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連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

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「災間の民」として生きる

2024年1月29日 公開

かつて砂浜だった工場の前で

 元日の朝は、いつも同じ場所で太陽を拝む。小名浜の東にある永崎海岸の端、「八大龍王尊」と書かれた石碑のところだ。何十年も前、若いころの父がここの岸壁の工事を担当したらしい。車を運転するのは父だったから、思い入れがあって、かつ、そんなに人が集まらないところを父が適当に選んだのだろう。気づけばいつの間にか、小松家の初日の出はこの石碑のところ、ということになった。今年(2024年)の元日も、家族みんなでそこを訪れて、1年の無病息災をお祈りした。両親、兄、妻、そして娘と愛犬。変わらないメンツで元旦を迎えられることがなんともうれしい。

 昔の話だけどさ、元日の朝になるとこの道、暴走族の車とかバイクとかですごい行列になってたんだよと娘に言っても、娘はなんのことかさっぱり想像もつかないようだった。ぼくが中学生だった1993年くらいまで、特攻服に身を包んだ若者が何十台という車を連ねて、この海岸沿いで「元旦集会」をしていた。彼らの車の車高はどこまでも低く、改造したバイクのライトの位置はどこまでも高い。みんなが「オレはここにいるぞ」と存在を誇示するように音を鳴らし、ジグザグにハンドルを回してたっけ。こんなに静かに元日の朝を迎えられることなんて、あのころは珍しかった。震災後にできた防潮堤を見ながら、あの頃の元旦の「狂騒」を思い出す。


八大龍王尊の石碑の周囲から初日の出を見守る人たち

 

 今年は水平線沿いに分厚い雲があって、ジャストタイミングで朝日は拝めなかった。適当な時間に切り上げ、小名浜の内陸、南富岡というところにある鹿島神社へと向かった。かつて暴走族たちが元旦集会をしていた海沿いの道は、路肩沿いに容赦なく停めてしまう地元民のせいで渋滞している。小名浜のまちなかを経由して、いつもよりまったりと永崎から南富岡へ。元日にしか通らないルートだ。

 鹿島神社には、物心ついたときから通っている。自宅から車で5分くらい、歩くと20分くらいのところにある。七五三も、家の工事の地鎮祭も、神棚のお札を頼むのも鹿島神社。当たり前にそこにある存在だった。だから、あまり神社の歴史や由来を調べたりもしなかったんだけど、じつはその昔、鹿島神社はうちから徒歩2分くらいの「超ご近所」にあったことを、だいぶ前に父から教えてもらっていた。農家だった小松家は代々この鹿島神社を氏神さまとし、そりゃあもう大切にお付き合いしてきたそうだ。

 ぼくの家は、小名浜の「松の中」という地区にある。松の中の周囲には、鳥居北、鳥居下、宮下、燈籠原という意味ありげな地名が残っていて、ぼくが通っていた小名浜第二小学校にも「西鹿島」と「東鹿島」という学区が昔からあった。ぼくが生まれた1979年時点で、鹿島神社はすでにいまの場所に移ったあとだったから、なんで神社から遠いのに自分の学区は「西鹿島」なんだろうと不思議に思ってたけど、ぼくの家は鹿島神社のお膝元だったのだ。


宮下という地名から、かつてこのそばに神社があったことがわかる

 いや、神社のご近所だっただけじゃなく、昔は、家から走って数分のところに砂浜もあったという。海沿いには何百本という黒松が生えていたというから、このあたりはそこそこ風光明媚なところだったんじゃないか。その一角に、ぼくの家と鹿島神社もあった。だが、後の時代になって砂浜が埋め立てられ、「日本水素工業小名浜工場」という大きな工場ができた。さらに、トラックが行き来できるようにと片側2車線の幅の広い産業道路も敷設された。神社は、どうもそのあおりを受けて現在の場所に移設されたようだ。そのあとにぼくは生まれた。松の中という「工場街」に。


自宅そばの産業道路。この道路を作るために神社が動かされた

 地域に必要とされた神社よりも、美しい砂浜を維持することよりも、工場誘致が優先されてしまう。その歴史を知ったときには、オレたちの祖先はなんてことをするんだと思ったけど、きっとそれが時代の要請だったのだろう。工場ができたことで雇用が生まれ、経済が活性化されてこの地も多少は豊かになったのかもしれない。うちのばあちゃんも工場に勤めていたというし。

 いやあ、でもなあ、と正月は思う。だって、もしかしたら、朝起きたらまだ暗いうちに砂浜に歩いていって、ひんやりとした風を堪能しながら初の日の出を拝んで、その足で歩いて鹿島神社に行って初詣をしてたかもしれないってことでしょ? と、ぼくはあり得たかもしれない風景を夢想する。


お正月の鹿島神社の賑わい。ぼくが小さい頃はもっとすごかった


初詣のあと、おみくじを枝にくくりつける娘

 今年は、というか毎年そうなのだけれど、初詣のあとはすぐに家に帰って、毎年恒例のニューイヤー駅伝を見ながら雑煮タイムと決めている。ここ数年は、新潟県加茂市出身の妻、つるちゃん(旧姓が「鶴巻」なのでそう呼ばれている)による「のっぺ」が振る舞われる。のっぺは新潟県の郷土料理だ。味付けはぼくからすると繊細だが、細かく切られた野菜がたっぷりと入っていて、いくらを乗せて食うことになっている。味付けが繊細なぶん、食材本来の旨みが感じられるし、曹洞宗の寺の娘であったつるちゃんの几帳面さが味にも出ている。

 のっぺを食ったあと、腹をさすりながら自宅の隣にある母屋に向かい、うちの母ちゃんがつくった雑煮も食べた。こちらはのっぺのように品がよくない。麺つゆと醤油で適当に味つけされただけだが、鶏肉やらネギやら大根やらの具材がみっちり入っていて、ここに餅をいくつかぶち込み、ミツバを乗せ、七味唐辛子をがっつりかけて食うのである。

 母方の祖母は会津の出身だから、自分の料理はその影響を受けているはずだと本人は語るが、これが会津? ぼくと兄、さらには父、男三人の胃袋を満たすために進化し、会津由来の味はだんだんと母ちゃん独自の味へとシフトしてきたのだろう。そして、そういう味つけをうまいと感じるようにぼくたちは育てられた。正月の食卓は、さまざまななふるさとの味が交錯する。

 たまたま食卓の上に乗っかっていたので、かまぼこ、厚切りハム、そして「数の子青豆」を肴に酒を飲んだ。中盤にさしかかったニューイヤー駅伝を適当に眺めながら、家族でああだこうだと新年の抱負を語り合う時間。これも正月の風物詩。妻と娘はそんなぼくを差し置いてイオンモールの初売りに出かけるという。満腹になったぼくは家に帰ってしばらく昼寝をすることにした。

 目が覚めると3時ごろになっていた。いやあ、元日っていうのは、自分と地域の結びつきとか、ご先祖の存在を強く感じずにいられないなあ、あれ、そういえば、駅伝はどこが優勝したんだろう、なんてことを考えながら布団から出て、届いた年賀状を見ていたら妻と娘が初売りから帰ってきた。福袋でなにか当たったらしく、娘はテンションが高い。しばらくそれに付き合ったあと、ぼくたちは犬を連れて早めの散歩に出かけた。日が暮れたら、またご馳走に箸を伸ばしながら、今年の抱負を語り合わなくちゃいけないし。

 自宅から車で5分くらいのところにある「ららミュウ」(観光物産館「いわき・ら・ら・ミュウ」)の前まで歩き、他のワン友さんたちと「今年もよろしくお願いします」なんておしゃべりをしたあとだった。妻が血相を変えて「北陸ですごい地震が起きたみたい。さっきここも揺れたけど感じなかった?」と駆け寄ってきた。ぼくは外で犬を連れて歩いていたから気づかなかったけど、館内はそこそこ揺れたようだ。すぐにスマホでSNSを開いてみると、「最大震度7」という報道機関の速報が流れていた。震源は能登半島の沖。津波も予想されていた。妻が新潟の実家に連絡をとったところ、いくつか棚に置いた仏像が横に倒れたくらいで被害はなかったそうだが、けっこう揺れたらしい。

 急いで散歩を済ませ、帰宅してNHKをつけると、大津波警報を伝えるアナウンサーが「今すぐ逃げてください」と避難を呼びかけていた。その声の張り方、強い声の調子に、ただ事でないことはすぐにわかった。おまけに10分に一度くらいのハイペースで緊急地震速報が流れてくる。時刻は夕方5時をとうに過ぎている。定点カメラの映像は暗くなっていて、現地からの情報がほとんど入ってこない。かといって、また酒盛りを始めるわけにもいかず、ただただ非常事態を告げるテレビに張り付きながら、のっぺを食べることしかできなかった。ぼくは、「テレビに張り付くことしかできない状況」に、13年近く前の自分を重ね合わせる。なんという正月だろう。