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連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

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小名浜の中華屋で想像する「複数ある世界」

2023年9月26日 公開

中心にいる者は、周縁を知らない

それにしても、江尻さんをここまでして異郷の地へと誘うものは一体なんなのか。ウイグルしか行ったことのないぼくが、恥ずかしながら、江尻さんの経歴をできるだけ簡単にまとめてみる。

小名浜で醤油味噌醸造業を営んできた「稲屋」の次男として生まれた江尻さん。小さいころから家業を継ぐ夢を持っていたが、15歳の時、父親が醤油蔵の事故で亡くなってしまう。一家が路頭に迷うなか、自分が自由になる金もなく、手元にあった教科書を遊び倒していたら成績が爆上がり(本人談)。母親の「東京六大学で国立だったら大学に行ってもいい」という冗談を真に受けて、一浪のすえ東京大学へ入学。大学で演劇に目覚め、俳優として数々の作品に参加したのち、千葉県の某世界的テーマパークの運営会社に就職が内定。世界一のパレードを作るんだと息巻くも、法務部行きを告げられて内定を蹴り、スーパーカブで放浪の旅に出発してしまう。
10年ほどかけて日本の全市町村を巡ったあと、東京で数年間、劇作家・演出家として活動しながら周辺諸国を巡り始め、やがてキルギスに照準を絞り、運よく現地の職を得て移住した。東日本大震災が契機となり、2012年1月に帰国。いわきではコミュニティFMのスタッフとして活動した後、現在は地元某私大で留学生に日本語や日本文化を教えている。その傍らでさまざまな活動を続けていることはさっき紹介したとおりだ。

それぞれのエピソードに濃密な裏話があり、いわきでは、江尻さんの話をじっくり聞こうじゃないかというトークイベントも何度か行われた。ラム肉食べながら江尻さんの話を聴けるなんて酒が進まないはずがない。2、3杯注文したはずのビールはすっかりなくなり、レモンサワーが次々と注文されていく。

「昔から、大きくて、強くて、無反省で、そのくせなんにも知ろうとしない、って奴がムカつくんだよなあ」
少し酒が回り、ふと震災のころについて話をしていたころ、江尻さんがそう唐突につぶやいた。「アメリカもそうじゃないですか。大きくて強い国だけどアメリカ人がいちばん世界のことを知らないでしょう。どこまでいってもそうだと思うんです。日本のことをいちばん知らないのは東京の人。いわきのことをいちばん知らないのは平の人ですよ」

どきっとする言葉だけど、そうだな、と思う。中心にいる者は、周縁を知らずに生きていける。ぼくも、原発事故後はよく「東京で電気を使うだけの人はどんなふうに電気が作られているかなんて知らねえんだろうな」と思ったものだ。それを思い出して、「里山の暮らしなんて知らない人が簡単に線を引いて、賠償額やら除染の区域やら決めちゃう。それと同じっすね」と江尻さんに返した。ラム肉グリル店に似つかわしくない話題かもしれない。けれど、酒が入るとついつい原発事故の話になってしまう。

江尻さんは、ぼくの話を聞いて、「でも、自分も同じなんですよ」と語り出す。「小名浜で生まれ育ってるけど、オレんちは町場じゃないですか。『小名浜』っていう主語で語ってると、たとえば神白(市街地からは丘陵をはさんで離れた地区)のことなんてすっかり抜け落ちてたりするんですよね。そういうとき、ああ、オレも同じことしてるって思う。だからちゃんと知らなきゃいけないって思うし、知ろうとすれば、現地の人の話を聞いたりしないといけないってことなんですよね……」

大きくて強くて無反省なやつが嫌い。だけじゃない。江尻さんはそこに「何も知ろうとしないやつ」を付け加える。その「何も知ろうとしない」は、当然、自分にも跳ね返ってくる。だから江尻さんは知ろうとする。江尻さんの探究心の裏側には、そんな謙虚さがあるように感じられるのだった。それに、ぼくとはちがって、江尻さんは自分の知っていることや体験していることを声高には語ろうとしないし、論文や記事に書いて発信するようなことも積極的にはしない。江尻さんにとっては、発信することより、知らなかったことを知る、話を聞くことのほうがたぶん重要なのだ。

江尻さんのエピソードで大好きなのが、キルギスの首都、ビシュケクにあった自宅の前で政変が起きたときの話だ。2010年4月。いわゆる「キルギス騒乱」である。数千人規模の反大統領デモが勃発し、政府軍の発砲により武力衝突となった。死者は少なくとも75人、負傷者は1000人以上。アメリカ政府も予測していなかったといわれる緊迫した状況下、各国政府が自国民救済のため臨時の飛行機を用意するなか、日本だけは特に動きがなく、ようやく来た電話連絡での指示は「自宅待機」だったという。

 


騒乱翌日のアラトー広場でいつまでも続く集会(江尻さん撮影)

「よその国が大慌てでジェット機飛ばして自国民助けに来てんのに『自宅待機』じゃねえだろうと(笑)」
「日本らしいといえばそうだけど、江尻さんはどうしたんすか?」
「オレはまあ、飛行機来なくてよかったというか、やっぱり気になるじゃないですか、国家が転覆するとこに立ち会えるチャンスなんて、もしかしたら二度とないでしょう。そりゃあ、まさに今、革命が成らんとしている広場に行きますよね(笑)」

江尻さんは外国人であることがバレたら身の危険があることを承知で、キルギス人に変装し、キルギス人の歩き方を真似て群衆に交じった。催涙ガスから逃げまどいながらも、緊迫する大統領府前やデモ隊が集まる広場を体感したという。
「馬に乗る民族は歩き方が違うんですよね。日本人と全然違う。面白いから練習してたんです。それがまさかあんなときに役に立つとは思わなかった。あと、キルギス人の好むファッションには非常に偏りがあったんで、バザールに行って、上から下までどっから見てもキルギス人という一揃いを買ってあったんです。それも役に立った。オレが外国人だとはあの広場で誰にもバレなかったんじゃないかな……」
江尻さんのこれまでの経歴を書くと、猛烈な個性が溢れるような人に思われるかもしれないけれど、江尻さんは、前からそこにいたように、まるでその地域にある当たり前の「空気」のように、現地にするりと入り込んでしまう。自分が目立つのを嫌うし、そういう場所からは離れようとする。

「自分が旅人だと認識されたら、そういう扱いしか受けないじゃないですか。『外から来た人だ』という前提でしか現地の人は話ししてくれないっすから。オレはなるべく『旅人』になりたくないんです。そうじゃないと、自分と違う考え、自分とは違った角度から世界を見てる人の話は感じられないんじゃないかと思ってて」


騒乱翌日のアラトー広場にて、取り残された戦車に乗る若者たち(江尻さん撮影)

ああ、これは、取材の立ち位置とか、よそ者としてどう振る舞うのか、という話なんだなと直感的に思った。ぼくは江尻さんとは違って、いつも自分を出してしまう。どこに行っても、良くも悪くも「よそ者感」が出てしまうし、都合よくそれを出しながら取材をすることも多い。江尻さんの話を聞いて、いやあ、この人の真似はできねえなあ、すげえなあと思うほかなかった。
けれども一方で、江尻さんが虚心坦懐にスタンスを語ってくれたことで、自分の立ち位置も見えてくる。そして、「よそ者」であることを見せる、知らせるという振る舞いは、とりわけぼくのように書くことや発信することを生業とする人間にはやはり必要なのだ、とも思えた。当事者の声に自分の解釈をさし挟む以上、ぼくは「よそ者」です、書きます、と前もって表明しなければいけない。現地の人には到底なれない。それでもなお、話を聞くほかない。

江尻さんは、外に出すことはあまり想定せず、自分が知る、話を聞く、調べるということに主眼を置いている。伝えることは二の次。まずはその現地に入り、自分とは異なる捉え方で世界を見ている人たちの声を聞くことに集中する。いざ発信しようとしても、現地の人の語りをできるだけそのままに、いわば「聞き書き」を記そうとするのが江尻スタイルと言えばわかりやすいだろうか。
一方のぼくは、外に出すことが前提だ。現地の人の考えも聞きたいが、それを受けて自分はどう思うか、自分は何を考えたかということばかり常に考えている。この連載を読んでいただければわかるように、ぼくのスタイルは「聞き書き」とは正反対。むしろ、自分の考えを押し出して書いているのがわかると思う。
いや、演劇を長くやってきた江尻さんのことだ。実は、その場その場で「現地人」を演じることができるのかもしれない。キルギスの話をしているときの江尻さんは、キルギスにいたときの江尻さんが再演されているのかもしれない。つまりその瞬間、江尻さんは本当に、現地の人になっている。だから江尻さんと食うラム肉はうまいのだ。