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連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

8

「そこに行く」から始まること

2023年12月10日 公開

「中途半端な」人たちがいるからこそ始まる復興

 「このあいだツアー客同士が集まって話をしたとき友人と話してたんですけど、あの場でファシリテーターをやるべきだったのは我々だったんじゃないかって。相対的に立場の弱いよそ者とか若者がファシリテーターやるほうが、みんなが話しやすくなったかもしれないよって話をしてたんです」

 たしかにそうかもしれない。ぼくみたいな人間が前に出てしまうから、なかなか「自分ごと」になりにくいのだ。思えば、ぼくたちは当事者であり「被害者」だ。若者たち、よそ者たちは、被害者の話を聞こうとするからこそ真剣に耳を傾けようとする。けれども、被害者の声を尊重しようと思えばこそ、その人に異論を言ってはいけない、その人の発言こそ大切にしなければいけないのだとまじめに考えてしまうのではないだろうか。「自分の考え」を挟むことは難しくなり、その意味で「自分ごと」にはなりにくい。


放射性物質は西に吹く風に乗って広い範囲に降り注いだ。風に、私たちの運命が左右されてしまった

 やっぱり自分なりの言葉にして語ってみなければ、どこに勘違いや間違いがあるかも気づけない。まちがってもいい。その時は正しくなくていい。まずは自分の言葉で語ってみる。そういう場がやはり必要だと思う。あるいは百歩譲って、言葉にできなくても、頭の端っこで気にしていてくれたら、それでいいとも思う。言葉にする前にある発見する時間、気づく時間、自問の時間を育てていくこと。伝承や対話というゴールではなく、とにかく「そこに行く」というスタートラインをつくることなら、もっと気楽にできるかもしれない。そんな場を、まえちゃんのような「共事者」たちがつくってくれたら、すごく心強い。

 なにかについて雄弁に語れなかったとしても、それを考えていないわけではない。むしろ考えているからこそ語れないでいる。まえちゃんのような存在はきっと、当事者のすぐそばに、そして意外なほど多くいるのではないだろうか。

 そんなことを教えてくれた若者が自分のアシスタントとして文句を言わずに働いてくれていることに言いようのない頼もしさを感じつつ、改めて、中途半端な人たちがいて、よそ者がいて初めてぼくたちは復興できるのかもしれないなあとしみじみ思う。そう。この文章を読んでくれたあなたも、もちろんその中にいる。本を読んだり、その本に触発されてその地を訪れてみたり。そんな細々とした線が、ぼくの住む小名浜に、そして、地域の復興や伝承につながっている。


福島第一原発に近い富岡町夜ノ森の桜。人が立ち入ることができなかった間も、花は咲き続けた

(本文中、バナー写真すべて:著者/バナーデザイン:渋井史生 PANKEY inc.)

(つづく)