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連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

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「災間の民」として生きる

2024年1月29日 公開

あの頃とは違う、私たち

 1週間くらい前の、1月のある日の朝、ぼくはラジオニュースを聞きながら、愛犬ウイの散歩をしていた。ウイはビーグルの女の子。1歳半だ。ウイのおかげで、ぼくはまた小名浜の「まち歩き」を楽しめるようになった。朝の散歩はぼくの担当で、コースの選定も自由。いつもは登校する娘と一緒に学校まで行って、そこから近所の市民会館のそばを歩くか、工場のそばを通って海に出て家に戻る。今日は工場ルートだ。娘を登校班の集合場所から送り出してすぐの午前7時20分。工場街にある東邦亜鉛という工場の貨車をいくつもつなげた貨物列車がガシャガシャと通過していく。ウイはぐいっと身を乗り出してそれを見届ける。


小名浜のまちを見つめるウイ。ぼくのまち歩きの相棒だ

 そのまま10分も歩けば、水族館「アクアマリンふくしま」の目の前の海に出る。この海にはずいぶんと助けられた気がする。自分の中途半端さが、どこかでこの小名浜というまちに通じているように感じられて、それでいいんじゃないの? と受け止めてもらえた気がしたものだ。

 東北にも関東にもなりきれない場所で、東北随一の漁業のまちにも、福島随一の観光地にもなりきれない。美しい海があったかと思えばすぐそばに猥雑なソープランド街が広がってるし、他県に自慢できるようなわかりやすいグルメアイコンもないけれど、チーナンのラーメンや、Y社長が買い付けてきたサンマといった地域に根付いたものならある。

 砂浜を潰し、神社を移し、そこにできた工場群は灰色の煙を24時間吐き出しながら、だれかの便利や快適を無言で支えている。そしてその背後に「東北のハワイ」の海と空。そこには港があって、世界に開かれている一縷の望みが広がっている。なんと言えばいいのか、誇らしさと情けなさと、矜持と忸怩たる想いと、その両方が重なり合う、そんな小名浜の景色。

 「愛するふるさと」なんて大袈裟なものでもなく、自慢できる地元でもない。ああ中途半端の極み、小名浜。でもそれこそぼく自身であり、ぼくの中に小名浜は流れている。

 このまちで出会った「ピープルズ」たちにも助けられた。友人や先輩後輩だけじゃない。妻、つるちゃんもその一人だ。つるちゃんは、ここから外に避難する人が多かった2011年の5月に小名浜にやってきて、風評被害に苦しむ地元農家を支援する仕事を始めた。その次の3月には「被災者ではない」ことを理由に契約更新を拒否され突然クビになったけど、それにもめげず、今度はいわき駅そばの復興飲食店街の事務局で働き始めた。仕事の内容だけ見たら復興支援の本流だ。

 でも、結局、つるちゃんは「被災していない人」だった。あのころ、地元の人たちのコミュニティをつないでいたのは、あの揺れと混乱を体験したという「被災体験」そのものだった。「被災していない」立場には、何重にも「よそ者」の意味が重ねられていたと思う。我が小松家にとっても、つるちゃんは「よそ者」であった。婚約はしていたし、うちの両親もサポートしてくれたとは思うけれど、あの混乱する時期にたった一人で小名浜に移り住み、まったく文化の違う(そして個性の強い)うちの両親と渡り合わねばならなかった。あの頃は、いわゆる「針の筵」状態だったにちがいない。

 「いや、そんな感じではなかったかな。大袈裟だよ」とつるちゃんは当時を振り返る。あのころの話題をいくつか振ってみたけど、「知らない場所で知らない仕事するのっておもしろかったし。悲壮感漂わせて生きてたってしょうがないじゃん」とまったく意に介してない様子だ。

 「いやいや、あの頃そんなことなかったでしょ」とぼくは返す。ぼくは相変わらずの不安定な状況で、勤めていた会社を辞めちゃうわ、転職したかと思えばそこも数年で辞めちゃうわ、そのあとすぐに独立しちゃうわで本当にせわしない日々。そうそう、その間につるちゃんはなんと娘も生んでいる。実際、ほんとうに大変な時期だった。

 けれど、いま思い返すと、その時々の大きな決断に際し、つるちゃんはいつだって「人生は1回きりだからやりたいことをやるべきだ」と背中を押してくれたし、大きな買い物をするときにも「お金なんて墓場に持って行けない」と気前よくオッケーしてくれた。なにこのこの潔さ。曹洞宗の教えにそういうものがあんの? とぼくはよく思ったものだ。

 うちの食卓の傍に、つるちゃんの両親、僧侶であり高校教師でもあったお父さん、小学校の養護教諭だったお母さんの写真がある。二人には、もう写真でしか会えない。ぼくたちが結婚してほんの数年のうちに、二人とも病気であの世に行ってしまったのだ。

 「あの時は、自分のホームがなくなった感じがしたよね。実家はあるけど、親孝行できたかもしれない親はいない。土台が揺らぐ感じがしたな。でもさ、うちの両親みたいに退職したら人生楽しもうと思って頑張ってきたのに、死んじゃったら楽しめないじゃん。やっぱり楽しめる時に楽しまないとダメだなって思ったし、生きているうちにやれることやりたいよね」

 つるちゃんは、あの頃はこんなふうにポジティブには語ってはいなかった。毎日顔色が悪かった。ぼくも不安定だったからよくケンカもした。大きな喪失感と悲しみに向き合ってきたはずだ。被災地では「中途半端な人」だったかもしれなないけれど、親を立て続けに二人失うという「当事者」でもあったのだから。でも、今このタイミングで振り返れば、あのころの記憶は、また違うものになっている。「3年くらいでなんか転機があって、心機一転また1から始めるぞって刺激があったじゃん」と振り返り、最後にこう言った。「あの頃は確かに辛かったけど、あの時の私と今の私は違うってことだよ」。


妻のふるさと、新潟県加茂市上土倉

 人は変わる。それは希望だ。今、考えが異なっていても、今、意見が合わなくても、今、辛く悲しい気持ちがあったとしても、人は変わることができる。そうして変化を実感できるだけの時間を共に過ごした人たちが、ぼくにとってのピープルズなのかもしれない。

 そして、こんなことも考える。被災者ではないけど被災地に生きている。被災地に生きているわけではないけど土地に思いを寄せている。被災とは別の、でも似たような悲しみや苦しみを感じている。そんな「中途半端な人たち」が、ぼくたちの身近なところにたくさんいるということを、ぼくたちは忘れてはいけないと思う。

 海沿いを吹く風は冷たい。でも、思い出でぼんやりした頭につんとした冷気が送り込まれたおかげでなんだか気持ちがいい。小名浜も、南端だが東北ではあるのだ。

 ウイはさっきから、鼻を地面に近づけてクンクン匂いを嗅ぎながら歩いている。ウイは鼻で、そして匂いで、ぼくらとはちがう感じ方で小名浜を味わってるんだなあ。ウイには、どんな小名浜が見えているんだろう。

 ウイと散歩するようになって、近所を歩く回数がめちゃくちゃ増え、あちこちに形見のようなものがあるのに気付かされた。あちこちに今も残る同級生の家、小6の時にエロ本を拾った土手、チャリで走り回った田んぼ沿いの道、エアガンをぶっ放して遊んだ廃工場、たんちゃんと通いまくった場末の中華屋、行ったことがあるかは教えられないソープランド、ほったて小屋の立ち食いそば屋。歩いた先々でぼくは風景を見ている。けれど、ぼくが眼差しを向けていたのは人の顔だった。

 「ウイちゃん、小名浜はどうだい?」とぼくは問いかけたが、ウイは匂いに夢中でぼくを見ることもなくグイグイと引っ張った。歩いた分だけ、ウイとの思い出もできるだろうか。


近所にある工場の入り口。愛犬の散歩コースだ