Now Loading...

連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

7

若き作家と、常磐炭鉱の語り得ぬ念

2023年11月25日 公開

創作活動に向かわせる「業」

友人の寺澤亜彩加(あさか)たちと、常磐炭田の古い炭鉱町、内郷白水町(さきほど紹介した白水阿弥陀堂の白水)で「しらみずアーツキャンプ」というプロジェクトに関わっていたことがある。2018年と2020年の2回開催されたプロジェクトで、廃校になった旧白水小学校をメイン会場に、作品展示、ツアープログラム、まちあるき、さまざまな講演やトークを繰り広げるというイベントだった。

イベントの数年前から、ぼくは別の取材でこの地区に入り始め、集会所で開催されている飲み会に顔を出すようになっていた。人のおもしろさや歴史の複雑さに興味を持ち、次第にこのまちでなにかおもしろいことがしたいなと思うようになった。炭鉱町は、やっぱりどこか懐かしい香りがする。やたら威勢のいいおばちゃんたち。山に挟まれた狭い平地。みっちりと並ぶ古い住宅。長屋の痕跡。同じ山あいでも農村とはまったく違う景色に、思わず祖父の家を思い出してしまう。


少し路地を入ると、タイムスリップしたような感覚になり、祖父の面影を探したくなる

このアートプロジェクトには、初年度の企画段階から関わった。ぼくはまちあるきや対談、学びのプログラムを企画する担当。あさかは2年目のリサーチ段階からチームに加わり、いわきで長く美術家として活動してきた藤城光さんとタッグを組んで、白水を舞台とした演劇作品を制作する担当になった。演劇といっても、あさかたちが企画したのは劇場で観る作品ではない。鑑賞者がバスに乗り、いわき市内の各所を巡っていくと、その途中途中で演劇が繰り広げられるという「ツアー演劇」のスタイルだ。

ぼくもその劇を見た。内容について詳しくは紹介しないけれど、震災、原発事故、いわきの芸能や炭鉱町の歴史などを下敷きに、生と死、祝祭、エネルギーといった壮大なテーマを織り交ぜた作品になっていた。印象的だったのは、石炭のもととなるメタセコイアという木が擬人化されて登場することだ。劇の中で、オスとメス一対のメタセコイアが結ばれ、地中にもぐるシーンがある。そのシーンは、メタセコイアが地中でサナギになり、やがて羽化する未来を想起させた。ああ、石炭とはエネルギーとは生物の命であったか! と目が開かれる思いがしたのを今も覚えている。


擬人化されたメタセコイアの胞子

タイトルは『地中の羽化、百億の波の果て』。上演時間はなんと10時間。朝に出発したはずが、すべてを見終わったときには周囲が完全に闇に包まれていた。たった一回の上演。俳優たちも命を削るように気迫のこもった演技をしていた。語弊があるかもしれないけれど、見終わった者みな呪いをかけられて2、3日は寝たきりになりそうな、そんな力のある作品だった。DVDにもなっているので機会があったらぜひ見てほしい(ぼくの事務所でも販売中だ)。

そんな体験をしていたこともあって、炭鉱や石炭のことを考えると、あさかと動いていたあのプロジェクトを思い出す。日々リサーチのために白水に通っていたころ、あさかはいつも具合の悪そうな顔をしていた。聞いたことをぼくたちに話しながら、涙を流したり、わけもわからず取り乱したりすることもあった。炭鉱町でのリサーチである。炭鉱の労働は過酷で、この地でも何度か大きな事故が起きている。落盤や酸欠などで亡くなった方も多い。おまけに、あのころに現役で働いていた人たちもかなり高齢になっている。あと数年が、当事者に直に話を聞くことのできる最後のチャンスだと思う。だからこそあさかも、一言たりとも聞き逃すまいと当事者に向き合い、自分の命を削り出すようにして話を収集していたのだろう。


1957年ごろの白水町川平地区の写真(川平集会所にて撮影)

あさかは名古屋の出身で、都内の美術大学で演劇や舞踏を研究しているころ、別のプロジェクトのリサーチのためにいわきに来たタイミングで初めて会った。大学を卒業後は、千葉県にある造園の会社に所属しながらいわきでのリサーチを続け、2019年だったか、いわきの造園会社に転職してきた。ぼくとはひとまわり以上離れた年下の世代だが、なにしろ遠慮がない。あれからなんだかんだいろいろな仕事を一緒にしてきた。自分たちの表現に対してお互いに厳しいコメントをぶつけ合うこともあるような、そんな関係が続いている。

ただ、どういう経緯で白水のプロジェクトに関わったのか記憶が曖昧だ。「あさかってどういう経緯で関わったんだっけ?」と聞いてみたら、「何言ってんですか! リケンさんがイベントやるからなんかやって、とかいって無茶ぶりしてきたんじゃないですか!」と叱られた。ああ、そうだった。ぼくが声をかけたんだった。

なにごとも安直なぼくは、美大生に任せておけばなんかしらおもしろい作品つくってくれるだろうと考えていたのだ。それで声をかけたのだが……、大当たりじゃないか。まさかあんなにすごい大作を企画してくるなんて、やはりあさかは只者ではない。ぼくにも人を見る目があったということだろう。

上演時間10時間を超えるという作品から4年ほど経ったいま、あの狂気じみた作品をなぜつくることができたのか。芸術家という生き物はなにを考えてものをつくっているのか。改めて話を聞きたかった。あのころだったら整理して話せなかったと思う。月日が、ようやく語れる状態を作ってくれたと思えた。

「ううん、なんでしょうね」と、あさかは語り始めた。

「ああやって血走ってないといけなかったというのは、まずは私の問題だったと思います。作品を作らないと生きていけないというか、あの頃の私は、なんらかの作品をこの世に送り出す存在としてしか存在できなかった。作家にならざるを得なかったものと、イヤでも向き合わなければいけなかったんです。わたしがわたしにケリをつける、そういう作品だったとは思います」。

作家にならざるを得なかったもの。それはどういうことだろう。なんらかの作品を作ることでしか向き合えなかった傷とか、トラウマのようなものがあったのだろうか。

「業ですね」とあさかは言う。「人って、自分が生まれ落ちた瞬間から業を背負ってますよね。誰のもとに生まれるかとか、どう育てられたかとか。そういうことって自分では選ぶことができない。それが業と言えると思います。もちろん家族だけじゃなくて、どういう土地に生まれたかもあると思うんですけど」

いきなり「業」というスケールのでかい話が出てきて、「おお……」と言うことしかできないぼくを尻目に、あさかは語り続ける。


演劇のクライマックス。登場人物たちが地中に埋まっていく

「小学6年生の時に、それまでため込んでいたものが爆発してしまった時があって。理由をたどっていくと、両親の関係のことや、両家のこと、母親にどのように向き合っていけばよいかわからなかったことがあったと思うんです。起きてしまった爆発やその背景にどうやって向き合えばいいのか悩みながら、絵を描いてみたり音楽をやってみたり。自然と作品を作り始めるようになったんです。いくつか手法を試すなかで、身体やコミュニケーションを用いる身体表現の世界に惹かれて、大学でも学んでみたいなって思って、それを専攻しました。自分の抱えている業にどう向き合っていくか、それがすごく大きかったですね。私的な話ですけど」

「そうだったんだ」

「そういう時期に、リサーチでいわき市内のある神社に行ったとき、目の前に若い竹が生えてて、子どもから大人になる間のような竹だったんですけど、それに触ってしまってブワッと涙が溢れてきたことがありました。土地への回路みたいなものがバァッて開かれたような、いわきという土地に出会わせてもらったような感覚になったんです」

「土地に出会う……。でもそうか、さっきから土地に出会うとか、土地の話を聞くとか、そういう言葉が出てくるけど、その延長線上に、庭師とか造園業みたいな仕事につながるのか」

「そうですね。もともと庭師になりたいと思ったのも、土地への回路みたいなものを感じ取れるようになりたいって思いが根っこにあって。語り得ぬもの、語られ得ぬもの、言葉にならないもの、そういうものの声を聞きたいというのがありました」

語り得ぬもの、語られ得ぬもの、語ることができない思い。それを持つのは、なにも人だけではないだろう。植物や土地もまた、語り得ぬものを抱えている存在だ。そこにあって人と共に生き、歴史を目撃し続けてきたのに、彼らはものを語ることができない。あさかは、物言わぬ若竹に自分の姿を見出したのだろうか。あるいは、自然の声のなかに、語り得なかった自分の言葉を探していたのだろうか。いわきの土は、それこそ深く掘り続けたら、いつしか石炭層にぶつかってしまう。いわきと出会ったあさかが石炭や炭鉱町に行き着くというのは、とても自然な成り行きだったのかもしれない。

「しばらく関わって感じたことですが、炭鉱ってある意味、語られにくい場所になってるような気がします。炭鉱で生まれ育ったんだと堂々と口に出せないような。でも一方で、そこで暮らす人たちのなかには、それでも自分たちにメシを食わせてくれたのは炭鉱だという誇りもある。語りにくさとともに、誇りとか愛とかが一緒に存在しているようなところがあるんです。とても複雑だし、他者に容易に触れさせないものがあちこちにあるのを感じました。だから、私にできることは、それがなくなってしまう前に、話を聞いて、作品を作っていくことだなと」


塞がれてしまった坑。炭坑夫たちはここから地中深くに入り、石炭を採掘した

外からくる人たちに、土地の人のほうから何かを雄弁に語ることはあまりない。でも、共に時間を過ごすうちに、はっきりと明示されることはなくとも、語られる言葉の中から、そこにある誇り、矜恃のようなものが少しずつ見えてくる、ということならわかる気がする。集会所の飲み会に顔を出していた時にも何度かそんなことを感じた。日本の成長を支えていたという自負。豊かな暮らしがそこにあったんだというプライド。その一方に、寂れゆく地元に対する悲しみや、語ったところで共感してもらえないだろうという寂しさがある。地域に横たわった問題は「分断」などという言葉では表現しきれないものがあったはずだ。工場のまち、小名浜にもそれは言えるかもしれないし、原子力発電に関わった人たちも、それを支えた地域に暮らした人たちも、いや、被災したすべての人たちに、似たような思いはあったのかもしれない。だれもが饒舌なわけではない。語られることなく埋もれゆく言葉が多くある。

そして、だからこそこの地は、当時のあさかのような、なんともしがたいものを抱えた作家と響き合ってしまったのかもしれない。語られない言葉、念としかいいようのないもの。それが出会ってしまう。坑のなかで掘り起こされるのを待っている言葉も、あるのかもしれない。