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連載読みもの

小松理虔「小名浜ピープルズ」

10

重なり合う〈ふるさと〉

2024年1月15日 公開

仮初めの地元で

 二人が東京を離れてやってきたのは、ぼくの家から車で10分くらいのところにある泉というまちだった。震災のあと、泉は急激に人口が増えたまちだ。双葉郡からいわきへと避難し、仮設住宅や復興住宅などで暮らしていた人たちが泉で家を構えたのだ。「もえぎ台」という高台のニュータウンには次々に家が建ち、毎年のように全国トップクラスで地価が上がっていたし、ちょっと前まで田んぼばっかりだった「定の田(さだのた)」という地区は、田んぼがガンガン潰されて、あっという間に住宅地になった。子どもの数も増え、小学校や中学校は、いわきを代表するマンモス校ばかりである。

 原発事故でふるさとを失った人たちと、修ちゃんたちのようにフットワーク軽く新しい暮らしをつくるためにやってきた人たち、背景がまるで異なる人たちが、泉というまちには大勢暮らしていたんだな(おそらく今もなお)、ということに改めて気づかされる。もしかしたら、赤宇木から避難してきた人だっていたかもしれない。泉には、震災と原発事故が作り出した人の渦がある。そのなかで暮らす人たちのことを考えてみる。

 たとえばある日の朝、ゴミ捨て場で「おはようございます」と声を掛け合う。たとえばある日の夕方、犬の散歩中に「こんにちは」と挨拶する。かたや、ふるさとを失い、家を奪われ、先祖とのつながりを切り断たれた人がおり、また一方には、この地に希望を見出して新生活を始める人がいる。同じ風景のもとで出会った「ご近所さん」の間には、実は埋め合わせ不可能なほどの断絶があったのだろう。


大熊町に新しく完成した特定復興再生拠点。このまちも誰かにとってのふるさとになっていく

 けれどその一方で、このまちで暮らすうちに、短期間でも、仮であっても、新しいまちに対する愛着や人々の交流が生まれ、断絶や傷跡を埋め合わせてくれるかもしれない可能性に希望を見出すことも、あるかもしれない。

 修ちゃんときゅうちゃんは、泉からいわき市の別の地区に引っ越し、さらにテレビ局のある福島市へと転居した。二人にとって泉というまちはいかにも「束の間の地元」であっただろう。一方、双葉郡から避難して家を構えた人にとって、泉とは新しい地元ではあるが、ふるさと呼ぶには愛着も思い出も足りない。どちらにとっても「中途半端な地元」だ。

 それでも、その中途半端な地元で過ごした時間や風景が共通の記憶になり、異なる背景を持つ移住者たちの断絶を縫い合わせるワッペンのようなものになるとぼくは思いたい。そこで見た風景、時間、あいさつ。そういうもので作られている、仮の地元。ふるさとほど重くなく、尊くもない。だが縛られることもない。頼りないかもしれないけれど、どこか軽やかな地元が、止まるのではなく、流れている……。抽象的な表現だけど、そんな「流れていく地元」みたいなものが、泉にあったのではないかと思うのだ。

 それがいいとか悪いとか、戻るとか戻らないとか、地元民と移住者のあれこれとか、そういう話をしたいんじゃない。木田家のこれまでのあゆみ、あのドキュメンタリー、そして泉というまちは、ぼくに改めて「ふるさととはなにか」という問いを突きつけるのだった。

 修ちゃんは、赤宇木というふるさと、そこに建つ家を理不尽に奪われたご主人に密着し、その苦しみ、悲しみを真摯に伝えた。ふるさととは、地元とは、かけがえのないものであり、そこに暮らす人たちの人格の一部になっている。まさに尊厳に関わる問題なのだと、番組を見てぼくは改めて強く感じた。けれどその一方で、修ちゃん本人は転職や転居を繰り返し、転がる石のように暮らしている。なんと説明すればいいだろうか、修ちゃんのなかで、「強いふるさと」と「弱いふるさと」、それが両立しているようにも見えたのだ。もし修ちゃんが「ふるさとなんて重いもの、持たなくていいじゃん」と思うような人だったら、あんなドキュメンタリーはできないはずだから。

 「修ちゃん、ふるさとってのは、なんだろうね」とぼくは聞いた。

 「うーん、なんでしょう。そういえばきゅうちゃんは、ふるさとは何個あってもいいって言ってた気がするんですよ。最初に住んでた高円寺は二人とも好きなところで、大好きな友達もいました。だから高円寺もふるさと。いわきもふるさとだし、きゅうちゃんとはネパールで知り合ってるからカトマンズだってふるさとです。きゅうちゃんが生まれ育った大玉も、自分の育った大鰐もふるさと。うちなんて大鰐のはずれですから。ほんと、ものすごい田舎。だから、自分と土地とを切り離せないという人の気持ちは、よくわかるつもりです。その人たちに『ふるさんとなんて何個あってもいいじゃん』とは言えないですよ、もちろん。でも、こうしてなんか話してると、この感じって、その土地を離れてから思うのかもしれないっすね。まだ福島市をふるさとだとは思えてないけど、離れたときに、うわー懐かしいなって思うものなのかもしれない。離れた数だけ、ふるさとができるっていうか」

 「ああ、そうか、ふるさとって、あとから振り返ったときに生まれるもの、そう捉えることもできるってことか」。

 ぼくはぼんやりと返事をした後、こんなことを考えた。離れた数だけふるさとができるというのは、転職や転居を繰り返してきた、いや、繰り返さざるを得なかった修ちゃんならではの考え方かもしれない。そして、その考え方は案外悪くないな、と。

 いま、ぼくは小名浜に暮らしている。生まれ育ったまちだし、今はそこを拠点に活動もしている。愛着なんてレベルではなく、ぼくと切り離すことなんてできない地域だ。もし、国から「金を出すからよその土地で暮らせ」と言われても、首を縦に振るつもりはない。けれど、この先にまた新しいふるさとができるということにも惹かれる。だって、小名浜みたいな場所がもうひとつできるってことだから。そしてそのほうが、この小名浜での暮らしを思う存分、楽しめそうな気がするのだった。


小名浜の風景も、誰かにとってのふるさとが重なりあっている

 「ふるさとが増えるってことか。それはアリかもね」とぼくは答えた。そこからしばらく、ぼくと修ちゃんとのやり取りは続いた。

 「結局、どこに住んでいても、自分はものを書く『記者』でありたいと思ってますし、取材できればそれでいい、みたいなところはあります。だから、書くことが続けられるんなら別の職業だって構わないのかもしれません。書くテーマとか題材って初めからあるわけじゃなくて、それは行った先で増えていくもんだし、行った先で掘ればいいって思うんすよ」。

 「そうか、自分でこれを書きたい、こういうメッセージを届けたい、っていう明確なものが最初にあるわけじゃなくって、行った先で生まれてくものを信じるみたいな?」

 「そうっすね。いわきのアートプロジェクトに記録員として関わったとき、芸術家がいろいろな人に引き合わせてくれて、記録を残してるうちに作品になった『熱源』って文章とか、出会ったものを掘ってって、掘っていったらこれだけのものが語れた『ある家の記録』もそうです。いや、つうか大体、福島市に行ったのだって、リケンさんが『福島に行け』って言ってたからですよ!」

 あああ、そうだったそうだった。ぼくが福島市に行ったほうがいいよとアドバイスしたんだった。人の運命を変えるかもしれない岐路で、どうもぼくはあまりに軽く「やる方向」に背中を押してしまっているようだ……。

 「でも、おもしろいなって思うんです」と修ちゃんは話を続ける。

 「井戸みたいなんすよね。掘るほどに書ける。この地域は何もないって聞いてたけど、いわきだって福島だって、浪江だって、必ず出てくる。人なり場所なりを掘っていけば、必ず行き当たるんです。掘ってるうちに、掘り当てたものを引き受けてもいて、でも自分で勝手に掘ってる。書くのは自分の意思なんだけど、出会うものとは偶然っすよね。それに、掘ってる間、人の話を聞いてる間、作ってる間、自分も更新されていくし変わっていくんですよね。つまり作品を作ることで変わっていく感じ。話を聞くほど、自分の言葉は不要になって相手の言葉だけになってく」

「ああ、最良のドキュメンタリーは、登場人物の語りと環境音だけで構成されてるもんだってオレも教育されたわ。それが撮れてないと、どうしてもアナウンサーの語りで説明したくなっちゃうけど、あれと同じだ」

「そうなんすよ。編集は自分でするし、自分で文章も書いていくけど、究極的には相手の言葉だけになっていくっていうか。彫刻って石を削って作品を作るじゃないですか。それと同じ。盛り付けていくんじゃなくて、元々ある石を削っていって、多分、この人が伝えたいことはこれだって、それが残ってくる。だから、原稿はなるべく自分を入れない、自分を書きすぎないようにしてます。その分、一文一文の密度を濃くしていく。短い文の中に、いくつの要素を入れていけるか。テレビって、映像になってないものは語れない。かといって、映像にならないことでも事実はあるわけじゃないすか。ドキュメンタリーも執筆もどっちも不十分。だから両方やりたいんすよね」

 掘ったら掘ったで、人も地域も、いろいろなものが見つかる。「見つける」んじゃなくて「見つかる」んだ。それが後から振り返った時に、作品になり、そして「ふるさと」になっていくのか……。修ちゃんの「創作論」は、そのまま修ちゃんの「ふるさと論」になっていた。