Now Loading...

連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

1

チーナン食堂のおかみさんとマグネシウム

2023年8月16日 公開

ボランティアさんへ恩返しの500円食堂

2011年3月13日。ぼくは、スマホを片手に持ち、自転車にまたがって、津波に被災した直後の小名浜港周辺を撮影していた。その動画は、いまもYoutubeに上がっている。あれから10年か。再生回数は50万回ほどになっただろうか。津波を食らったチーナンを見た。建物自体は破壊されていなかったが、ぼくの身長を超えるほどの高さだろうか、店の壁にくっきりと海水が来たことを表す線が残っていた。津波から2日。店の人たちはすでに片付けに入ったのだろう。泥だけの調度品が店の外に出ていた。ああ、チーナンがこんなになっちまったと思うと涙が溢れてきた。ハンパではない喪失感だった。けれど、女将たちは当たり前に片付けを始めていたのだ。直接津波に被災したわけではないぼくが勝手に涙を流すそばで。

その後、チーナンは関係者やボランティアの尽力もあり、なんと震災から2カ月後の5月14日に再開した。テレビや新聞も多く訪れ、港町の人情食堂の再生は地域の希望の光になった。ぼくにとっても、チーナンはどこかあの震災の記憶と結びつく食堂になった。なんというか、普通の食堂ではないという気がしていたのだ。けれども、心のどこかで、震災を契機に特別な食堂にしてしまったのではないか、勝手に「震災復興の希望の光」みたいなものを押しつけてしまったかもしれないという思いもあった。復興のシンボルになった女将たちは、10年をどんなふうに迎えたのだろう。そんなことが気になって、話を聞いてみたいなと思っていた。


ケイさんとノブさんの威勢のいい声が、いつも聞こえてくる

昼めしを食べ逃したある日の午後3時半ごろ、まだチーナンやってるかなあと思いながら店を訪ねた。たまたま最後のお客だったのか、店にいるのはすぐにぼくだけになった。ひとしきりラーメンを食べた後、ふたりのかあちゃん、ケイさんとノブさんのふたりとしばらく話し込んだ。ぼくは震災のことが聞きたかったが、なかなか本題を切り出せず、なにげないおしゃべりのついでに、「今年は10年じゃないですか、あらためて振り返ると、この10年、どうっすか」なんて聞くことしかできなかった。ああ、いかにも記者みたいな聞き方だ……。

ケイさんは言う。「10年? あっという間だぁ、あっという間。2年目だ、3年目だあ、なんてないの。夢中んなってお店やってるだけ。3月だって変わらず営業だがら」。

やっぱり、そうですよねと言うしかなくて、しばらく、おふたりの話を聞く。

「震災後は、めっちゃ忙しかったんだ。今の(コロナ禍)のほうが大変。周りの震災の復興の人たちでいっぱいで、ほんっとに、忙しい、忙しいってやってきたの。あの頃は、ボランティアさんは何食べてもワンコインでいいよ、500円でいいよって。わだしらは商売で生きねっきゃいけないから、ワンコインだけはもらうよって、そうしてあげたんだ。みなさんからの恩恵を受けてもなにも返せない。食わせることがしかできないんだからって」

ノブさんは後ろでケイさんの話を聞きながら、んだ、んだ、そうだ、そうだ、と相槌をうつ。さすがに双子姉妹。タイミングが本当に絶妙だ。そして、思い出したように「成田山のえらいお坊さんも来たっぺ」とコメントを入れる。

「来たねえ、来た来た。5、6人だったかな。その時も、500円ずつでいいですって。でもあるお坊さんが、そんなことしたら後の者に紹介できませんからなんて言われたけど、みんなに助けてもらったんだから、食べてもらうことしかできないけどって、お坊さんからも500円だけもらったの。お坊さんたち、そのあと、永崎の海岸に拝みに来たときにまた寄ってくれて、紫の袈裟懸けのすごいお坊さんが来て、あの節は皆さんに大変お世話になりましたって、成田山のいろんなグッズ、開山って言うのげ? お寺始まって何年目なんてハンコ押したのとか、たくさんグッズ持って来てくれた。でもねリケンちゃん、うぢら、なーんもでぎねえもん。せめて震災の被害が落ち着くまでは500円でやろうってがんばったんだ」

ケイさんは、4人掛けの小さなテーブルを挟んで、ぼくと対面して座っていて、一方のノブさんは、隣のテーブルから相槌を入れてくれる。普段、ふたりは厨房にいる。この距離で話をするのはほとんど初めてだ。だから余計に、声の振動が伝わってくるようだった。


店に着くと、いつもお冷やをがぶ飲みしてしまう

そして、はっきりと「紫」という色の名前が出てきたせいで、ぼくの頭の中には、紫の法衣を着たお坊さんが映し出された。この港町の食堂に、紫の法衣のお坊さん。そして、パンチの効いたふたりの女将。なんというミスマッチ。けれどきっと、お坊さんはふたりの母ちゃんのことを菩薩さまみたいだと思ったんじゃないか。済南菩薩。その姿がほわっと思い浮かぶ。

それにしても、この500円の話をぼくは知らなかった。初めて知った。ぼくは震災後、ゴーストタウン化した商店街の一角にテナントを借り、仲間たちとスペースの運営に没頭していたので、ボランティアにはほとんど参加してしていない。ちょっとした炊き出しをやったくらいだ。復活するだけで大変だったはずのチーナンが、ボランティアたちに500円で食事を提供していたという話を聞き、ぼくはなんだか自分が申し訳ないような気持ちになってしまった。

「ボランティアっつうのは、ほんっとに大変だ。休みになると、側溝の泥をすくって、ゴミを集めて、永崎海岸のサーファーのあんちゃらもいっぱい来てくれた。オレたち、散々永崎の海で世話になってんですからって。何年も来てくれだな」とケイさんが話せば、「いやあ、思い出すだけで涙こぼれでくるよ。本当に助かった。おかげさまだ」とノブさんも返す。震災直後を振り返るふたりの言葉には感謝の気持ちが溢れていた。ところがだ。ケイさんが一度だけ、怒りをぶちまけた。

「ところがあんた、近所のね、あの男、ネットで見たけど福島は線量が高くて危険だから、ウチの息子たちは帰ってこないんだなんつってる男がいたの。なに言ってんのって。あんたがそう言ってる間に、日本全国からボランティアが来てくれて、あんたの家のダメになったところボッコして(壊して)、家の周り片付げしてんだよ。なんぼ頭良くてネットでいろいろなこと調べられたって、そういう人に感謝の気持ちも持でねえで、このバヂあだり、なにふざけだごど言ってんだって言ってやったんだ」

よほどの怒りだったのだろう。「わだしら商売してっから、どなた様にもケンカはしない。頭を下げるだけだよ。でも、あれだけは我慢できねがった」とケイさんは申し訳なさそうに付け加えた。

原発事故直後の混乱を思い出した。首都圏からの支援物資は福島県境で止まった。そこからは福島県内のトラックが運ぶしかなかった。県外に避難するためのガソリンすら届かなかった。SNSにも差別的な言葉が溢れた。帰る・帰らない、食べる・食べない、行く・行かない、さまざまな意見の食い違いも生まれた。ここに住んでいれば、みんな大なり小なり体験したことだ。今では表立ってそれらを言うことは減った。けれど忘れていない。忘れられるはずもない。ケイさんの記憶にも、深く深くそれが刻まれている。みんな、そういうことを忘れてはいない、ということを、ぼくたちは忘れてはいけないのだ。


小名浜のあちらこちらに、こうした網元の倉庫がある

「取材をする/される」関係を超えていく

そのあと、ふたりともひとしきりコロナの話をした。ケイさんもノブさんも、ボランティアたちの協力があった震災より今のほうがつらいという。しかしそれは、自分たちの店の売り上げがきつい、という話ではない。同業者の苦境が聞こえてくるからだ。ふたりは、自分たちじゃなく同業者の心配をしているのだった。

「ちょっと前に、閉店間際だな、品川ナンバーの車がきたの。で、そのお客さんが小名浜はどうですか? ご商売はどうですか? って。そんなことを聞くのは同業者だなってすぐにわがった。おかげさまで、なんとか暖簾下げて商売を続けられてますってお話ししたけど、当たり前に一生懸命商売やってきたところもこのコロナで崩れた。みんな大変だ。それでもね、チーナンはこうして当たり前に暖簾下げて商売できて、こんなに幸せないことはないよ。ある人は、コロナ、5年では収束しないっていうしね。それでも経済回さないといけない。だがら。お姉さんたちもサプリ飲んだりして元気つけてやってんの。そういえばリケンちゃん、あんた、足どうした?」

うっ、あっ、足! そうなのだ。前に店を訪れたとき、ぼくは両足のふくらはぎにサポーターをしていた。座り仕事が多くて、ふくらはぎがどうにも突っ張り、夜寝てるときに足がつったりする。で、その黒いサポーターをしてたぼくをみて、ケイさんは、あんた、マグネシウムだ。わだしらも立ち仕事だけど、マグネシウム飲んでっから疲れ知らずなんだと勧められていたのだった。

そうして母ちゃんたちはいつも、客の体調や、商売や、いろいろを気にかけている。こないだも、書く仕事ってのは大変で、ぼくなんて世の作家に比べたらカスみたいなもんですよーとぼやいたら、リケンちゃん、何言ってんだ、あんたはすばらしい作家だ。自分に自信もぢな、ケイが太鼓判押してやっからと励ましてくれた。うれしかった。そうしていつも元気をもらって、よーし、やってみっかーって、ラーメンのカロリーを文字に変えてきたのだ。チーナンが愛されているのは、復興のシンボルだからというより、母ちゃんたちが、ずっとずっと、もう何十年も、お客に無償の愛を手渡してきたからだろう。

話は続く。ケイさんが、いつになく、感情を込めて話をする。「コロナごときで参ってたまるか」。そう言って目をキリッと見開いて、なにか噛みしめるようにして話を続ける。

「コロナごときで参ってたまるか。お姉さんたちは、まだ厨房だからいいの。手洗いして、水使って、洗剤も使って、店の中は湿気もあるし、感染リスクも低いから。夏なんてなんだもねえよ、蒸し風呂だぁ。でも、蒸し風呂も楽しみながら、夏でねっか味わえねえぞって、湿気もあって顔も潤うし、最高だって、楽しんでやってるの。でもねえリケンちゃん、テレビ見て、何十年って商売やってきた人が、店を閉じる、暖簾下ろすなんてのを見るとね、なじょにしてコロナってこんな商売殺すんだって、心臓いだくなる。涙こぼれっちまあよほんとに。だからね、リケンちゃん、コロナごときで負けでらんねえ。元気でいないと。まずは免疫だよ」

すかさずノブさんも続ける。「んだよ、免疫だ。マグネシウムもいいけどケイ素も溶かして飲みな。ケイ、リケンちゃんに、ケイ素の粉も出してやりな、うぢさあっから」

そのあとふたりは、それでもなお商売続けられることが幸せ、だからお客さまに感謝だ、お店をちゃんと残してくれた先代に感謝だと、繰り返し感謝を口にした。気づくと2時間くらい経過していただろうか。最後は、ぼくの娘の話と、首のコリを和らげるのに効果のある磁気ネックレスの話をし、そして、近いうちにラーメンついでにマグネシウム取りに来ますねと声をかけ、ぼくは店を出た。

ぼくは、震災10年どうですかって話を聞きに行き、ほとんど自分の期待する返答をもらえないまま、しかし、マグネシウムとケイ素をゲットした。ぼくの思惑は外れ、取材に失敗したわけだ。ぼくは、ずっとその意味を考えている。

ぼくらは、こうして取材をするとき、なにかの思惑を持って人に接することが多い。たとえばこの3月なら、目の前の人を「被災者」として捉え、「10年」という期間で区切る。そうすることで、目の前の状況を理解しやすくしようとする。ケイさんとノブさんを「被災地のラーメン店の肝っ玉かあちゃん」に当てはめればストーリーも簡単に仕上がる。もしかすると、そのほうが、より遠くに、震災の傷跡や復興の現状を伝えるのに一役買うのかもしれない。被災者ばかりではあるまい。「障害者」とか「外国人」とか、「認知症」とか「発達障害」とかもそうだろう。そうしてカテゴライズしたほうがわかったつもりになれて、安心できる。

けれども、そんなぼくの思惑を、ケイさんもノブさんも、軽々と、するっと超えていってしまう。震災の話をしていたらコロナの話になり、突如としてサプリや健康の話になったかと思えば、商売の話、人情の話、歴史の話にも広がる。それらはみな、ケイさんとノブさんのなかで力強く、どれも切り離されることなく存在している。30分や1時間の取材で聞けることなんて、その人の一部の一部の、その端っこでしかない。それなのに、どれかひとつだけを引き剥がして、その引き剥がした一部だけを使って、こちらの都合でその人をつくりあげてしまう。それは全くもって「暴力」と言える所業だろう。

じつは取材中、ぼくは取材を諦めた。ふたりの圧倒的な話に、こりゃあ無理だ。取材なんて、そんな生易しいもんじゃないわって。それで、時間の許すかぎり、ただ普通におしゃべりをした。いやおしゃべりと取材のあいだ、と言ったほうがいいだろうか。「取材をする/される」という関係に押しとどめるのが失礼になるような気がしたのだ。それで、できるだけ対等になろうとし、おしゃべりのような時間を作ってしまった。その意味で、ぼくは記者失格かもしれないし、取材にも失敗したと言えるだろう。手元には、充実した取材メモ、ではなく、マグネシウムとケイ素の粉末があるだけなのだから。

でも、このマグネシウムとケイ素の粉末には「健康食品」以外の意味があるはずだとも思う。なぜふたりは、ぼくにマグネシウムとケイ素を渡してくれたのか。しばし考え、当たり前のことに気づいてハッとした。

ふたりは、それでもなお店に立つために、体にいいと聞けばなんでも試してきたということではないのか。慌てて録音データを聞き直してみると、ケイさんもノブさんも、一時期、狭い厨房で体が触れ合うだけで声が出てしまうほど、肩や肘、足などの痛みに悩んでいたと話をしていた。ある時期は、足の攣りにも悩まされてきたという。それでも、人からこれが良いと聞けば試し、これが効くと教えてもらえれば、とりあえずそれも試して店を続けてきた。そうして今年71歳になるふたりは、仕込みの始まる朝7時から夕方5時まで。客がいれば帰る時間まで鍋を振るう。

震災にも、そしてコロナにも直接関わりがない日常的な話だから(つまりネタにはなるまいと思い込んでいたから)、危うく聞き流すところだったけれど、単純に考えて、ふたりとも無傷なはずがない。それでもなお店に立ち、のれんを掲げ、お客さんに愛情たっぷりの食事を提供し、元気げ? がんばりなよ! と声をかけ続けるための試行錯誤の象徴、つまり、お客を大切に思う気持ちの象徴が、このマグネシウムなのではないか。

そして、このぼくを、ひとりの同業者、自分のつくったものでだれかを喜ばせ、勇気づけ、それで対価を得る、そういう職人の仲間として気にかけてくれているからこそ、ぼくにマグネシウムを渡してくれたのではないか。そう思うに至り、ああ、ぼくは記者としても、職業人、社会人としても甘かったなと気づかされた。

今朝もマグネシウムを飲んできた。飲むたびに、ケイさんとノブさんの顔が思い浮かぶ。あんたはすばらしい作家だ、自信を持てと言われたことも思い出す。そして同時に、このマグネシウムは、小名浜の人の顔や景色を想起するスイッチにもなった。その記憶のなかで、震災も、3月11日も、生きていけばいい。

マグネシウムが、ぼくのふくらはぎの張りに効果があったかは、もう少し時間をかけてみないとわからなそうだ。効いてるような気もするし、変わらないような気もする。いや、それ以上に、このマグネシウムは、人間の、人生の、震災の、その複雑さ、しまらなさを教えてくれる象徴のような存在になった。この本を書き終えるまで、長い付き合いになりそうだ。


チーナンと共にある港町

(本文中、バナー写真すべて:著者/バナーデザイン:渋井史生 PANKEY inc.)

(つづく)