第7回
若き作家と、常磐炭鉱の語り得ぬ念
2023年11月25日 公開
語られていることがすべてではない
ふと、これまでの自分の歩みのことを振り返った。ぼくは、かつてテレビ局の記者として働いていたことがあった。テレビ局の記者にとっては、目の前の人が語ったことがすべてだ。語ってもらっていないことは原稿に書けない。語られたこと、撮影できたものだけが、ぼくたちにとって真実であった。
けれど、語られていることだけがすべてではないとあさかは言う。目の前の記者が求めているような答えをしてしまうこともあるだろう。記者に期待されている言葉を、ほんとうはそう思っていないのに口走ってしまう、なんてこともあるだろう。この気持ちを記者に語ったところでこの気持ちはわかってはもらえないだろうなと最初から諦め、過剰にわかりやすく語ろうとする人もいるかもしれない。いやそもそも、取材を受けていない人のほうが圧倒的多数なのだ。語られている言葉ばかりを追いかけていたあのころを、少しだけ苦々しく思い出した。
「先にリサーチに入っていた光さんのおかげで、本当にいろいろな人と出会わせていただきました。そして、語ることができなかった言葉が、念みたいなものになって滞っているようにも感じたんですよね。本当なら、すっきりとしたかたちになって天に上がっていく。いくんだけど、語れなかったことで滞り、いまそこに生きている人たちにも影響していく。だから、いまこのまちで生きている皆さんが本来の姿ですごせるようになったら、という思いがありました」
念。わかる気がした。震災後、いろいろな場所で、復興のまちづくりを考えるシンポジウムとかワークショップとかが開かれたと思う。みんな、明るい顔で語っていたかもしれないけれど、どこかの偉そうな人たちが考えたプランをいきなり聞かされ、みんなで未来の話をしましょうなんてそそのかされて、一体どれだけの人が自分の素直な気持ちを語ることができただろう。
怒りや悲しみを抱えていても、みんなの空気を乱してはいけないとか、ネガティブな気持ちをぶつけてはいけないとか、遠慮して気丈に振る舞ったことで埋もれてしまった言葉や、こんなまちは自分のまちじゃないという諦めのような感情がきっとたくさんあったのではないかと思う。そういうものを、あさかは「念」と語ったんじゃないか。
念は、まちにも残る。作るまえには目玉だったのに、だれにも使われずに形骸化してしまったスペースとか、寂しそうに置かれた石碑とか、誰も手入れしてくれず、逆に本来の生命力を爆発させている林とか、「なぜここにこんなものがあるの」という意味不明なものとか、思えばまちには、そういうものがあちこちに残っている。
ぼくたちは、先人たちの血と汗がつくり出した地域で、○○家と××家の苛烈な闘争の後を生き、▲▲市長の残した負の遺産とともに暮らす。その昔だれかが袈裟斬りで斬られたかもしれない橋を渡り、巨大な復興予算が作り出した真新しいまちで新生活を始め、祖父が歩いたかもしれない坑の上を歩き、ぼくが歌った小名浜第二小学校の校歌を、ぼくの娘も歌う。そうだ。ぼくたちは念とともに生きている。供養されることなく残った念。それは、先人たちが残した「形見」と言えなくもない。
あさかたちが制作した『地中の羽化、百億の波の果て』のある場面に、ツルハシを持った炭坑夫が出てくる。彼は、不幸にも坑のなかで事故に遭った人たちを(その亡骸を)地上に引き上げなければならないと言って、つらそうな足取りでトンネルに入っていく。ぼくたち鑑賞者も、当時の炭坑で使われていた現物のツルハシを持たされ、演者とともにトンネルの中を歩いていく。彼はどんな気持ちで暗闇の坑に仲間たちを探しに行ったのだろう。あるいは祖父は、そんな仕事を引き受けたことはなかったのだろうか。
この辺りの炭鉱では、地質の関係で石炭を掘るほどに温泉が湧いてきた。坑内は蒸し風呂のように暑かったそうだ。熱中症で亡くなる作業員も少なくなかった。炭鉱の言葉で熱中症になることを「あかまる」という。小さいころ、母方の叔父に「こんな夏の暑い日に外で遊んでだらあがまっちまーがんな!」と言われたっけ。
作業員の困難は熱中症ばかりではない。ガスが発生して火災になったり、落盤事故などが起きることもたびたびあった。常磐炭田を扱った書籍やいわき市のウェブサイトをちょっと閲覧すれば、事故の痕跡をいくらでも辿ることができる。救われなかった命、地上に連れてくることができなかった命、まだ暗い坑のなかで眠る命のことを思う。
じつは、先ほど紹介したツルハシの炭鉱夫のエピソードは、現地での聞き取りがもとになっている。エピソードを話してくれた方を仮にSさんとしておこう。古い炭鉱町に暮らすSさんのもとを最初に訪れたのは、あさかと共にリサーチにあたっていた美術家の藤城光さんだった。光さんは何度も足しげく通い、当時の話を聞いていく。あるとき、あさかもリサーチに呼ばれ、二人で話を聞きに行ったときに、Sさんは話をしてくれたのだという。落盤事故や火災が起きたときに坑内の仏様を引き揚げてくるのがオレの仕事だったんだと。Sさんは、そのときガンを患っていた。そして、あさかたちにそのエピソードを明かした少し後にこの世を去った。
「光さんがSさんのところに入ったときには元気だったそうです。わたしは最後の1回だけしか会えなかったんだけど、なんとなくこれが最期かもってわかるご様子でした。でも、扉が開くのを感じました。光さんの思いもあったけれど、もしかしたら、光さん一人では背負いきれなかったかもしれない。わたしはいつも無邪気にそういうところに突っ込んでしまって、危なっかしいなと自分でも思うんですけど、だれかが目の前に現れることによって、なぜかこれまで語り得なかったものが引き出されてしまうことって、やっぱりあるのかもしれないとそのとき思いました」
この話を最初に聞いたとき、こんなことって本当にあるんだなと驚かされた。もしかしたらSさんは、その話を墓場まで持っていこうと思っていたかもしれない。だが、孫ほど歳の離れた若者たちが自分の話を聞きたいとやってくる。自分の死期を悟っていたSさんが、この若者たちならと自分の過去を話した可能性は低くない。語られ得ぬものが、語られる瞬間というのはやはりあるのだ。
「でも……」とあさかは熱っぽく話を続ける。
「炭鉱町って聞けば聞くほど大変だけれど、それでもみんなどしっと生きてるんですよね。語り得ないものを抱えていても、外から悲劇の地ように思われていても、悲しみや怒りに打ちひしがれているだけじゃない。それでも生きていく強さがあって。いや、それはだれだって同じかもしれない、みんな、自分の人生を生きるという傷を負ってるわけだし。でも、そこにあるのは悲しみだけじゃないんです」
炭鉱夫だった祖父も、その仕事ぶりとは裏腹に、自宅ではよく本を読んでいたようだ。ぼくが中学生の頃だったか。自宅の押し入れに、ビニール紐で結束された古い本を見つけた。古い小説や詩集、文芸誌などが一緒になってまとまっていた。母は「父ちゃんからもらった本だ」と教えてくれた。みんな表紙がすっかり茶色くなり、甘いカラメルのような匂いがした。祖父は、病床でもこれを読んでいたのだろうか。
母によれば、祖父は炭鉱が全盛の時代に茨城県の水戸あたりから一族を連れてやってきたそうだ。炭坑夫として家族の暮らしを支え、第二次世界大戦では、フィリンピンなど南方の戦線に送られた。無事に帰還したあとも炭鉱での仕事に戻り、働き続けた。作家たちの言葉に触れ、穏やかな気持ちで最期の時間を過ごすことができたと思いたい。
「その土地を支えてくれた人たち、そこで働いてきた人たち、もしかしたら、いま地中で骨かどうかもわからない状態でいる方々がいるかもしれない。そういう人に対する、なんっていうんでしょう、弔いの気持ちって、しようと思って生まれるわけではなくって発動してしまうものだと思うんです。大変だったけれど、作品を完成させることができて、自分の業にもケリをつけられた気がします。やるべきことはやれた。ようやくわたしの人生が始まったんだと思いました」