢か。本連載は、不在の佐藤と、いまの時代に佐藤真の視線を持ち続ける人々との対話である。
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『阿賀に生きる』の発起人であり、新潟県阿賀野市の阿賀野川流域、安田地区で水俣病の患者さんとの関わりを続けてきた「安田患者の会」の旗野秀人さんと、08年に熊本県水俣市の一般財団法人 水俣病センター相思社の職員となり、患者相談を担当する30代の永野三智さん(日々の思いをまとめた書籍『みな、やっとの思いで坂をのぼる—水俣病患者相談のいま』として2018年9月に「ころから」より出版)。発生から20年近く経った当時、すでに「遅れてきた」と佐藤らが言われた『阿賀に生きる』がうつしだした、定型ではない「水俣病」の像。2016年8月に開催された福岡、西南学院大学での対談は、それぞれ「遅れてきた」と言われながら独自のスタンスで水俣病と関わり続ける二人による、未来を見据えるものとなった。
(聞き手:里山社・清田麻衣子)
土本典昭に「今更新潟に何を撮りに行く気だ」と言われた佐藤真
—— 今日『阿賀に生きる』とともに上映された『水俣病Q&A』という映像作品は、1996年に開催された「東京水俣展」のために佐藤真監督が撮った映像です。それから20年経って、いまは水俣を巡る状況も変わってきていますが、このなかで使われている映像の多くは、土本典昭監督が水俣で撮った映像で、それを佐藤監督が編集し直して作りました。通常の佐藤監督のドキュメンタリー映画作品とは異なる作風のものになります。本作についてと、佐藤監督の代表作であり、旗野さんとともに作った『阿賀に生きる』のことから、旗野さんにお話をいただけますでしょうか。
旗野 私は本業は大工なんですが、新潟県の阿賀野川中流域の安田町の出身で、72 年から、安田町で水俣病の未認定の患者さんと10年くらい認定申請と裁判闘争に関わっていました。でもだんだんと「システム闘争」みたいなものでは捉えきれない患者さんの宝物(たからもん)話があると感じるようになりました。のちに『阿賀に生きる』で捉えた世界ですが、こういうものは運動では表現できない。熊本・水俣には石牟礼道子さんがいて、土本典昭さんがいて、表現者がいっぱいいるのに、新潟には誰もいない。それで裁判もやりつつ、81年に、ガリ版刷りで友だちと一緒に『阿賀に生きる』の聞き書き集『あがの岸辺にて』を作ったんです。
その3年後、水俣で『無辜なる海』というドキュメンタリー映画の助監督として、上映のために新潟へ来た佐藤真さんと出会います。そこで私と佐藤さんが盛り上がって映画を作るという話になるんです。
水俣でドキュメンタリー映画といえば、土本典昭監督がデンと構えていて、佐藤さんは当時まだまだ駆け出しもいいところ。新潟でこれから水俣病に関する映画を撮るということを、佐藤さんは土本さんに表敬訪問というか、仁義を切りに行くわけです。ところが、1965年の新潟水俣病が発生からすでに20年くらい経ってますから、「今更お前は新潟に何を撮りに行く気なんだ」とミソクソに言われてベソかいて帰ってきた。それで二人でヤケ酒を飲みました(笑)。私は、「水俣病」っていう言葉は使わないで、患者さんの日常をとにかくそのまま撮ろうよと、佐藤さんに飲んだ勢いで一生懸命言いました。佐藤さんはその意味はよくわかってくれたんだけども、現実的にどうすれば映画になるのか、そのときはまったく見えていなかった。だけど、素人は怖い(笑)。そこから仲間を集めて試行錯誤でいろんなところからカンパしてもらって、『阿賀に生きる』は8年がかりで92年になんとか完成しました。
裁判闘争のリーダー、川本輝夫は近所の優しい「じいちゃん」
—— 佐藤真監督は、大学時代に水俣実践学校に行って水俣の現状を知り、福浦地区に移り住み、先ほどお話しに出た香取直孝監督の映画『無辜なる海』に参加します。佐藤監督は水俣の方と関わるうちに、この漁師の方々の素晴らしさを何故伝えられないんだろうと、旗野さんが新潟で感じられたようなことを、外から来た人間として思われた。ちなみに佐藤監督が大学時代、水俣で最初に訪れたのが、今、永野さんが在籍している、水俣病センター相思社でした。いっぽうで永野さんはまだお若くて、いま32歳(2016年当時)ですが、水俣に生まれ、一度水俣から離れて、大人になってから水俣に戻って相思社に入られます。水俣病の問題と関わるようになった経緯とお気持ちをお聞かせいただけますか。
永野 先ほど上映された『水俣病 Q&A』を見ていて懐かしかったです。映画ができた96年ごろの水俣は、当時12、3歳の頃の私が見ていた風景です。原田正純さんが歩いたような風景はもうなくなっていて、補償金で建ったであろう、大きな家が並んでいる風景の傍で私は生まれました。裁判闘争のリーダーである川本輝夫さんのお宅は、私の生まれた家から三軒隣で、お孫ちゃんをおぶって散歩されている「じいちゃん」が私の中の輝夫さんです。私自身は中学を卒業した後に、家族と離れてひとりで水俣を出ました。
旗野 そのときは、川本さんが運動をしていることは知ってたの?
永野 知りませんでした。本当に近所のじいちゃんという感じで。洗濯物や大根やタケノコを干したりしているところもよく見かけました。ちなみに、私の弟と川本さんが溺愛してたお孫さんが同級生で、うちに遊びに来たお孫さんを川本さんが迎えに来て、いっしょにアメちゃんをもらうようなこともありました。
旗野 今の話、とても好きだな。新潟では川本輝夫って、過激派って言われてたの。で、それと付き合ってる旗野も過激派ってことになってた。こんないい人なのに(笑)。でも川本さんって、実は家族孝行で、すっごく優しい人なんですよね。運動の切り口ばっかりで見られてるから世間ではそんなふうに言われるけど。
永野 私は24歳で相思社に入ったんですが、その時に初めて、川本さんの出ている映像のDVDを見て「なんで怒ってるんだ、じいちゃんは……」って思ってしまった(笑)。でもそこから私は川本さんの人生を追いかけていくことになります。うちの裏には胎児性の水俣病患者の方が住んでいて、私の親と同世代だったので、家に遊びに来たりしていました。いっぽうで近所のお婆ちゃんのところに遊びにいくと、「水俣患者は働かんでチッソから補償金をふんだくって」って言いながら通帳を見せてきて「私はチッソで働いてこんなにお金を貯めた」って言う露骨な場面にも出会いました。だから水俣病ってよく分からないなあって思いながら育ちました。
私が最初に「水俣病」というものを実感したのは小学校5年生の時でした。家族でタイ旅行に行ってホテルのプールで遊んでいたら、成人したお兄さんが2人来て遊んでくれたんです。「東京から来た」というお兄さんたちに、私が「水俣から来た」と言った瞬間、お兄さん2人が、「え、伝染るんじゃない」って言ってザーッてプールから上がって行っちゃったんです。「私から何が伝染るんだろう」って思いながら、その時のことは親にも友達にも言えず、中学まで過ごしました。
そして中学に上がってから「水俣病汚い、触るな」って言われた時に、あの時のお兄さんが私を避けた理由がストンと自分の中に落ちました。中学卒業後に、水俣の外に出た時に「水俣出身」とは言わずに近隣の「鹿児島県の大口市の出身です」と言ってアルバイトをする(笑)。水俣出身者がいても、お互いにわかりつつ何も言わないような感じでした。中学を卒業したときに思っていたのは、「水俣病患者がいるから私がこんな目に遭うんだ。水俣病が全部悪い」ということでした。今考えるとひどいですよね。小さい頃から胎児性水俣病の人に可愛がってもらったり、川本さんの家の近所だったりしたにもかかわらず、そんなふうに考えて暮らしていました。今、自分がこんなところで水俣病の話をしてるっていうのは、当時の私からしたら、考えられないですね。