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連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

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若き作家と、常磐炭鉱の語り得ぬ念

2023年11月25日 公開

炭鉱からはじまったエネルギー供給地

どのまちにも、市の歌とか村の歌とか、オフィシャルな歌があると思う。たいていすごくダサくて、小学校のときにちょっと歌ったくらいであとは忘れてしまう類のものだけれど、なんかずっと頭の中に残ってて、ふとした瞬間に思い出してしまう……なんて歌が、あなたのまちにも多分あると思う。

ぼくの住むいわき市にも「いわき市歌」がある。昔はダセえなと思っていたのだが、だいぶ前にハワイアンアレンジのいわき市歌を聴いたときに衝撃を受け、「なんてすばらしいメロディなんだ」と感動して以来、妙にハマってしまい、家でも頻繁に口ずさむようになってしまった。風呂に入ったときはビブラートを効かせて何度も何度も歌うものだから、最初はうるさがっていた娘もいつの間にか覚えて一緒に大合唱するようになってしまった。

ちょ、待てよ、なんでハワイアンアレンジがあるんだよ! と驚く人もいると思うのでかいつまんで解説すると、いわき市にはもともと常磐炭田という大きな炭田があり、石炭産業が大変盛んな時代があった。その後、斜陽化して閉山が相次いだものの、ある炭鉱の敷地に「常磐ハワイアンセンター」という謎の保養施設が誕生。そのあと名前が変わって「スパリゾートハワイアンズ」となり、今なおいわきのシンボルであり続けているということを知っている読者は多いことだろう。いわき市は別名「東北のハワイ」。そういうわけで「ハワイアンアレンジ」なのだ。あの曲を聴いたのは、たしか2012年の復興祭だったはず。まあとにかく、いわきとハワイ、そして石炭の関係は切っても切れないものなのだ。

いわき市歌に、お気に入りのフレーズがある。2番の歌詞を紹介しよう。

若いまちいわき 花ひらくいわき

街ごとに光はあふれ

炭鉱(ルビ:やま)に工場に こだまする歌

ほほえむみのり いわき

ほほえむみのり いわき

みんなで呼ぼう 幸せをここに

曲は、日本を代表する指揮者であり、炎のマエストロとも呼ばれる小林研一郎(小名浜出身)が東京芸大時代に応募したものが採用されているという。そりゃあいいメロディなわけだよ。そして歌詞を見てほしい。炭鉱を「やま」と読むのがアツすぎる。さらに、その歌が炭鉱と工場にこだまするのだ。

めちゃくちゃ素敵だなとぼくは思う。日本水素工業という会社の工場の前で生まれ育ち、炭坑夫だった祖父を持つぼくにとって、炭鉱(ヤマ)や工場が歌詞に出てくる市歌はなんとも心震えるものなのだ。いや、心震えるのはぼくだけではないだろう。家の近くに工場があり、家族が炭鉱で働いていたなんて人は、このいわきでは特段珍しい話でもない。


現在の小名浜港にある石炭のストックヤード。昔は常磐の石炭を、現在は国外の石炭を扱う

いわき市歌を紹介したついでに、あとふたつ、思い出に残る歌を紹介したい。ぼくが卒業した学校の校歌だ。

東の海に陽は燃えて、望み輝く朝ぼらけ(いわき市立小名浜第二小学校の校歌より)

朝爽やかに晴れ渡り、瞼に親し湯ノ岳よ(いわき市立小名浜第一中学校の校歌より)

小名浜のまちに燦々と輝く太陽と美しい海を思い起こさせる秀逸な歌詞だが、中学校の校歌に湯ノ岳という山が出てくる。我々にとって決定的に重要な場所だ。湯ノ岳は、小名浜から車で30分ほど。昔から山岳信仰の対象となっていた山で、そのふもとには、奈良時代の高僧、徳一が開いたとされる薬師堂が、また別の一角には、平安時代に建立され今では国宝となっている「白水阿弥陀堂」がある。山自体の標高はさほど高くはないが、周囲に高い山はないので存在感は大きい。今ほど計器が発達していない時代の漁師たちは、湯ノ岳を見ながら自分が漁をしている位置を確認していたというから、瞼に親しいとは我が意を得たり! その通りだ。

そしてもうひとつ重要なのが、湯ノ岳と石炭との関わりである。いわきの石炭は、この山の麓から出てきた。江戸末期。白水阿弥陀堂の裏手に当たる弥勒沢というところから、片寄平蔵という商人が露頭した石炭を発見し、いわきの石炭産業が始まったとされている。山の麓のあちこちに坑(トンネル)が掘られ、その坑のそばには大小様々な炭鉱町が形づくられた。ぼくの母も、のちの時代に形づくられた常磐炭鉱八仙住宅の生まれだ。湯ノ岳というのは、この一帯に暮らした人たちの宗教的なシンボルであり、また、産業の中心でもあったわけだ。

さらにつけくわえるなら、この石炭を運び出すため、当時は小さな漁港に過ぎなかった小名浜港が発展。その後、住民の直訴などもあって重要港湾となり、小名浜港の大規模化・工業化が図られてきた。ぼくが愛着を覚えるあの煙突も、あの工場の建屋も、港の岩壁も、みなどこかで石炭の歴史とつながっている。そして、炭鉱が閉山となったあとも、常磐炭田のあったエリアのエネルギー供給地という役割は変わらず、その歴史の先に原子力発電所の建設や事故がある。

 


この港まで石炭が運び込まれていた

 

小名浜港からちょっと北にある松下海岸から眺める景色がぼくは大好きだ。広々とした青い空、紺碧の太平洋……だけじゃない。その空になだらかな稜線を描く湯ノ岳。そして、もくもくと煙を吐き出す煙突や工場群が見えて初めて、ああ、これが小名浜の風景だよなあとしみじみと思うのである。そこには、エネルギー産業を支えてきたこの地の歴史も浮かび上がる。

と同時に、ちょっとピリッとした気持ちにもなる。常磐炭田は、湯ノ岳の麓から海側に坑が掘られてきた。最盛期には海底にも伸びていたというから、ひょっとしたら、ぼくが歩いている海岸の道の下にも、炭坑夫たちが歩いた坑道があるかもしれない。そう思うと、先人たちの取り組みに素直に頭を下げたくなる。じいちゃん、オレは今、あなたが歩いたかもしれない坑道のうえで、あなたが見られなかった地上の景色を見ていますよ。ぼくが生まれるだいぶ前に亡くなった祖父に、思わずそんな言葉を投げかけたくなる。

祖父は、母が高校生のときにガンで亡くなった。父方の祖父も、ぼくが生まれたときにはすでに認知症を患っていて、一度も会話を交わすことなく、ぼくが小学校に入る前に亡くなった。つまり、ぼくは「じいちゃん」との思い出がほとんどない。だからだろうか。炭鉱の話とか、昔の小名浜の話とかを聞くと、どこかに祖父の面影を、そして自分のルーツを探したくなる。


松下海岸から見る小名浜のまち。左手に工場地帯。右奥に湯ノ岳が見える