第3回
小名浜の中華屋で想像する「複数ある世界」
2023年9月26日 公開
ラム肉を貪り、遊牧民を想う
ジョッキ片手にラム肉を貪り食う男が、2人。小名浜の町場のジンギスカン屋である。数年前にできた比較的新しい店で、「ジンギスカン屋」というより「ラム肉グリルのお店」というべきだろうか。店の中のスピーカーからは小粋なジャズが流れているが、その調べは、男たちが肉を焼く音でかき消され弱々しい。さらに、そのじゅうじゅういう音に負けるまいと、男たちが声を張って大声で話すものだから、その卓だけ、おしゃれな店の雰囲気が台無しになっていた。週末のグリルタイムではない。まるで西域の遊牧民の宴のような謎の熱が、その席から放たれていた。
港町で知られる小名浜で、なぜ羊の肉を? ぼくとその男、江尻浩二郎さんとの共通点が「羊肉」だったからだ。ぼくも江尻さんも、なぜかふたりとも中央アジアの遊牧の民に惹かれ、現地で一定の期間を過ごしたことがある。ぼくは中国のウイグル。江尻さんはさらにその西のキルギス。つまり、ぼくと江尻さんには「かつて西域で羊の肉をよく食べた」という共通点があったのだ。それで会うたびに「いつか羊食いましょうね」という話をしていたのだが、それがこの日の宴である。まさか小名浜でラムが食えるとは!
羊の肉を食べると20歳のときに旅したシルクロードを思い出す。といっても、ぼくの旅はシルクロードという言葉の放つ「グレイトジャーニー感」とはほど遠くて、中国の新疆ウイグル自治区のトルファンという街から、甘粛省、四川省あたりまでをバスを使って半月ほど旅したという程度。冒険家のような壮大な旅ではもちろんない。それでも、あの異国情緒たっぷりの西域の旅は、ハタチになったばかりの小松青年の心に、その後の一生を変えるような、とても大きな思い出を残してくれた。
ウイグル人たちは遊牧の民だ。羊をとても大切にし、そしてまたよくそれを食する。思い出すのは、旅行中のある日の朝、ホテルのそばのバザールで食べた「羊肉串(ヤンロウチュワン)」である。羊が何十頭と取引されるバザールの脇で、彫りの深い顔をした男女が、串刺しにされた羊の肉や臓物を黙々と焼いていた。クミンやら山椒やらが大量に振りかけられている。もくもくと立ち上る怪しい煙の芳香に一瞬で魅了され、貪るようにして食べたのを思い出すと、今でも口の中によだれが出てくる。
あそこで食った羊の肉は、いま目の前で焼いているラム肉のように柔らかくはなかったし、内臓はとくに獣の匂いが強くて、大量の香辛料が振りかかっていなければ最後まで食えなかったかもしれない。けれどもぼくは心底うまいと感じた。その「うまい」は、塩加減とか脂身とか、旨味や酸味のバランスみたいな理論を超えたところにあった。そういう「うまい」があることを、ウイグル人たちはたった一串でぼくに教えてくれたのだ。あの時以来、ぼくにとって羊肉は「未知の味」「自分を広げてくれる味」のようなものとして記憶されている。そう、ぼくにとって羊の肉とは新世界そのもの。江尻さんと食うのに、これほど適した食材はない。
相対する江尻さんもまた、羊肉をこよなく愛する同志だ。江尻さんはぼくと同じ小名浜の出身であり、かつて中央アジアのキルギスで2年ほど過ごした経歴を持つ。キルギスの国際機関に職を得て、さまざまな異文化理解イベントを企画運営したり、演劇や和太鼓の指導をしたりしていたそうだ。キルギスでの暮らしは、もともと遊牧民に興味を持っていた江尻さんの肌に合い、こちらに帰ってくるつもりはまったくなかったという。転機は東日本大震災。契約の切れ目で帰国したときに地元の惨状を目にし、「この先の人生、海外からずっと福島のニュースを見続けるのは耐えられない」と帰郷を決めた。
江尻さんと出会ったのはいつだったか……。もはやはっきりと思い出せない。2013年ごろだろうか。当時のぼくは、それこそアドレナリンが出っぱなしみたいなハイテンションな日々を送り、震災後に構えた「UDOK」というスペースで毎週のようにイベントを開いていた。江尻さんは、最初はたしか手伝いかなにかで来てくれたんじゃなかったか。それで距離が縮まり、自然と酒を飲む関係になった。
江尻さんはぼくより10歳近く年上のはずだが、イベントの準備ではだれよりもキビキビ動き、また別のイベントでは徹底的にリサーチを進める。そして、仲間のだれよりも地元の歴史や民俗芸能に詳しい。江尻さんにはかつて演出家をしていた時期があり、映画や演劇、お笑いなどにも謎に造詣が深い。本業は、市内の大学で留学生たちに日本語と日本文化を教える大学職員兼教員だが、その傍らで地元高校の演劇部の手伝いをしたり、民俗芸能のリサーチをしたりしていて、「肩書き」というものが当てはまらない人だ。ぼくにとっては、少し年の離れた友人であり、頼れる小名浜のアニキであり、博覧強記の地域研究家であり、西域に心を寄せる同志でもある。
柔らかいラム肉を頬張りながら、江尻さんにいちばん好きな羊肉料理を聞いた。これまで食べたなかでいちばんうまかったのは「クールダック」という料理だそうだ。スマホで「クールダック キルギス」と調べてみると「羊の肉とじゃがいもを炒めて玉ねぎのスライスを添えた料理」と書いてあるのが見つかった。
「ただのクールダックじゃねーんすよ。タラスのクールダックなんです。野菜なんてなくて、ただただ羊の肉。皮つきでちょこちょこ毛が残ってたりして。一人前がすんごい量でアツアツの鉄板にのってくるんですけど、連れてってくれたタラスの母ちゃんたちがみんなペロっと平らげちまうんですよね。いやあ、しびれました。『いいか、ビシュケクのなんかクールダックじゃねえ。これが正真正銘のクールダックなんだ』って。あれはうまかった。リケンさんにも食わしたいですよ、タラスのクールダック」
ビシュケク(キルギスの首都)とかタラス(キルギス北西部の都市で英雄マナスゆかりの土地として知られる)なんて言葉が出てきても、ほとんどの人にはわからないと思うけれど、まあとにかくキルギスの話をしているときの江尻さんは、ほんとうにいい顔をするのだった。じつはほんとうにキルギスの人なのではと思えてくるくらいだ。
高校時代まではバレーボール部だった江尻さん。身長は180センチほどあるだろうか、大変ガタイがいい。肌は色白で、笑うと目尻が下がる。瞳の色は薄茶色。子どもの頃は髪の毛も茶色で、本当に外国にルーツがあったのではないかと自分でも思っていたという。声も低く適度にヒゲも濃いので、ハンチング帽などをかぶると、思わずウイグルで出会った遊牧民を思い出してしまう。ぼくは、そんな江尻さんのキルギス話を聞くのが好きだ。なんとなく、懐かしいような、どこか自分にも似たような匂いがするからだろう。
「昔っから遊牧民には変に興味があったんですよね。中学校のときだったか、社会の資料集に、馬で隊列組んで草原を移動してる遊牧民の写真が載ってたんですけど、特に興奮するでもなく自然に、『あ、オレここにいたことがある。こっから来たわ』って思って。それから遊牧民的な考え方や価値観を少しずつ知るようになって、ものすごく共感しました。持たない思想というか。遊牧民って移動する時に馬に載せられるものまでしか持たないでしょう? あとは身に着けるものだけ。フビライなんて、あれだけ巨大な帝国作ったのに建物とかなんにも残してない」
たしかに。遊牧民は、家そのものが移動できるタイプだし(そうそうゲル!)。草さえあれば家畜がそれを食み、数が増えて、そこから得るもので暮らすことができる。大切なのはまず草地だ。荘厳な建物を作っても役に立たん、と考えるのも自然だろう。
「それで、最初はベタにモンゴル行きたいって思ってたんです。でもほら、オレが大学生の頃って椎名誠がモンゴルに行ってメディアでもモンゴルが流行ってたから、なんか行きづらいなあと。結局そのときはスーパーカブで日本を全部回っちゃったんですけど、だいぶ後になって、やっぱり価値観が通じない他者がいるところに行きたいなって思って。それで、イスラム圏いいな、旧ソ連圏いいな、遊牧民は外せねえしって地図をにらんでたら最後に残ったのがあのあたりで。そしてキルギスは中央アジア最貧国だということだったんで、もしかしたら昔ながらの暮らしや価値観が残ってるんじゃないかと」
江尻さんの話はいつもこんな感じで、情報量が多く、飛躍がある。歴史上の人物や地名が頻繁に、しかも予告なしに出てくるし、何千年という時間、何千キロという距離をひょいと超えて話が展開されていくのだ。そして、そこに突拍子もないエピソードも挟まれる。さらっと「スーパーカブで日本を全部回っちゃった」と話してるけど、「なんなんですか!」と言いたくなる。
江尻さんは23歳から10年ほどかけて、ホンダの名車「スーパーカブ」で全国各地を巡ったという。アルプスの山村も、離島も、首都圏も、全国津々浦々ことごとく、平成大合併前の当時の全市町村を踏破したそうだ。手持ちの金がなくなったらそこで働き、暮らし、あるいは恋をしながら、ときに演劇を作ったり、地元の伝統行事に参加させてもらったり、ということを続けてきたらしい。その先にキルギスもある。冒険家かなにかだろうか……?
「結局日本中まわったけど、まだまだ自分とは違う生活をしてたり、自分とは違う見方で世界を捉えてる人のことが知りたいって思ったんすよ。日本回ったけど、ここのメインストリームは圧倒的に農耕民族でしょう。それでやっぱり遊牧民のことが気になって、それでキルギス行こうと思ったんです」