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連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

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「そこに行く」から始まること

2023年12月10日 公開

スタートラインは「そこに行くこと」

 ぼくはこの数年、当事者の周りには、幾ばくかの当事者性を自覚しながら、当事者に遠慮してしまったり、当事者性を比較してしまったりして、自分でアクションを起こせずにいる人たちがいると感じてきた。彼らは問題の当事者とは言えないかもしれない。だけれど、当事者の周囲にいて、関心を寄せたり、興味を持ったり、ことの推移を見守ったりしている、つまり「事を共に」している。つまり「共事者」ともいうべき存在がいるのではないかと、そんな持論を展開してきた。

 まさか、こんな身近なところに、こんなにもわかりやすい「共事者」がいるとは思わなかった。まえちゃんは、興味や関心がないのではなく、むしろあるからこそ、上司であるぼくや、いわきでお世話になっている人たちを怒らせてはいけない、傷つけることをしてはいけないと、あえて語ろうとしなかったのではないだろうか。

 けれど、こんなことも考える。そんなふうに「当事者」に遠慮し、「当事者性」を比較して自分を部外者の立場に置いていたら、いつ自分を出せるのだろう。いつ、前野有咲は、自分の言葉で震災や原発事故を語ればいいのだろう。震災を経験した人しか震災を語る資格がないのだとすれば、いずれはだれも震災について語れなくなる。いやむしろ、電気を使ってきた首都圏の人たちこそ、処理水や放射性廃棄物、廃炉の問題を考え、それを表明するべきじゃないか。


汚染水を溜めるタンク群(2015年撮影)写真提供:一般社団法人AFW

 たまたま福島で起きた問題を、福島の人たちだけで考えるべきなのだろうか。それは、エネルギーや廃炉という日本社会全体の問題について考えることを、福島の人たちだけに押し付けることにならないだろうか。当事者だけで考えればいい、部外者が口を挟んだら迷惑がかかってしまうというのでは、それは形を変えた思考停止だ。でも、そういうぼくの「お前もこれについて語ってくれよ」という押し付けが、語るハードルをさらに上げているのかもしれないと思うと、ぐっと言葉を飲み込まざるを得なくなる。

 まえちゃんは、そんなぼくの悶々とした表情を見てとったのか、ぼくをフォローするように「語るには、いくつか段階があると思ってます」と話を続けた。

 「そもそも言葉を出すまえに、自分の考えをつくるというか、自分はどう思っているのかを自分に問いかけるフェイズがあって、そのあとに話すフェイズがあるような気がしてて。それでいうと、なるべく同じ属性の人のほうが話しやすいとは思います。たとえば、いったん考える時間はよそ者と当事者とで分けて、そのあとで話す時間は一緒にやる、みたいな。まずは自分の立場から考えようって感じがあるといいんじゃないかと思います」。

 最初は「自分に問いかけるフェイズ」か、なるほど。たしかに自分に問いかけ、自分が答えているのだとすれば、たしかにそれは「発話」にはならない。周囲からもそれについて積極的に語っているようには見えないだろう。けれど、言葉にできなくても、考えてくれているわけだ。そんな人は意外と少なくないのかもしれない。

 「具体的にどうすれば、自分に問いかけるフェイズをつくれるんだと思う?」と聞いてみると、「私は、そこに行くのがいいかなと思っています」とまえちゃんは短く答えた。

 ああ、だからまえちゃんは、そこに行ったのかと話がつながった。そこに行けばきっと考えるスイッチが入る。現場を見て、空気を吸い、匂いを嗅いで、触れてみる。具体的に言葉にはできなくても、体は何かを感じている。言葉にできなくても、そこに行くことはできる。ぼくだって、そんな思いを持って沖縄にも行ったのだし、水俣にも、六ヶ所村にも行ったんだったなあと我が身を振り返った。そしてまた、話を続ける。

 「じゃあ、まえちゃんはそこでなにを見たの?」

 「そこにいる人たちがどういるか、どう振る舞うかなら見えました。震災について私は詳しく知らないし、何号機が水蒸気爆発で、なんてことも知らないですけど、そこにいる人たちがどう振る舞うのか、どういう言葉を発するか、ということならひとりの人間として考えられると思ったんです。同じ日にツアーに参加した友人とも、私らってきっとそういうことを考えたんじゃね?って話をしたら、たしかにって」

 「そうか。なんの専門性もなくても、人がそこにどう存在しているかなら、見える。そこから原発事故について考えればいいのか……」。ぼくはそう言いつつ、内心とても驚いていた。自分の関心のある領域や、「これなら書ける」「この話題ならついていける」という自分なりの細々とした線をつなげて課題と向き合おうとすることを、ぼくは「共事」的だと考えてきたからだ。まえちゃんはぼく以上に「共事者」を実践している。本人の気づかないうちに。

 「それでいうと、東電の人たちは、震え&陳謝モードっていうか、申し訳ありませんっていう陳謝がベースにあって、でも、前に出て対応してる担当者に責任を負わせてるように見えました。きっと後ろに座ってるのが責任者なんだと思うんですけど、鋭い質問にどう答えていいか分からない担当者が、後ろの上司に『なんとかさん、なにか補足で説明ありませんか?』って助け舟を求めても、後ろの人は『特に何もありません』って答えてて、一瞬『え?』って思いました。だって、それじゃ『答えられなかった』という事実しか残らないじゃないですか」

 けっこう鋭いところを見ている、という気がした。すぐに「ほかに気になったことは?」と聞くと、もうひとつ出てきた。

 「あっ、あとは、ツアーの日、めっちゃ雨降ってて大変だったんです。ある職員の方が、視察しやすいように傘を出してくれて、めっちゃ気配りしてくれるなって思ったんですけど、それができる人はその人だけで、あとの人はなにもしないんです。そこにいるだけ。そういうのが気になりました」

 またまた鋭いのが出てきた。おそらく、ぼくならそこで原子炉建屋がどうなってるかとか、何ミリシーベルトくらいになってるのかとか、そういうことばかり気にしていたと思う。だがまえちゃんは違った。まえちゃんは、廃炉作業や原発事故そのものの知識がないからこそ、人の動きや組織の振る舞いを見ることを通じて、原発事故を引き起こした東電という会社に知らず知らず肉薄していたのだ。謝罪の言葉を口にするだけで視察に来た人たちと向き合おうとせず、説明を部下に任せ、上の人間が消極的にしか関与しようとしないのだとしたら、地域住民との信頼が築けるはずがない。そういう重要な東電の課題を、まえちゃんは掴んだことになる。

 だからこそぼくは余計に、まえちゃんのような「よそ者」を自覚する人たちにも、この地について語ってもらいたいと思うのだ。一方的な語りではなく、相互に影響し合い、自分ごととして考え、語りあう。そういう営みのなかに「伝承」があると思うからだ。そのためには、やはりぼくたちとは違う見方で、ぼくたちとは違う角度で、ふまじめに、よそ者の目線で震災について考えてくれる「共事者」が必要だと思う。もっと、外の人たちが自由に、まちがってもいいから、福島を見て聞いて、語ることのできる場があるといいのかもしれない。そんな話を一通りしたあと、まえちゃんがこんなことを言った。


筆者が福島第一原発を視察した時に撮影されたもの(2015年撮影)写真提供:一般社団法人AFW