第4回
原発の処理水と海辺の街の生業
2023年10月9日 公開
海の匂いのする「工場街」
霧の出た朝、新聞受けに朝刊を取りにいくとき。もやっとする日の夕方、残業を終えて自転車で家に帰るとき。ふと、磯の匂いが漂ってくることがある。
その匂いは、切なく淡い夏休みの思い出の中にある……ようなものではない。砂浜に打ち上げられたよくわからない海藻の山から漂ってくるような磯臭さと、住宅地に点在する「みりん干し工場」から漂ってくる生魚臭さをかき混ぜたような、そう、まさに「小名浜の海の匂い」としか言いようのないもの。その匂いを嗅ぐと、ああ、これがオレの地元の匂いなんだよなあとしみじみ思う。霧の出ている朝などは、港から「ぽー」っと警笛が聞こえてくるのだが、そんなときはいつになく、小名浜に暮らしている自分のことを誇らしく思えるのだった。
ぼくの家は、小名浜の松之中というところにある。家のそばは、いまでこそ巨大な工場がいくつも立ち並ぶ臨海工業団地の一部になっているが、父が子どものころは今ほどは整備されておらず、小名浜海水浴場の砂浜が広がっていたそうだ。その砂浜の端にはクロマツが群生しており、それでこの地が「松之中」という地名になったらしい。小松家は、小名浜海水浴場の目と鼻の先にあったこの地に代々家を構えた。だからこそ、不意にやってくる「小名浜臭」は、まだ家の前に砂浜があった時代の風景をぼくに想像させる。
サンダルを履いて玄関から飛び出す。浜のほうへダッシュするとクロマツ林があって、目の前の堤防の先に美しい砂浜と太平洋が広がっている。小さな漁船からは新鮮な魚たちが次々に水揚げされ、近所の加工場では、干物やらかまぼこやら加工品がつくられて、日々食卓に並ぶ。この工業団地がなかったら、そんな港町らしい暮らしを、ぼくも体験できたのだろうか。
海の匂いは漂ってくるのに、家の前にあるのは海ではなく工場だった……。そんな地域で育ったからか、海への憧れは余計に強くなった。震災と原発事故で風景が一変してしまったことへの喪失感も強かったし、震災後、かまぼこメーカーに勤めたり、魚の放射線量を調べる海洋調査プロジェクトに関わったり、友人の鮮魚店で食のイベントを開くようになったりしたのも、もしかしたら、海の匂いのする「工場街」で育ったコンプレックスの裏返しだったのかもしれない。
それにしても、よくここまで復興したなと思う。2011年当時は、小名浜港に水揚げされる魚はもう食えないんじゃないかとすら思った。初水揚げされたカツオが上野のアメ横で「捨て値」で叩き売られていたと聞いたときには、風評のもたらす経済的被害の大きさを悟った。あれから時間は経過したが、漁業の復興は道半ば。この原稿を書いている2022年9月の時点で、福島県内の魚の水揚げ量は、震災前の2割程度にしか戻っていない。この数年、その「2割」からなかなか増えないままだ。
それでも、ぼくはこの小名浜の海に、港に、ずっと勇気づけられてきた。それに、以前よりも海との距離が近づいた気がするのだ。震災前よりも頻繁に魚を食べるにようになったし、海に遊びに出かける機会も増えた。港の人たち、食に関わる人たちに仕事で関わることも増えた。震災前より、ぼくは、小名浜の海に強い愛着を覚えるようになっていた。
一方、活気を取り戻したようにも見える港町はこの数年、福島第一原発に溜まり続けている処理水の問題に悩まされている。
(この文章は2022年9月に書いたものだ。公開されるタイミングから見るとほぼ1年前の原稿ということになる。ちょうど、福島第一原発の処理水の放出が決定され、関係者をモヤモヤとさせていた時期だ。現在は多くの報道で知られている通り、処理水は粛々と放出され、基準値を超えるような放射性物質が検出されることも、福島県産の海産物の価格が下落するような状況も起きてはいない。だが、当時の、なんともいえない重苦しい空気を、ぼくは書き残しておきたいと思った。ああいう状況になったからこそ、生業とはなにか、港の人たちの尊厳とはなにか、というようなことが見えてくると思うからだ。)
「処理水の話は、もういいべ」
ふらっと訪れた鮮魚店の親方からそんな言葉が出てきたのは、去年(2021年)の夏ごろだったか。その年の春、菅総理大臣(当時)が閣僚会議で「海洋放出が現実的と判断した」と宣言した。「2年後をめどに」と具体的な時期まで言及したことがきっかけになり、しばらく様子見だったメディアが一斉に福島県内の港町を訪れ、毎日のように処理水をめぐる賛否の声を伝えるようになった。
親方の鮮魚店は、震災後も粘り強く商売を続け、刺身や干物の味が評価されてテレビなどにも何度か登場していたから、今回もおそらく取材の依頼があったはずだ。ただ、この問題でどれだけメディアに露出したところで、商品のよさをアピールすることはできないし、下手に言及してしまえば「賛成派」や「反対派」のように色分けされてしまうかもしれない。当事者であるがゆえに語りにくくなってしまう、そんな事情もあるのだろう。「親方、菅さん流すって決めちゃいましたね。取材の問い合わせとかお店にも来てるんじゃないですか?」と何気なく聞いたら、冒頭の一言が返ってきたのだった。
親方とは、これまでに何度か、処理水に関する話をしたことがあった。そのたびに、魚屋の立場から、こういう問題があるんじゃないか、この辺を改善してくれたらいいのになあと率直に話をしてくれた。けれど、それを何度ぼくに伝えたところで、メディアに語ったところで、ずっと状況は変わらず、事態は膠着したままだ。あえてネガティブなニュースに登場して語ったところでなにも変わるまい。そんな諦めや疲れもまた、親方から言葉を奪っていったのかもしれない。
原発事故がなければ、いわきの魚のうまさや、干物に込められたうまさの秘訣や目利きのポイントを、ちょっと照れくさそうに記者たちに語っていたはずだ。そしてきっと、子どもや孫たち、未来の世代の人たちにも、同じように、自分たちの商売の醍醐味を伝えていただろう。たぶんそうやって、いわきの漁師も水産業者も先代から家業を受け継いできた。
それが今では、自分たちの商売について語る言葉のどこかに、トゲが刺さっていたり、後ろめたさや、諦めや、過剰な忖度がついてまわる。ただ、その言葉の多くは、メディアを通じて語られることはない。こんなふうに日々の買い物のちょっとした会話の中にこそ、ふと立ち現れるものなのだろう。ぼくたちは今なお、原発時事故の長い長い被害の時間のなかにあるのだということを、親方の一言に感じずにいられなかった。