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連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

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線描家の語る線と、復興工事

2023年12月25日 公開

家族の間に引かれた線

 ぼくは、その場の音に耳をすませながら、ぼんやりとたんちゃんと出会ったころのことを思い出していた。ぼくがたんちゃんを「発見」したのはツイッターだった。プロフィール欄に「小名浜/建築」と書いてあって、瞬時に、おお、彼ならオレのやりたいスペースづくりに協力してくれるかもしれない。建築やってるならちょちょっと内装工事なんかもしてくれるはずだと思ったのだ。万事こんなことばかりで本当に申し訳ない。ぼくはすぐ「この人はあれができるならきっとこれができるはずだ」などと安直に考えてしまう……。

 初めて会ったその日に酒を飲み、小名浜に拠点をつくりたいんだと話をしたら、たんちゃんも似たような構想を持っていて、すぐに意気投合した。その後も二人で妄想を重ね、まちの空き物件を訪ね歩き、ようやく小名浜港のそばの、昔は海産物の加工場だかなにかに使われていたという古い物件を見つけたのだった。

 仕事が終わったあとや休日に、自分たちがやりたいことをやる場所にしよう、名前は「晴耕雨読」からとって「UDOK(ウドク)」にしよう、そう決めた。不動産屋との契約も首尾よく進んだ。契約開始日は2011年3月12日。明日から、オレたちの新しい暮らしが始まるんだ。そう思っていた。

 ところが、思い描いていた3月12日は来なかった。その前日、ぼくもたんちゃんも、それぞれの職場で被災した。幸い、ぼくたちの自宅は海から少し距離があり、津波で被害を受けるということもなかった。友人たちも、みんなそれぞれ自分の状況をツイッターに書き込んでいたので、状況はある程度わかった。だが、海沿いの拠点は真正面から津波を食らってめちゃくちゃになってしまった。いやそれ以前に、原発が悲鳴をあげ始めてそれどころではなくなってしまった。


当初予定されていたUDOK.の建物。震災で被災し、その後、解体された

 「直ちに健康に影響が出るものではない」。そんな文言がテレビで繰り返された。心配で心細くて、だけれどなにが心配なのかすらわからないような、とにかく大きな不安と混乱とがぼくたちを襲っていた。できることといえばツイッターを凝視することくらい。そこで誰かとつながれたから、ぼくたちは孤独ではなかった。

 その間、それぞれの家庭では、いろいろなことが起きていた。避難する。避難しない。避難できない、したくない。だれが? なぜ? いつ? どうやって? そんな話で家族が揺れた。これまでずっと一緒に暮らしてきた家族も、放射能に対する懸念は大きく違った。ある家では妻と子が遠方に避難し、夫が地元に残った。また別の家では、両親が家に残り、子ども世代は遠方に避難した。「みんなを残して逃げるような形になってしまってごめんなさい」。そんな謝罪投稿がツイッターにいくつも流れていった。

 たんちゃんに分けてもらったコーヒーを飲みながら、「原発事故って、ほんと家族ってなんだろうって思わされたよね」とぼくがつぶやく。この話題、もう何度も話をしているはずだ。使い古された問いかけだなと思いながら、たんちゃんの返答を待った。たんちゃんは、じいちゃんの話をし始めた。初めて聞く話だった。

 「うちのじいちゃん、まともに歩けないんで家でテレビ見てるしかなかったんですけど、戦争で満洲に行って、そのあとシベリア抑留されて、さんざん遠くの世界を見て帰ってきて、人生の最期、自分の住んでるまちが津波に飲まれていくのをテレビで見ているだけ。これってなんなんだろうって思いました」

 「そうだったんだ」

 「うちは両親が教員だったから、震災後も毎日学校行ってたんです。ただ、姉貴の子ども、あのとき1歳だったかな。どういう影響があるかわからなかったんで姉貴の家族だけ東京に避難することになって、子ども服とかいろんなものを車に詰め込んで、避難する用意してたんです。ばあちゃんはハンコと通帳を姉貴に渡してて、もう最期だなって今生の別れみたいな感じでした。車のガソリンもないし。そしたら「あんたも行くよ」って言われて。オレも逃げるのかと思いながら荷物まとめたんですけど、両手で足りたんですよね、荷物が。そんとき、急になんだこれって。オレにいま必要なものって、たったこれだけだったのかって考えたら、避難しなくていいじゃんって思っちゃって。結局、オレは家に残りました。親父とはほんと怒鳴り合いのケンカみたいなこともしました。あの時はほんと、家族がいるってこういうことなんだなってすげえ思いましたよね」

 「だよなあ」

 「人生は無限に広がってるんだ、なんにでもなれるんだぞって聞かされてきたけど、実際そんなことないと思うんですよ。原発事故のあと、オレは、それぞれが捉えるスケール次第で、人生の範囲が決まってしまうんだって思った。放射能で危険な日本なんか必要ないって国外に避難した人もいたけど、オレは小名浜にいる。そこで、オレのスケール感がわかった。自分の人生って、自分の想像の範囲に収まらざるを得ないってことを教えられた気がするんですよ。オレはずっと小名浜の人間なんだなって思いましたね」


ある日の小名浜の海。波打ち際のラインは、たんちゃんの作品のようにも見える

 

 朝から思いがけずヘビーな話になってしまって、ぼくは妙な相槌しか打てなかった。けれど、よくわかる。原発事故で、普段は考える必要のなかったものまで剥き出しになったということだ。家族が、いや家族ですらいったんバラバラになった。それぞれの、個人としての生き様みたいなもの、人生観、なにを大事にするのかという根本の価値観、そういうものが露呈したのだ。これまでは「冷却水」で満ちているからわからなかったようなもの。それが爆発した原発の燃料棒みたいに出てきてしまったのだろう。

「じいちゃんって、戦争から帰ってきたあと、ずっと畑やってきて自慢の野菜作ってたのに、畑に行っちゃダメだよって言われてて。たしかに放射能の心配あったけど、高齢者は影響受けにくいって言われてたじゃないですか。それなのに、最期にできることがテレビの前で腰曲げてニュース見ることくらいしかない。これが人生なんだなって。オレも世界に行きたい気持ちはあります。でも、これから海外で暮らすことはたぶんないなって」

 戦争で海外に行ってるわけだから心から称賛するわけにはいかないけど、故郷を離れ、命の危険に晒されながら、さまざまな経験をしてきた人が、自分の地元でボランティアをすることも、大好きな畑をいじることもできず、ただただテレビを見ることしかできない。祖父のそんな様を見て残念に思いながら、でもそう思う自分も両手で足りるほどの荷物しかない。じいちゃんの姿に自分の身を重ね合わせ、「これが人生なんだ」と思ってしまったたんちゃんの気持ち、わからないでもない。

 ぼくたちの人生は、どこまでも開かれているように思える。なんにだってなれると言われてきたし、若いころは、あらゆる可能性が開かれていると思えた。それに、ぼくたちは原発事故後、「避難」というとてもネガティブな理由ではあったけれど、この地を離れてもいい理由があった。実際、遠方や海外に避難した人たち、新しい人生を切り拓いた人たちもいたはずだ。


三崎公園から見下ろした小名浜港

 けれど、ぼくたちはいろいろなものに縛られてもいる。いつだって目の前の扉は開かれていたはずなのに、ここに生きることを選ばずにいられなかった。地域への愛着? それとも仕方ないから? なんだろう。ぼくだって結局は、彼女の暮らす新潟から数日で帰ってきて、あれからずっと小名浜にいる。ポジティブな理由だろうか、それとも、仕方なしにそうなってしまったのだろうか、どちらとも言えない。

 たんちゃんは「小名浜港」を引き合いに出してこう語る。「ここから逃げられないのに、いつでも外に出られるんだって気持ちになれる。その感じ、なんか小名浜っぽくないですか? 港って海に対して閉じてない。開かれてるから」。

 たんちゃんはそんなふうに小名浜をとらえていたのかと驚きつつ、一方でこんなことも考えた。なにもない時にはまったく意識しなかった「縛り」。それこそ「家族」であり「地域」なのかもしれないと。

 それでも港はそこにある。だからついつい気持ちが外に向く。その先に、無限の可能性や自由がある、いや、あるかもしれないと思える。ぼくたちは港が、海があるからこのまちで生きていられるのかもしれない。たんちゃんのいう「小名浜の人間」って、こういうことかな……。


三崎公園の岩場。たんちゃんの作品のようにも見える