第9回
線描家の語る線と、復興工事
2023年12月25日 公開
2023年の夏、ひょんなことから、福島県の沿岸部、浜通り地区を舞台に開催された「常磐線舞台芸術祭」というイベントに関わることになった。作家の柳美里さんが構想したもので、劇作家の平田オリザさん、作家の古川日出男さん、詩人の和合亮一さんらとともに、なぜかぼくも実行委員に加わることになり、ある日、「無茶振り」というのはこういうことだろうという難題が柳さんから言い渡された。「リケンさんに芸術祭のステイトメントを書いて欲しいんです」。
柳さん、芥川賞作家の柳さんが書いたほうが圧倒的にいいに決まってるじゃないですか、なにを言ってんですか、なんでオレなんですかと思ったけれど、うれしさもあったのだろうか謎にテンションが上がって、柳さんからの頼みごとを断るのは小名浜衆の名が廃るぜ、などと思ってしまい、その難題をじつに安易に引き受けてしまった。そして、悩ましい推敲を何度も重ねた末、こんなステイトメントが出てきた。
手繰り寄せる、線を
わたしたちは線を引く。わたしとあなた、自国と他国、北と南、東と西。いつの時代も、どの土地でも、わたしたちは線を引き、自分たちが何者であるかを知ろうとしてきた。そしてまた、わたしたちを「圏内/圏外」というように切り分け、「来てはいけない土地」を作りもした。
けれど、内と外をつなぐのも線だ。道によって点と点は線となりヒトとモノはめぐる。共感や情という線は、その姿形は見えなくとも、わたしとあなたを隔てていたもう1本の線を溶かし、あるいは超え、くぐり抜けてゆく。そのことを、わたしたちは大きな災害を通じて感じ取った。
線は、わたしとあなたをつなぐだろうか。それとも、分かち断っただろうか。わたしとあなたの線。演者と観客の線。生者と死者の線。圏内と圏外の線。線は今、どこにあるのか。どこに引かれていたのか。考え、そして問いたい。だから、わたしたちは手繰り寄せる。その線を。
柳さんから難題をふっかけられたとき、常磐「線」というくらいだから、まあ線について書いておけば問題ないだろうとぼくは考えた。なぜか、線についてステイトメントを書くことに自信があった。ぼくのそばに、友人が描く線がずっとあったからだ。
日曜の朝の、線を引く時間
太陽もまだ布団で寝静まる冬の日の未明。ぼくたちが溜まり場として使っているアトリエに、木の枝のようなもので紙をこする、シュシュッ、カリカリッという音が響いている。その音を包み込むように流れるのは、ジャズピアニスト、キース・ジャレットの即興ライブの音源。通りはまだ暗闇に包まれていて、走り去る車もほとんどない。天井からは、いくつか裸電球が吊り下げられているだけ。先ほど淹れたばかりのホットコーヒーの香りを嗅ぎながら、彼から聞こえてくる静けさと熱が入り混じる音に、しばし耳を傾ける。
カリカリッと音を出しているのは、ぼくの親友、たんちゃんである。楽器を弾いているのでも工芸品を作っているのでもない。彼はほとんど毎朝、こんなふうにさまざまな画具を使って即興で線を引き、ドローイングの作品を描き残しているのだ。特に日曜日は、家族が起きてくる前の時間を活用してアトリエにやってきては、線描のルーティンをこなす。彼のSNSには、日曜日になると決まって「アトリエで淹れる3杯分のコーヒーが無くなるまでの時間」という言葉と共に、作品を撮影した写真が投稿される。普段は建設関係の仕事をしている二児の父であるたんちゃんにとって、家族がみんな寝ている日曜の早朝は、ささやかな創作の時間なのである。
じゃあそれを見ているぼくは? なにもしていない。1年前から飼い始めた犬の散歩の途中に立ち寄っただけだ。ウチの犬、毎朝5時くらいになると「早く起きてくれー」と言わんばかりに床をガリガリとこする。でもそれに気づくのはなぜかぼくだけで、いつしか朝の散歩はお父さんということになった。「家族が寝ている早朝のささやかな時間」であることは共通してるかな。
「たんちゃん、今日はなにで描いてんの?」
「ああ、これ? 墨差しです。かっこいいんですよね。筆では出ない線が引けるし。筆だと線の感じがだいたいわかっちゃうじゃないですか。墨差しって思い通りにならないところがいいんです。しかもこれ、線を描いているというよりも、紙に線を刻んでいくんですよね。多分めりこんでる……」
そう呟いたたんちゃんは姿勢を整え、また線を引き始めた。
こんな朝を、ぼくたちはもう何度繰り返してきただろう。ぼくたちがUDOK.(ウドク)と呼ぶこの場所を立ち上げてから、次の5月で丸々13年になる。震災からすぐの5月の連休に、この場所は開かれた。だからつまり、あの震災からもう13年になるということだ。お互いにそのぶん歳をとり、帯妻して子育てをし、家族のため、そして自分のために日々労働を積み重ねてきた同志、いや、たんちゃんはもう家族に近い大親友である。二人でほんとにいろいろなことをやってきたと思う。照れくさいから細かい思い出はここでは紹介しないけど。
震災以前から、たんちゃんはこうして日々、線を引き続けている。そしてぼくは、だいたいその傍らにいた。地酒をちびちびと飲みながら、玉置浩二の歌を聴いて涙しながら、昔好きだった人の話をしながら、原発事故への怒りを語りながら、彼は線を引き、ぼくはキーボードをぶっ叩いて文章を書いてきた。この光景こそ、ぼくたちにとって震災前と後をつなぐ日常の風景そのものだといえる。
「たんちゃん、ほんと毎日キース・ジャレットだなあ」
「だいたいこれですね。ケルンコンサートの。これが即興だって聞いた時にすげえ衝撃受けて。オレ、小1から高3までクラシックピアノ習ってて。小名浜のブルジョワ家庭の子どもたちが通う個人宅の教室。大してうまくもならず、才能もなくて、今は何も弾けないけど、このレコードを親父が持ってて、たまたまた目に留まったジャケットがかっけえって思って聴いたのが最初で、即興に衝撃受けて、あれからずっと聴いてます」
「え? たんちゃん、高3までピアノやってたの?」
「そうですよ。言いませんでしたっけ? でもほんと、ピアノの練習って同じことの繰り返しでつまんなくて。まあ、生活も同じことの繰り返しですけどね。ドローイングも、描いた線の上に線を重ねたりするんで、繰り返しといえば繰り返しだけど、自分の線に対して線を重ねていくんで、同じ線はひとつもないんです。扱ってる道具によって繰り返すループのスケールも違ってくるし。ペンと墨差しでも全然違う」
「たんちゃんのドローイングっていつが終わりなの? べつに具体的なモチーフを描いてるわけじゃないんでしょ? いつ完成したってことになんの?」
「完成しないです。オレって昔から完成させられないんですよ。小学校の写生会も先生が終わりだって回ってきてるのに終われなくて。なんででしょう。終われない、終わりたくない、いや、終わりがわからないのかな。まだ描けるよなって思うんですよね。線って塗りつぶすわけではないから、いつまででも余白があるじゃないですか。ああ、でも最近はようやくこれ以上描いても変わんないかなって思って終われるようになりました。これも、もう終わりですね」
そう言ってたんちゃんは墨差しを置き、スマホで写真を撮り始めた。一応完成したってことなんだろう。それにしても、うーん、なんだろう、これ。島のようにも見えるし雑草の絡み合いにも見える。いや、別に「なにかのように見える」と喩えなくてもいいのかもしれない。じゃあ一体なんなんだこの線は。そんな問いがいつも思い浮かぶ。
いつしかぼくの理解は、たんちゃんはなにかを描いているわけではなくて、ただ単に、ほんとうにただ単に、口笛を吹くみたいに線を引いているだけなんだってことになった。息をする、身体を伸ばす、あくびをする、線を引く。そんな感覚。
「震災で自分の生活とか暮らしが破壊されて、でもそれに対して、自分は線を引くのをやめたくなかったんですよね。どうすればできるかなって考えたとき、夜は寝ちゃうし、結局朝なんだなって。なんか、家でもクソみたいなことがあるじゃないですか。でも、日曜日のこの2時間があれば、この時間のためにがんばれるっていうか……」
震災後の混乱と結婚後の生活が同じレベルで語られていることに、ぼくは思わず苦笑してしまう。ぼくもたんちゃんも震災後に結婚した。それより前、ぼくとたんちゃんは毎晩のように意味もなくアトリエにいて、共に時間を過ごしていた。仕事が終わり、晩飯を食ったあとの寝るまでの時間、毎週のようにイベントを企画しては、酒を飲み、語り合った。ぼくはそんな日々を懐かしく思うけれど、よくよく考えれば普通ではなかったかもしれない。ああすることで自分たちを支えていたのだとも思う。あのころが「異常」だったのだ。
望んで結婚して、妻との暮らしが始まり、子どもも生まれ(ぼくは犬も飼い始め)、当然、生活は大きく変わっていく。以前のようにウドクに来られなくなる。イベントもそれほど企画できない。なんのために家賃を払ってるんだ、という気持ちにもなる。家で快適に暮らしているのかといえば必ずしもそうではなく、当然、何もかも自分の好きなように過ごせるわけではない。やるべきことも洗濯物も山積みだ。震災後のあの混乱した(しかしどこか充実した)暮らしは、新生活によって日常に引き戻された。暮らしを営むことの、なんたる力強さよ。
「家族ができると新しいことの連続ですよね。その意味で、私生活は飽きない」とたんちゃん。「じゃあ線は?」とぼくが聞くと、「どうかな。昔のより、いまの線のほうが好きですね。嫌いな線が減ってきました。でもある意味コントロールしすぎてるのかもしれない。思い切ったことやってないのかも。新しいこともやらないとな」。たんちゃんそう言って、2枚目の紙に線を引き始めた。暮らしが刺激的で大変だからこそ、日々落ち着きのある線を引いてバランスを取ってるのかもしれないな、とぼくは思った。