第1回
チーナン食堂のおかみさんとマグネシウム
2023年8月16日 公開
しまりのない3月
今年はちょっとヒマじゃない? 仕事、大丈夫?
妻からのそんな何気ない一言で、ふと気づかされた。ああ、たしかに今年はいつになく落ち着いてるなあ、3月なのに、大丈夫かなと。
3月は、いつもならむちゃくちゃに忙しいのだ。3月、つまりは年度末。行政がらみの仕事や、なにかの助成金をもらって進めてきた事業は、この3月で締めなくちゃいけない。パンフレットとか冊子とかウェブサイトとか、制作物がある場合にはとくに時間厳守だ。だいたい年が明ける頃になると「予算がちょっと余ったんで」とか、パンフレットや冊子の問い合わせが来たりする。年度末にちょいちょいっと作ったウェブサイトに効果はあるのか、という問いはさておき、依頼にはしっかり応えていかなくちゃいけない。
それから、膨大な量の報告書。ワードにみっちり文字とデータを打ち込んで仕上げるクラシカルな報告書もあれば、ここ数年は、事業報告書を書籍のようにまとめて出したい、雑誌みたいなレイアウトで、というニーズもじわじわ増えてきている。編集や執筆を生業とするぼくにとっては腕の見せ所なのだが、事業が終わるのはだいた1月末から2月ごろ。年度末までの残り1カ月ちょいで膨大なレポートをまとめあげ、関係者にインタビューをし、写真をレイアウトして印刷して納品するという殺人的スケジュールになったりする。3月。いつもなら、心も体も、とくに腕も肩もピリピリして張り詰めているころだ。
ぼくは東北の一番南にある福島県のいわき市の小名浜という港町で、地域のメディアをつくったり、中小企業の広報やPRの手伝いをする仕事を個人でしている。対外的には「地域活動家」だなんて肩書きを使ってカッコつけているけれど、実際のところは、中小企業の雑事、発信周りの困りごとをお手伝いするというのが主な業務だ。もっと具体的にいうと、市内の水産会社の依頼を受けて新しい加工品の商品開発や販促イベントの企画に関わったり、市内の福祉事業所の採用パンフレットを一緒につくったり、自治体と一緒に高齢者福祉のメディアを制作したり。言うなれば「小さな広告代理店」みたいな感じ、といえばわかりやすかもしれない。
民間にせよ行政にせよ、年度末は大事な「区切り」の時期だ。締めに向けて一体感をもって業務に取り組み、来るべき新年度に備える3月。膨大な量の報告書を書くうちに、あるいは、任されている企業のSNSに「年度末ですね」なんて文章を投稿するうち、ますますぼくの「区切り」感は高まっていく。
それから、3月はぼくたち東北に暮らす人間にとって、とりわけ重要な意味を持つ。3月11日。そう、東日本大震災である。ぼくの暮らす福島県いわき市は、南北50キロにわたり海岸線が伸び、「いわき七浜」と呼ばれる美しい浜で知られている(地元では)。10年前のあの日も、いわきの浜に巨大な津波が押し寄せ、400名あまりの犠牲を出した。ぼくはその七浜のひとつ、小名浜に生まれ育ち、今もそこに暮らしている。
あの日、ぼくも大きな揺れを味わい、家族とともに不安な日々を送った。傷つけられた港町を見たときには、もはや再起不能に思えた。そして、東京電力福島第一原子力発電所の事故によって生まれた社会の分断や膨大な喪失を目の当たりにしてきた。まちは「復興」を叫ぶ。でも、なんだかその「復興」の意味がよくわからず、手応えも感じられなかった。現場で動くことしかできなかったぼくは、原発事故への疑問や苛立ちを抑えきれず、さまざまな地域活動にのめり込み、その現実を発信してきた。2018年には、これまでの活動や震災についての考えをまとめて本を出したりもした。
そんな活動履歴も手伝ってか、3月になるとメディアの取材をよく受けた。雑誌などから寄稿をお願いされることもけっこう多かったと思う。自分が取材を受けるばかりでなく、カメラマンやディレクターを連れて沿岸部を案内したり、メディアに現地の人間をつないだりもしてきた。なぜ断らなかったかといえば、できるだけ自分自身の言葉で発信したかったからだ。それと、テレビや新聞の記者の苦労もよくわかり、できるかぎり協力したいとも思っていた。ぼくはテレビ局の報道記者からキャリアを始めている。なんのツテもないなかでぼくにたどり着かざるをえなかった記者たちのオファーを断るのは心苦しい。これも縁だしな、と思い、できることをやってきた。
本年、2021年は「震災10年」である。記念日報道が大好きなメディアのことだから、震災について取り上げる機会は一気に増えるだろう。現地の取材も増えるはずだ。もしかするとぼくの仕事も増えるかもしれない。せっかくだから、なにかしらこの10年にふさわしい仕事を残しておきたいなあと、そんなことを考えていたのだが……。
それがいつになくおとなしい。いつもなら忙しいはずの年度末の仕事も、震災関係の仕事もあまりやってこない。なんというか拍子抜けするような締まりのない3月だった。事務所にも行かず家で過ごす日が増え、冒頭の妻の台詞は、そんな時にぼくに向けられて発せられた。
なにしろコロナウイルスの感染拡大の影響が大きかった。未知のウイルスは、あっという間に人と人との距離を引き剥がした。イベントは流れ、リモートに変わり、人に会う、話を聞くこと自体が難しくなってしまった。それが仕事のほとんどだと言っていいぼくの、年度の仕事を総括する3月がヒマになるのも当然といえば当然だろう。
そればかりか、コロナウイルスは、被災地との距離を離し、追悼の場すらも奪ってしまったように感じる。2021年3月の時点で、流行が始まって1年になる。コロナ禍でのイベント開催のノウハウも積まれていたはずだけれど、震災に関連する式典の多くはリモートになり、地元の限られた人しか参加できなくなってしまった。政府主催の式典なんて、リモート開催を模索したような痕跡もなくあっさりと中止だ。そのくせ「復興五輪」だなんて上っ面のスローガンを掲げ、東京オリンピックだけは開催しようとしている。復興を掲げるなら、この3月くらい、もっとこちらに思いを寄せて欲しい。どんな気持ちを、ここに暮らす人たちが持っているのか、政治家たちこそ、その耳で、目で、体で感じようとすべきじゃないか。犠牲になった人たち、その家族、いまだに故郷に戻れずにいる人たちに思い馳せず、話も聞かず、なにが復興五輪だろう。結局、復興五輪というのは「ダシ」だったのだと痛感する3月。もはや、震災復興なんて大多数の人たちにとってはどうでもよくなってしまったわけだ。コロナは震災よりも身近で大事な命の危機だろうから、コロナへの不安が増大した代わりに震災に関する関心が大きく失われてしまったとしても、無理はないのかもしれないけれど。
いや、反対に、静かな3月だったからこそ、べつに3月だからって、何年目だ、何年経った、なんて区切る必要がほんとうにあっただろうかとも考えた。家族を失い、まだその家族のご遺体が見つかっていないという人に「今年は10年目の区切りですね」なんてことが果たして聞けるだろうか。日々は、震災前からずっと連続している。「区切り」なんていうものは、あくまで外にいる人たちが、外にいる人たちにわかりやすく伝えるために当てはめるものでしかない。
でも、そう書いておきながら、ぼくだって毎年のように自分で選んで「区切り」の仕事を受けてきたわけだ。区切りだからこそ関心を持ってくれる人たちもいる。だからしっかりと言葉を届けようと思ってきた。それが発信者たる自分の役割だと思ってきたところもある。つまり、そうやってぼくは、外から圧をかけられ、また内側から自発的に、1年1年を区切り、締めてきたことになる。
ところが、今年は取材もない。報告書の仕事もひとつだけ。区切る必要のないしまりのない3月はぼくを宙ぶらりんにさせた。そして、そのしまりのなさゆえ、無理やりに3月11日をしめようとしてきた自分の姿が露わになった。しまりがないので、なんというか、3月31日と4月1日の間、3月10日と3月11日の間にも時間は流れているんだよなあ、なんてことにも思い馳せることができた気がする。区切ることで生まれた言葉ではなく、区切ることで失われた言葉もきっとあったのだろう。締めなくていい3月は、これまでとはちがった角度で震災というものに光を当ててくれたようだ。しまりがなくて、案外よかったのかもしれない。
ぼくは、震災に関して400ページを超える本を出し、それで権威ありげな賞をいただいてしまったこともある。復興についてまじめに、いかにもな顔をして語るのもぼくの一部だが、震災10年で何が変わりましたか? と聞かれても、生え際の後退とか、中性脂肪の値とか頭皮のベタつきとか、自らの変化の方が実際気になっているし、廃炉の行く末も気になるけれど、娘の成長のほうが気がかりといえば気がかりで、それもまたぼくなのである。
正直いえば、震災や原発事故のことをぼくは前ほどは直接的に考えなくなっている。震災10年の問題は? とマイクを向けられても、おそらくなにひとつまともな返答はできまい。けれども、朝の旗振り当番をしているときに小学生たちを見れば、「ああ、みんなが大人になる頃には廃炉は終わってるだろうか」なんてことを考えることなら前よりも増えたし、出張先のホテルで電気のスイッチを入れるときに「ああ、この電気は広野町の火力発電所でつくられたものかもなあ」なんてことはよく考える。地元の海を見て「浪江の津島の人は、しみじみといいものだなあと思えるふるさとを奪われたんだな」と妙に感じ入ってしまうことも増えた。なんというか、直接的ではないけれど、日々の何気ない動作、人の表情、子どもたちや若者たち、夕暮れや山や海や川を見る先に、震災や原発事故を考えることが増えた。忘れたわけではない。説明が難しいけれど、震災というものは、ごくごく普通に、ここに(胸に手を当てて)ある。強烈なものではなくなったけれど、しかし強さは失われていない。そんな気がする。