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連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

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「被災地」であり、「被災地」でなかった双葉高校で

2023年10月22日 公開

「被災者」はだれがつくるのか。

  被災者は、いったいだれがつくるのだろう。

  おかしな問いであると自分でもわかっている。被災者は当然、災害がつくるものだ。ある災害の被害を受けた人が字義どおり「被災者」であることなどぼくにもわかる。けれど、この被災者という言葉は、とりわけ自分を「非被災者」の立場に置くとき、被災した地域に暮らす人たち個人の考えや思い、立場や自意識をすり抜け、一方的に、そしてたった一色に塗り替えてしまう言葉にもなってしまうと感じる。

 どういうことだろう。たとえば、目の前に東日本大震災の被害を受けたという人がいるとしよう。ぼくたちは、心のどこかで、目の前の人と自分の状況を比較するはずだ。そして、相手の方が甚大な被害を受けている、と気づいた瞬間から、自分たちを被災者ではない側に位置付けるのではないだろうか。あるいは、自分の「そのとき被災地にいなかった」という経歴を引っ張り出して、「私はあのときに被災していないので」という立場を強く意識するだろう。そして、目の前の人が辛い思いをしている被災者だと思うからこそ、よかれと思って、同情や憐憫の視線を相手に向け、「さぞかし悲しい経験をしたんだろうな」「きっと震災や原発事故に強い怒りを覚えているはずだ」などと思ってしまう。

 もちろん、そうであるからこそ、支援したい、協力したいと考えるようになる……のだと思うのだけれど、目の前の人を「被災者」だと定義すればするほど、自分は「非当事者」になるし、目の前の人たちの立場を「支援が必要な人」や「悲劇の登場人物」にしてしまう。「被災」にもいろいろあるし、その人が持つ課題や悩みも複雑だ。あるいは、もしかしたら自分も被災していたかもしれないし、自分も当事者だと言えるのかもしれないのに、ぼくたちは、そうやって自分と比較することで「被災者」をつくり出す。冒頭の問いに答えるならば、被災者をつくるのは、ぼくでもあるということだ。


建物の壁画で町を元気づけようというFUTABA Art Districtの作品があちこちに描かれている

 2022年11月。ぼくは、ある新聞社の若い社員を連れて、双葉郡双葉町にある福島県立双葉高校を訪れていた。福島県内で起きている複雑な問題を新聞社の若手社員とともに考えるという2泊3日の研修ツアーのコースに、この双葉高校の視察が組み込まれていたのだ。

 双葉高校は、2011年3月の原発事故以来、「休校」が続いている。12年にわたり無人であることそれ自体が原発事故の被害を雄弁に語る場所だ。ぼくも、過去に二度ほど入ったことがある。だから、内部がどのような状況にあるかも、ある程度知っていた。ある教室の黒板には、当時の3年生が書いたメッセージがそのまま残されていたし、廊下のあちこちに、乾き果てて葉脈だけが白く残された観葉植物が置いてあった。深いヒビが入った廊下や、合板で簡易的に補修した通路、平成23年の色あせた印刷物、部室に投げ捨てられたスニーカーやシューズなどの光景は、今でも脳裏に焼きついている。言うなれば、「3月11日14時46分がそのまま保存され、かつそのまま風化している」というような状態だった。

 震災から丸12年を迎えようといういま、まちの復興もじわじわと進み、ようやく、双葉駅前や伝承館のそばなどの再開発が進んできた。逆に言えば、震災時そのままの状況を伝えられる場所は少なくなっている。その意味で双葉高校は、(敢えて言葉にすれば)双葉郡内でもっとも力のある震災遺構であるようにぼくには思えた。それで、その新聞社からツアーガイドを依頼されたとき、真っ先に双葉高校の視察を提案したのだった。東京でメディアに関わる人たちの目に、この高校の現状を焼き付けもらいたい。そんな個人的な思いもあった。


双葉駅のそばには新しく造成された住宅地が完成した


双葉町の新しいシンボルとしてたくさんの来場者が訪れている東日本大震災・原子力災害伝承館

 当日のガイドは、ぼくひとりではなかった。ぼくは双葉町からは距離のあるいわき市の出身であり、双葉町の震災前の姿をほとんど知らない。そこで、双葉郡内で活動する一般社団法人AFWの吉川彰浩さんにガイドをお願いし、JR双葉駅から双葉高校まで歩いてガイドしてもらうことにした。吉川さんは、かつて東京電力の社員として双葉町に暮らしていて、震災後はさまざまな地域活動に関わってきた。震災前の表情も含めてガイドしてくれるはずだと考えたのだ。

 ガイド選びの「幸運」はさらに続いた。新聞社の研修担当者が自治体に連絡してみると、双葉高校のOB・OGが校内を案内してくれることになった。中には、震災後初めて双葉高校を訪れる人もいるという。しかも、そのOGは、震災当時、双葉高校の3年生だったそうだ。震災の日までその校舎に通い、被災し、放射能から逃れてふるさとを離れ、いまこうして11年ぶりに母校に足を踏み入れる人たちの案内で双葉高校を視察できる。こんな貴重な体験はそうそうないだろう。もしぼくが現役の記者だったら、確実にカメラを持ち込み、土下座してでもOB・OGの表情や言葉を記録し、この日の模様を記事にしたいと懇願していたはずだ。そのくらいあり得ない状況で、この日の視察は行われた。

 まずは吉川さんのガイドで双葉駅前から双葉高校までを歩く。駅前の一部分はきれいに整備されているものの、商店街に立ち並ぶ店は、ほとんどが震災当時のまま、いやかなり損壊した状態だったように思う。一部の建物は風化が進み、崩れ落ちてしまっている。駅前のある居酒屋の前で吉川さんはふと立ち止まった。吉川さんの奥さんの叔母さんがやっていた店だそうだ。

「仕事でなんかあると朝まで飲んでましたよ、ここで。会社の愚痴を言ったりしても、常連さんに慰めてもらったりして、いつもバカ騒ぎしてました。ウチの奥さんともここで出会ったんです」。

 吉川さんは、懐かしそうに、しかしどこか悔しそうに語った。事故がどうこうとか、東電の責任がどうこうとか、そういうことはほとんど話さない。語ってくれたことは、このまちでどんな暮らしをしてきたのか、ということだった。そして、この店が解体されずに残っている理由を、こう教えてくれた。

「おばさんもこの店に愛着があるし、解体しちゃったら自分たちがやってきたことまで崩れてしまうような感覚になるようで、解体の踏ん切りがつかないみたいです。放置したくてしてるわけじゃないんです」。

 放置したくてしているわけではない。その言葉が刺さる。ぼくたちは、双葉町が原発事故に見舞われ、町のほとんどが「帰還困難区域」だったことを既に知っている。大変な時間を過ごしてきた地域であることも知っている。だからこそ、悲しみを感じながらも、その悲劇を忘れてはいけないと自分に言い聞かせながら、「廃墟」が「放置されている」さまを写真に撮る。この場所の被災の状況を、いかにも被災地らしく撮影するのはぼくたちのほうなのだ。だが、被災地らしい表情を撮影するほど、この地は被災地のイメージを上塗りされてしまう。この地を被災地にし続けているのは、震災そのものか。あるいはぼくたちなのか。

 けれど、だからと言ってこのまちが「無傷」で「何事もなかった」と考えることもできない。事実として福島第一原子力発電所の建屋は爆発し、大量の放射性物質が飛散してこの地に降り積もり、原発に隣接する双葉町には、長い間、人が居住することができなくなった。この地は紛れもなく被災地であり、大きな傷を負ったのだ。被災地である双葉、被災地でなかった双葉。悲しいくらいはっきりとした光と影とが、この駅前通りで交差していた。

 ぼくのそばを歩いていた新聞社の若い社員たちは、まじめな表情で吉川さんのガイドに耳を傾け、カメラでその様を押さえていた。同行したベテランの社員たちは、うーん、まだまだひどいですね、というようなことを口走りながら、主人が戻らないまま朽ちかている建物の写真を撮っていた。


この通りも、ようやく解体作業が進んできた