第11回
「災間の民」として生きる
2024年1月29日 公開
ピープルズと共に
ラジオでは、再び能登震災のニュースが伝えられていた。ようやく孤立していた世帯へ支援が入り、避難所などの態勢が整ってきたということだった。だが、まだまだ被害の全容がはっきりとは見えていない。火災にも見舞われた能登市、住宅の多くが倒壊してしまった珠洲市、数メートルも地盤が隆起し、海岸線が変形してしまった輪島市の沿岸部。きっとそこにもピープルズたちがいたはずだし、それぞれのふるさとがあったんだよな、と思う
今後、仮設住宅が建てられることになるだろう。そして復興住宅や復興商店ができる。復興のシンボルになるかもしれない「コミュニティセンター」みたいなものも、たぶん建設される。つまりまちは「復興」のフェイズに入っていく。
復興とは、ぼくたちにとって「非日常」だった。会ったこともない人と出会い、新しい建物が次々にできあがり、それはメディアに取り上げられて県外にも伝えられる。まるで祭のような賑わいと高揚感を地域にもたらし、新しいつながりやコミュニティを作り出していく。災害を「ユートピア」という言葉を使って説明した作家がたしかアメリカにいたんじゃなかったか。わかる気がする。
その結果、望んだ通りの復興になるかはわからない。むしろ、そうならないことのほうが多いんじゃないかと思う。災害でまちが一度破壊され、新しいまち、でも知らないまちがそこにできることで「こんなの自分のふるさとじゃない」と二度目の喪失感を味わう。むしろこっちのほうが現実なのだろう。でもそこからが本番だ。ぼくたちは、災いの後、祭の後をしたかかに生きなければならない。
見慣れないふるさとだとしても。やがて、そこに暮らす人たちの間で挨拶が交わされ、外からやってくる人たちや、新しく生まれる人たちとの関わりができていく。祭の後の日常の繰り返しが、そこに新しい思い出をつくりだすのだ。復興したあとも、それは続く。ぼくとピープルズたちとの物語もまた、祭のあとの日常から紡がれたものだ。
この国で復興の後を生きていない人はいない。過去の内戦、二度の大戦、巨大な自然災害、歴史に名を残す公害、あるいはコロナ禍。ぼくたちは、いつだって災禍の後を生きている。いや、次にまたどこかで災いは起こるのだとすれば、ぼくたちは皆そろって「災間の民」だ。その、短いかもしれないし長いかもしれない災間に、ぼくたちは生きている。
遠くに見える小名浜精錬所の紅白の煙突は、いつも通り青い空に向かって伸びている。ぼくはこの煙突を見て育った。ここが砂浜だった時代もあったけど、やっぱり工場でよかったのかもしれないとぼくは思う。生まれ育ったこのまちを、このまちで育った自分を、どこに生きていても、どこで暮らしていても引き受けていくしかない。ああ、これが、あさかが言ってた「業」ってやつか。
どこに住んでいても、災と災のつかの間の時間だとしても。小名浜を、ぼくなりにでいいから何度も語り直していけばいい。後から振り返ったとき、あの時の辛い思い出も、またきっと違ったものになっていると思う。語った数だけ、そう、この文章があなたに読まれた数だけ、ぼくとピープルズたちの小名浜は広がり続けていく。
(お読みいただきありがとうございました! 本連載は2024年夏頃、加筆のうえ里山社より書籍化予定です。書籍のほうもどうぞよろしくお願い申し上げます)
(了)