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連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

11

「災間の民」として生きる

2024年1月29日 公開

中途半端さと疎外感

 2011年の東日本大震災でも、ぼくは「テレビを見ているしかない」という似たような状況に陥っていた。原発が爆発し、不用意に外に出られなくなったのだ。家はたしかに被災地とされる地域に含まれるけれど、倒壊したわけでも家族が命を失ったわけでもなかった。避難所や仮設住宅で暮らし続けたわけでもなければ、原発に近い双葉郡の町村のように避難を余儀なくされたわけでもない。震災2日目には家に戻り、自宅でテレビを見ることができた。

 あれだけの揺れと恐怖を体験し、その後何日も水道が復旧せず、農業用の用水路から水を汲んでトイレに使っていた日々や、放射線への恐怖感で遠方から物資やガソリンが届かないような心細い日々を過ごした時点で「被災者」だと定義していいのかもしれない。実際、つらい時期はあったのだ。けれど、そんな状況は半月ほどで改善したし、すぐに日常の仕事に戻ることができた。言うなれば、ぼくはある一面では被災者だったが、別の一面では被災者ではなかった。「テレビに張り付くことしかできない状況」は、そんな「中途半端さ」と紐づいたものとして記憶されている。

 ぼくは震災後、さまざまな活動を始めた。今振り返れば、自分の中途半端さを埋め合わせたいという願望もあったかもしれない。商店街の空きテナントを借り、仲間たちとの居場所として活用しながら毎週のようにイベントを開催した。震災から1年後には、地元のかまぼこメーカーに転職した。転職して1年ほど後に、仲間たちと海洋汚染の状況を調べるための民間の調査ラボを立ち上げたこともあった。

 どの活動も、どの選択も、「被災地のために」したものではない。どれも自分勝手に、それがやりたい、必要だと思ったから始めたものだ。ありがたいことに、活動がメディアで取り上げられたこともあった。それを見て応援してくれる人も大勢いた。けれど、外の人たちは、ぼくたちの活動を「被災地での取り組み」にカテゴライズしていく。ぼくは「被災地で頑張っている男性」になった。それが少し苦しくもあった。

 なぜぼくの声がメディアに取り上げられたのかといえば、ぼくが周囲から「当事者」だと認識されていたからだと思う。かまぼこメーカー時代はそれが売上にも直結した。応援や支援はありがたかったし、おいしいよと励ましてもらえて商品に自信を持つこともできた。けれど、ぼくは外から求められる「当事者」であり続けることがつらかった。さっきも書いたけれど、ぼくは被災者と呼べる段階をすでに脱していたし、かまぼこメーカーの経営者ではなく、単なる勤め人に過ぎなかった。なにより、「真の当事者の声」を求める周囲に疲れてもいた。

 東日本大震災を契機に、多くの人たちがSNSを使うようになり、他者に対して自身の影響力を行使しようと考える人も増えた。そのときに力を持つのは「正しさ」だ。そして、正しさを追い求めようとするとき「当事者がこう言っている」という言葉のインパクトは強い。

 ある時期のぼくの投稿は、「福島の当事者の声」「現場の水産業者の発言」として一人歩きしていった。閲覧数やリツイート数がものをいう世界で、自分の言葉に力を持たせるために、あるいは誰かを非難するために、「当事者」の言葉は好き勝手都合よく持ち出され、本人の意思と関係ない方向で広がって論争を作り出す。そこかしこに「真の当事者」が出現し、語りにくさが生まれ、誤解や分断も生まれた。部外者であればこんなことを悩まずに済んだのだろうか。当事者と非当事者の間で、もやもやと悩む時間が増えていた。

 なんだか憂鬱な話ばかりになってしまうけれど、思えば震災後の数年、ぼくはこの「中途半端さ」に苦しめられたと言っていいかもしれない。

 ぼくは、こんな文章を書いてはいるけれど、自分のことをライターだとも作家だとも思っていない。書くこと以外にもめちゃくちゃ雑多な仕事をしている自分が「ライター」を名乗るのは本業の方に申し訳ない気がしたし、作家が集まる場は、なんだかちょっと居心地が悪かった。

 大学の研究者や専門家と震災について語るような場でも、ぼくは中途半端だった。学者ではないぼくに専門的な分析などできないし、ぼくが語れるのは経験しかない。むしろ自分の無知を曝け出すことになってしまう。逆に、地域の担い手が集まる場に招かれたとしても、ぼくの中途半端な立ち位置は変わらなかった。ぼくは、被災者として復興活動をしているわけでも、地域貢献を標榜している経営者でもない。業界内のコネクションもないから知人もそんなにいないし、すでにいい関係ができている人たちの輪に加わることも難しかった。ぼくが感じていてのは、そう、疎外感というやつだった。

 震災ばかりではなかった。社会で起きている問題に、それなりに関心があった。でも、自分は当事者本人ではなく、専門家として知識や情報を有しているわけでもない。その現場に駆けつけることも難しい。そんな自分が中途半端な立ち位置で関わってしまったら、かえって迷惑になるし、そもそも大した力にもなれない。自分のつらさなんて当事者から見たら小さいものだし、自分はまだまだ恵まれているのだから我慢しなければ。そう、二の足を踏んでしまっていた。自分は男性であり、若者から見れば年長者であり、強者であり、どこかで加害性を有してもいる。苦しいとか言ってもいられない。そしてなにより、こんなことで頭を悩ませていること自体が贅沢であるかのように思えてくる……。

 とまあ、かつてのぼくは、こんなふうに勝手に自分を苦しめていたのだけど、何度考え直してみても結局は中途半端な自分を再発見するだけだった。つまり、それが自分なのだ。どこかに加害者的な側面があって、けれどどこかで被害者の側面もある。ある課題では当事者であり、だけどある課題では当事者とは言えず、かといって無関心を決め込むわけにもいかないから、いろいろなことに興味関心を持つけれど、すべての社会課題に関われる余裕もない。そういう中途半端で、曖昧で、揺らいでいる自分をそのまま丸ごと受け止めてみるしかないし、そこで踏みとどまるしかないんじゃないか、と。

 なんなら、中途半端であることそれ自体に意味があるはずだし、当事者でも専門家でもないからこそ果たせる役割だってあるんじゃないだろうか。そう考えられるようになって、ぼくは「わたしの被災」を語っていいんだ、そうやって自分の立場から語っていかないと震災や原発事故の影響もわからないじゃないかと思えるようになった。そのプロセスで「共事者」なんて言葉も生まれた。共事者とは、つまり中途半端な人たちのこと。自分自身の中途半端さに意味を見出したくて、つまり自分をなんとか勇気づけたくて発明した言葉だった。