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連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

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原発の処理水と海辺の街の生業

2023年10月9日 公開

 生業、そしてふるさと

鮮魚店の親方も、水産会社のY社長も、長く小名浜で商売を続けてきた。ぼく以上に、「海の恵みで支えられてきた」という自覚があるだろう。以前、Y社長がこんな話をしてくれたことがある。「じつは私、家ではあんまり魚食べないんですよ。昔から家だけじゃなくて近所でも干物つくってましたから」。なんだかいかにも魚屋らしいなとぼくは思った。
Y社長がいうように、小名浜にはあちこちに加工工場がある。昔はもっとたくさん工場があって、みりん干しのタレを当たり前のように川に流し、その川が茶色く濁っていた時代があったそうだ。それくらいたくさん作っていたということである。加工工場の隣にはきまって、物を干すための台が置かれていたり、銀色の「トロ箱」が何十枚と積み上がっていたり、「小名浜」と書かれた発泡スチロールのケースが無造作に置かれていたりする。そうして魚屋も加工屋も、小名浜の風景の一部となって町民に愛され、小名浜の港町の味を支えてきたということだ。


小名浜が発祥とされる「さんまみりん干し」。ほとんどは職人たちの手作業でつくられる


みりんにつけたサンマを乗せた網は、この台に乗せて乾燥させる。どの加工場にもあった

ぼくの母親も、一時期、近所のスーパーの鮮魚店売り場でパートをしていた時期がある。「母ちゃん、今日も体がなまぐせえな!」と、ぼくも兄も母に文句を言っていたが、今思えば、母もまた、そうして家計を支えながら、この港町の味を作る大切な構成要件になっていたのだと思う。魚屋で働いていた同級生の母ちゃん、鮮魚を運ぶトラックの運転手をしていた友人のオヤジさんも、だれ一人欠かすことのできない存在だった。
魚と港と、まちの風景と町民のつながり、文化、そして家業。それらは皆、不可分なものだ。それがみんな合わさって「味」になり、生産者たちは、誇りを持ってその味を守り、消費者に届けてきた。それが「普通に商売する」ということだった。
でもそれができなくなった。廃炉が完了するまで、処理水や廃炉作業の動向に左右されることになる。なにかトラブルが起き、大きな騒動になるようなこともあるかもしれない。そして、処理水の放出が終わるまで賠償も続く。少し大袈裟な言い方になるかもしれないけれど、それは、地域に根付いて当たり前に商売をする権利が奪われている、ということなのではないだろうか。
ふと、「生業(なりわい)」という言葉が思い浮かんだ。生業とはまさに、生きるための仕事である。原発事故は、その土地に根付いた生業を奪い、傷つけている。その傷は、どれほど賑やかな食のイベントを開催しようと、生産者の作った美味しい作物がメディアで紹介されようと、ぼくたち消費者の見えにくいところに存在し続けているのかもしれない。

原発事故で被災した住民らが国に損害賠償を求めた集団訴訟がある。「生業訴訟」と呼ばれているものだ。福島県の全市町村から原告が参加していて、その数はなんと4000人を超えるという巨大な住民訴訟だ。少し前に最高裁が「国に責任はない」という判決を下したことを覚えている人がいるかもしれない。最高裁の見解は、津波の規模は想定を超えるものであり、対策を講じたとしても被害は防げなかったというものだった。あまりにもひどい判決だったが、なぜ訴訟の通称に「生業」という言葉がついていたのだろうと気になり、訴状を読んでみた。

原告らが「ふるさと」というとき、それは、単に生まれ育った地を意味するものでも、単に本件事故当時住んでいた地を意味するものでもない。「ふるさと」とは、地域の自然や社会そのものであり、家族との生活であり、自己の生業であり、知人友人との人間関係であり、趣味のサークルや地域御祭などの総体である。(中略)
そして、各人が有している家族との生活、生業、人間関係などは、個々別々に存在しているのではなく、多くの場合、他者の有しているそれらと重なり合い、全体として一つの「ふるさと」という輪を作り上げている。さらに、一世代だけのものではなく、祖先から受け継がれてきたものであって、新しい者が参加することによって新たな発展を遂げてきており、将来にわたっても長く発展していくはずのものであった。原告らは、それらを全て含めた、その人らしい生活を営むための基盤の総体を「ふるさと」と呼んでいるのである。同時に、それは、単に原告らに対して誰かから与えられていたものではなく、原告らが、自ら、日々の生業と生活の中で育んできたものである。(「生業ふるさと喪失訴訟の訴状」第1回期日までの提出書面より引用【『生業を返せ、地域を返せ!』福島原発訴訟原告団・弁護団Webサイトより】)http://www.nariwaisoshou.jp/archive/archivess/entry-200.html

つまり、原発事故が奪っていったもの、住民が喪失したものは、ふるさとであったということだ。そしてそのふるさとを育んできたのが、住民の生業と生活、人間関係だった。そのことを、これほど端的に言い表しているものが他にあるだろうか。

小名浜漁港。カツオの刺身。干物工場。トロ箱と発泡スチロール。水揚げの賑わい。マリンタワー。魚屋の親方やY社長。加工の技術。出刃包丁にまな板。サンマのみりん干し。海水浴場。そこで飲んだラムネ。悪友たち。魚屋時代の母ちゃんの手の匂い。メヒカリの干物に、ウニの貝焼き。港の人で賑わうチーナン食堂。大漁旗。かつてうちの近くに生えていたクロマツ。この地にやってきた祖先。小名浜本町通りを包み込む夜霧。そして、小名浜の海の匂い。


阿武隈の山並みに沈む夕陽。夕焼けどきの小名浜は美しい

「ふるさと」から失われたものを小名浜に当てはめると、それはほとんど「ぼく自身」であった。小名浜の風景と味と、家族と友人と、歴史と切り離すことのできない「ぼく」の、ぼくらしく生きる権利や基盤が失われたということだ。
ぼくたちは原発事故の被害について語ろうとするとき、なにか客観的なデータを使って語ろうとする。水産業にもたらした被害について語るのならば、売上高や水揚げ量など数値をもって語る。数字が確たる根拠になるからこそ被害を客観的に語ることができるのだし、その数値が元になって賠償が支払われたり、漁業再生のための策が立案されたりするわけで、数値で語るというのは大前提だ。だが、それだけではないのだ。自分自身の尊厳、自分らしく生きる権利。数値化できない、だからこそ個人の尊厳に関わるものを、原発事故は傷つけていったのだし、今なお傷つけ続けているのだと思う。
訴状を読み返し、原発事故によって奪われものの大きさに思い至り、また、あの日から11年も経過してなお裁判が続けられているということにも改めてハッとさせられた。原告団と福島で水産業に関わる人たちとでは、置かれた状況も被害の状況も違うけれど、「この土地で自分らしく生きる権利」を制限されているという意味で同じ状態にある。いや、原告に参加していようといまいと、水産に関わっていようといまいと、あの事故によって欠落したものを抱えながら生きているという人は、少なくないはずだ。


サンマの水揚げ作業。たくさんの人たちが関わり、それぞれに持ち場がある

それでも日々を、おいしく生きる

もちろん、原告の皆さんも、Y社長も親方も、事故に対して怒り続けて暮らしているわけではない。表に出せない、語ることのできない言葉を内に秘めながら、それでも日常を楽しみ、日々の生業を、生活を営み続けようとしている。ぼくも同じだ。原発事故によって奪われたもの、失われたものだけを考えているわけでもなければ、日々、怒りを抱えて生きているわけでもない。いや、怒りを抱えているからこそ、楽しく、できるだけポジティブに日々を送りたいと思っている。
処理水の問題は長く続く。なにか大きなトラブルがあれば、深刻なダメージをこの地域に与えていくかもしれない。処理水の次には、放射性廃棄物や土壌の最終処分という、いまとは比べ物にならないほど大変な後始末も待っている。ぼくたちは、それでも日々の営みを続けていかなくちゃいけないし、この後始末に、できるだけ関心を持ち続けたいと思う。廃炉に至るまで、たとえ200年かかるとしても。
どうせ長く付き合うのならば、楽しいほうがいいし、うまいほうがいい。うまいものには人が吸い寄せられてくる。せっかくうまいものを食うのなら、うまい地酒を合わせ、四季折々の野菜もいただきたいし、もちろん一人で味わうのもいいけれど、やっぱり友人や家族と共に味わいたい。そうして魚たちを味わい続けている限り、ぼくたちは最高にハッピーな時間を過ごすことができるだけでなく、廃炉や復興、地域の問題を忘れずにいるための接点をつくることができる。
課題はある。割と深刻だ。時間もかかるだろう。だが、そこには新しい出会いもあるはずだ。先ほどの訴状にはこんな言葉もある。ふるさとは「新しい者が参加することによって新たな発展を遂げ」、「将来にわたっても長く発展していく」と。ふるさとには「新しい者」が必要だ。それはきっと、あなたのことなのではないだろうか。


小名浜諏訪神社の青鳥居。豊漁を祈願する意味が込められている

(本文中、バナー写真すべて:著者/バナーデザイン:渋井史生 PANKEY inc.)

(つづく)